薫風
ナポレオン・ボナパルトが眠るアンヴァリッドから西に細い路地に入ると、ロダン美術館がある。その道向かいにある一軒のフランスレストラン。パリの中でも指折りの名店である。
今日は、特別な日である。この日のためにクルベールは、この特別なテーブルを一か月前から予約していた。そうでもしないと席が取れないほどこの店は人気がある。
店内は明るく、木の素材を生かしたモダンな造りで高級レストランの雰囲気を残しつつゆったりとした気持ちになれる。まるで友人の上品なダイニングに招かれたような気持ちにさせてくれる。
サービス達も明るく、それでいてプロの接客をしてくれる。目が合うとニッコリと笑い、それでいて客が自分を必要としているのか否か、一瞬で見抜いてしまう。
そして、気づくと知らぬうちにワインや水が注ぎ足されているのだ。
そんなレストランのテーブルについたクルベールが、テーブル越しに見たのは、この世で最も美しいと言ってはばからない自慢の娘、リシェールであった。
今日は特別な日、そう今日はリシェールの二十回目の誕生日なのだ。
クルベールはアペリティフにキールロワイヤル、リシェールはベリーニを頼んだ。両方ともアペリティフとしてポピュラーなものだ。
食前のつかの間の時間、店の雰囲気を楽しみながら飲むアペリティフ、娘の嬉しそうな顔に心が和む。このところ落ち込んだ表情しか見せなかったので猶更であった。
席についてアペリティフを注文し、和んだ気持ちで食前の時間を過ごしやっと落ち着いてくるとギャルソンがワインを持ってくる。
今日は食事もワインも金額ではなく欲しいものを注文した。
まず来たのは白ワイン、ブルゴーニュのコルトン・シャルルマーニュの89年物である。白ワインにして赤ワインに負けないほどのしっかりとしたボディーを持ちながら繊細な香りとさわやかな後口を持つ、ブルゴーニュでもトップクラスに位置する白ワインである。
まずはクルベールが注文したワインに間違いがないか、ソムリエが差し出したワインボトルのエチケットを確認する。クルベールが軽くうなずくと、ソムリエは彼のグラスにほんの少量ワインを注いだ。
クルベールはグラスを持ち明かりにすかすように少し緑がかってきた黄金色の白ワインの色を楽しみ、ほんの少しグラスの淵から鼻を突っ込み香りを楽しむ。芳醇な大地と降り注ぐ陽光のなしたその芸術品をすべて洩らさないようにゆったりとした仕草である。
そして、初めてワインを口に含む。飲むのではなくほんの少し口に含み、下を使って口の中で楽しみ、口先をとがらすようにしてワインがこぼれないように口の中へと空気を吸い込み口の中でワインにたっぷりと空気をなじませてゆっくりと喉の奥へと誘う。
柔らかく、力強くもあるその香りが一層食欲を湧き立たせる。
リシェールはにっこりと笑った。
それを見てクルベールも自慢げに笑った。
まず二人の前に登場したのは、オードブルである。新鮮な帆立貝を生のままスライスして、イタリアンパセリ、セルフィーユ、小さく切ったトマトを散らし、酸味の効いたオリーブオイルのソースのかかった、とてもシンプルなカルパッチョであった。
クルベールは生の帆立貝とイタリアンパセリの絶妙なマリアージュに今更ながらに驚いた。
それから魚料理はブルターニュ産のイセエビのポワレアルモニック風味、メインの肉料理には小鳩のロティー栗ときのこを添えた、グロゼイユソースと絶妙なタイミングで料理が目の前へと運ばれてくる。
もちろん赤ワインも忘れてはいない。これもまたブルゴーニュの有名なクロ・ド・ブージョを頼んだ。しっかりとしたミディアムボディーに嫌味のない苦みと酸味、そして豊かな土の匂いを思い起こさせる香りに絶妙なバランスに、料理もそしてチーズもより一層の旨味を引き出させる。
至福のひと時である。
クルベールはデザートのトマトと赤い果実と木の実のオーブン焼きをつつきながら懐かしそうに昔話をしていた。
幼い頃リシェールと行ったエトルタ海岸、モンマルトルで仏頂面で似顔絵を描いてもらったことなど、色々あった。
20年である、ずっと娘を見守り続けた父親が目の前にいた。楽しそうに話す父を見るのは初めてのような気がする。
自分が女の子だと意識し始めると、自然に父との距離を測り始めて少しずつ離れて行ってしまっていたことに今更ながらに気づく、でも父はずっと見守ってくれていたのだと実感することができた。
「パパ、こんな素敵な誕生日をむかえることができるなんて私って本当に幸せな女の子ね!」
そう言うと、テーブル越しに身を乗り出してクルベールの頬にキスをする。
思わぬ出来事に思わずクルベールは頬を赤らめる。少し照れながらクルベールはポケットから小さなケースを取り出した。レースは新しいものではなかったが、大切に保管されていたのが分かる。
リシェールが蓋を開けると指輪が入っていた。手に取って見る、見覚えのあるものであった。いつも父がネックレスにして肌身離さずつけているものであった。
びっくりして父を見る。
「お前の母さんの物だよ」
それを聞いて再び驚くリシェール。父の話ではリシェールの母は幼い頃に死んでしまっていた。
「母さんとの約束なんだ、お前が20歳を迎えたらこの指輪をプレゼントする」
「ありがとう」
そう言って、左手の薬指にはめてみる。サイズがぴったりであった。
視線の先には満面の笑みで自分を見つめる父の顔があった。よく見ると瞳が潤んで揺れている。
リシェールも笑いながら涙を流していた。