哀風
一人で帰ってきたリシェールを見た時、クルベールの胸は締め付けられるように痛かった。そして強く後悔した。
あの時二人で旅行に行かせなければ、リシェールがここまで傷つくことはなかったのではないだろうかと・・・。
リシェールはあの日以来、あの輝くばかりの笑顔を失ってしまった。何とか笑顔を見せようとするが、顔は笑っていても、心は悲しみの沼から出ることができずもがき苦しんでいるようだ。
なんとか仕事で悲しみを忘れようとするのだが、こんな状態でモデルの仕事が十分こなすこともできず、身動きができずどうにかなってしまいそうなほどリシェールは傷つき疲れ果てていた。
そんな様子の娘を見て、ショウへの怒りが湧いてきてもおかしくはないのだが、クルベールには一切それがなかった。全くなかったかと言えば、少々の疑問が生じるであろうが、この出来事についての結果はある程度予測していたことであり、自分から勧めたことである。
それに何より、ショウのことがかわいくてしょうがなかったのである。
リシェールと同じぐらい愛しているか?と聞かれれば、それはあり得ないとはっきり言えるだろうが、ショウは自分の息子だとも思っていたほどであった。
かわいかったからこそ、憎しみが倍増してもおかしくはないのであろうが、ショウもまた苦しみ喘ぐようにして今回の結末を引き出したに違いないのだ。
そんな結末を導き出すしか仕方がなかった、ショウの気持ちを思うとクルベールの心もまた疼いた。
彼もまたショウと同じような決断に迫られて、悲しい結末を選ばずにはいられなかった過去があった。だからこそ、クルベールにはショウに対して憎しみという感情が生まれてくることはなかったのだ。
クルベールは悲しみの陰がかかったジョルジェットの顔を見るたびにそんなことばかり考えていた。
苦悩している二人の親子を傍らから見守る白髪の紳士。ベアールである。
クルベールとの関係は定かではないが、リシェールは父と子の男の手によって育てられたと言っても過言ではない。
常に寡黙な男であるが、この男が口を開くとそれは重みのある一言となり誰もを納得させてしまう。
無口で暗い印象を受けるかもしれないが、客に接する時はいつも朗らかで、笑顔を絶やさず、普段の無口なベアールはどこへ行ってしまったのかと思えるほど冗談を言ったりして客の心を引き付ける。
このレストランに来る客は、クルベールの料理の腕前もあるだろうが、そんなベアールの人柄によるところも少なくない。
今日も忙しく働き、店が閉まりクルベールは若いコックが帰った後、厨房の片隅に設けてあるシェフルームでいつものように、ロアールの安い赤ワインを微炭酸ミネラルウォーターで割って飲んでいる。
彼は日中これしか口にしない。
たまっていた伝票の整理も何とか済み、二敗目を作ろうかと立ち上がりかけた時、開けたままのドアをノックしてベアールが入ってきた。
彼が持ったトレーの上にはアイスペールと二つのグラス、そして上等のアロマニャックがのっていた。
意味ありげな笑顔でトレーを置き、自分の椅子をクルベールの側へと引っ張ってくる。
椅子に座ると、ベアールは静かにグラスに氷を入れ二人分のアロマニャックのロックを作る。
ベアールはグラスを持ち、カランと軽くグラスを回し、長年狭い瓶の中に閉じ込められていたアロマニャックが何十年ぶりに解放されて開花している芳しい香りを鼻から胸いっぱいに吸い込む。
瞳を閉じ、最愛の人に再び巡り会えたような恍惚とした表情をするベアールをクルベールはじっと見つめていた。
毎日のようにここでグラスを二人でかたむけているが、この男ほど酒とうまく付き合い楽しんでいる男がいるであろうか。
ベアールはグラスを明かりに掲げながら、
「今日は特別なアロマニャックをあけたんだ、乾杯しよう」
と静かな口調に喜びを込めて言った。
「何に乾杯するんだ?」
クルベールはベアールを見つめながら言った。
ベアールは不思議そうにクルベールを見る。まるで酒を楽しく飲むときに、いちいち何のための乾杯なのか決めなければならないのか?と言っているようであった。
「では、この長き時間閉じ込められていたアロマニャックが解放された今日という好き日に、我等老兵の残り短い人生に対して」
と言うと、クルベールのグラスにチーンと自分のグラスを合わせる。
「さらば若かりし時よ!」
とベアールが言う。
「さらば若かりし時よ」
クルベールも続いた。
二人はニヤリと笑いあい、グラスを傾ける。
琥珀色の液体が華やかな香りとまろやかな口当たりを放ちながら、口内から咽喉へと流れ落ちていく。
ベアールは瞳を閉じ、このアロマニャックとの初めての出会いをかみしめている。
「うまそうだな」
うらやましそうにクルベールは言った。
「ああ、うまい」
琥珀色の液体を見つめたまま、ベアールが答える。
「俺のと同じアロマニャックか?」
「もちろん、同じだ」
ベアールは何をおかしなことを言っているんだと言わんばかりである。
「ベアールのグラスには魔法がかかっていて、特別にうまくなるんじゃないのか」
うまそうに飲むベアールを見ながら言う。
「そんなわけがない、もしそんなグラスがあるなら、そのために私の資産すべてかけても手に入れるぞ」
酒好きのベアールらしい答えに微笑む。
「まぁ、魔法にかかっているとしたらココだよ」
そう言って握りこぶしでトントンと自分の胸をたたく。
「酒を楽しみ、人生を楽しむ。辛い時には酒を飲む、酒が心を洗い流す。しかしだ、よき酒を飲むときは辛いこと、嫌なことをすべて忘れて楽しく飲む。それが長年閉じ込められていたよき酒に対する礼儀であり、酒を楽しみ人生を楽しむ秘訣だよ。だからよい酒を飲むときには、己の心に魔法をかける」
そう言って笑った。
「ありもしない苦しみなんか忘れて酒を飲むんだ。そうしたら酒が何のために自分が狭い瓶の中で耐えて忍んでいたのか教えてくれる。だから旨く飲めるんだ。閉じ頃られていた酒の苦労まで思いながら飲んでも旨くないし、酒にしたってえらい迷惑なんだよ」
グラスを掲げ、琥珀色のアロマニャックを見つめながらクルベールが言う。
「そんなものか・・・」
「そんなものだよ、うまい酒を造るにはいつも離れずに見守って、時に支えになってやる。酒のありもしない苦労まで一緒に背負うことなんてないんだよ」
グラスの中の琥珀色の明かりの中に、リシェールの顔を見ながらクルベールはベアールの言葉をかみしめていた。
そして、クルベールは痛感した。この男には、今になってもかなわないと。壮年を過ぎた二人の男が酒を酌み交わす部屋にカランと氷の音が微かに響いた。