迷い風
まだ夜も明けきっていない朝もやの中、日々川の流れが海に流れ込むように、このチャイニーズタウンの公園には多くの人々が誰が誘うともなく集まってくる。
フランスの中であってもここは中国であった。中国本土でそうであるように、ここでも皆が集い太極拳が行われていた。
すでに20人以上集まっているであろうか、ほとんどの人がすでに還暦を迎えているようであるが、誰もが若若しく年齢を感じさせずにいる。
そんな公園の片隅の方でベンチに座ってその様子を見ているひときわ年取った老人がいた。
このチャイナタウンの生き字引といわれるヤン・スーウェンである。誰も正確な年齢は知らないがすでに90歳は過ぎているはずである。
ショウの傍らには、10歳になる少年マオがいた。彼は生まれたばかりに捨てられて、それ以後ヤンに育てられた。
ショウとマオもゆったりとした動きで太極拳を行っている。はじめのうちはマオの動きを見ながらやっていたのだが、今では体が勝手に動くようになっている。
ショウの動きにヤンのする同視線が注がれる。時折呼吸が乱れているなどの指摘が飛ぶ。すでに30分はやっているが、ショウは息を乱すことなく汗ひとつかいていないが、マオの方はすでに汗が流れ落ちるほどてあった。
毎朝休むことなく、これを1時間行なってから朝食を食べることが日課となっている。
家に帰るとヤンのひ孫になるミンメイが朝食を作って待っていた。彼女のはヤンの孫である父とフランス人の母の間に生まれたのだが、今両親は仕事の都合でパリに住んでいるので、ミンメイは曾祖父であるヤンの家から学校に通っている高校生である。
朝食は毎日ヤンの好みでおかゆが主体の中国風のものである。
マオと無邪気に話しながら食事するショウを見つめるミンメイの眼差しには女の感情が秘められていた。ヤンはそんなことはすでに気づいていたが、全く分かっていないふりをしているようである。この時すでにヤンはショウの正体を知っているようなところがあった。
朝食の後は、ミンメイとマオはそれぞれの学校へ向かい、ヤンとショウはヤンの持つカンフー道場へ行き、ショウはヤンにみっちりと仕込まれる事となる。
ヤンはショウの素質に完全に惚れ込んでいた。今までに出会った誰よりも優れていた。そしてまた彼は素直で、ヤンの教えたことを何の躊躇もなく自分の物にして、またそれを理解して、自分の中で対応する、というまさに1を聞いて10を知ると言っても差支えないものである。
まだ彼と出会ってから2か月ほどしか経っていないのだが、まるで新しい自分の孫のようにかわいがり、そして厳しく鍛え上げた。
今日もまた厳しい練習を行うショウ。
それを見ながらヤンはつぶやく。「昨夜なにかあったようだな」
ショウは動きを止めることなく、もくもくと足首を鉄棒にひっかけてぶら下がった状態で腹筋を鍛え上げる。そのしたにはショウの汗がしたたり落ちて大きな浸みを作っている。
ショウ自身が今日の詩文がおかしいというのは一番わかっている。だから今日は徹底的に筋トレ中心のトレーニングになっている。
ヤンもあえてそのことに何も言わず好きなようにさせている。しかし、あまりにも思いつめたような表情を時折見せるショウが気になってしょうがないのだ。
今では本物の孫よりもかわいいと公言してしまいそうなほどショウの事が気に入っているのだ。しかし、今日はヤンの好きなショウの笑顔を見ることができないでいる。
朝食の時も、マオが昨夜の女性は誰なのかしきりに尋ねるのだがはぐらかしてばかりでミンメイに聞かれないようにやたら気を使っている。
色々と気にかかることはあるのだが、男として師匠として、あまり聞こうにも聞けず、本人が話す気がないのであれば仕方がないと思っていた。
ヤンは何も言わず道場の中心へスゥーと流れるように移動する。
ショウはタオルで汗を拭って、ヤンに対峙する。
ヤンはだらりと両腕をたらしたままて゛何の緊張感もなくただ立っている。が、相対するショウの額からは粒のように汗が浮き出る。ただ立っているようにしか見えないヤンから湧き上がってくるような重圧がショウの体に、精神に重くのしかかる。
ショウは自分の体の全面で手のひらを泳がせるようにしてその重圧を払いのける。
トン、と軽い音を立ててショウの体が宙に浮く、そしてその体が地に着いた、と思ったその刹那ショウの体は弓から放たれた矢のようにヤンに向かって飛んで行った。
低空飛行のツバメのように、ヤンの足元から湧き上がるように蹴りが飛ぶ。
だが、しかし残像のみをのこしヤンはすでにそこにはいず、勢い余ったショウは一回転して床の上に丸まるように身構える。
ヤンの右足がショウの頭上から頭部をめがけて突き刺さる。
ショウは転がり一瞬の差でよけた。
二人は再び間合いを取り立ち向かう。
ショウは右ほおに流れる血を手の甲で拭い取る。
「今日はもうやめておこう」
そう言ってヤンは踵を返して奥の部屋へと消えて行ってしまった。
一人残されたショウはジッと床の上を見つめていた。