乱風
リシェールは一人部屋に取り残されて、ソファーで体を丸めて膝を抱きかかえるように座っていた。
幼い頃からそうだった。一人部屋で父の帰りを待っているときいつもこの格好だった。不安で、そして、寂しくて、丸まって何かに抱きついていたくて、知らず知らずのうちにいつもこの格好になっていた。
ふと、そんな幼かった頃のことを思い出す。いつから私はこうしていたのだろうか。記憶に残っている時からずっとそうだったように思う。記憶がある頃というと、私はもう5歳になっていた。
その前のことといえば、記憶がはっきりとしない。記憶の隅に残るのは、甘酸っぱい香りと柔らかく暖かな肌に優しく抱かれていた。あの女性は私のお母さんだったのであろうか?
不安になったり、寂しくなるとそんな微かな記憶の中にある暖かさがとても恋しくなる。
父さんはお母さんは私が小さな頃に亡くなったと言っている。でも不思議なのは、私が小さな頃の写真や父さんと写った写真はあるのに、お母さんの写真は一枚も残っていない。
幼い頃、父さんに訊いたことがある。
「なんでお母さんの写真は一枚もないの?」
そう聞くと、決まって寂しそうに笑った父。そして、いつもうつむいて悲しそうな声で
「母さんは写真が嫌いだったんだよ」
と下手なウソをついていた。
そんな父さんの心の痛みが分かるようになってから、私は父さんにこの質問をしたことはない。父さんの悲しそうな顔を見ると罪悪感を心に受けた。
写真に写った父さんはいつも笑顔で楽しそうだった。その笑顔を見るたびに、写真を撮ったのはお母さんに違いないと思っていた。
しかし、それを父さんに訊いたことはない、父さんをまた悲しい顔にしたくなかった。
いろんな感情がリシェールの心の中に渦巻いて、いつしか涙がこぼれてジーンズの膝の部分に浸みをつくってゆく。
すがるように自分の膝を抱えて、
「どうしてこんなになっちゃったんだろう」
そう呟いていた。
電子ロックの熔ける音がして顔をあげると、ドアの向こうからヌッとファブリスの巨体が現れた。
ファブリスはリシェールを一瞥すると、
「一人か?ジョルジェットは何処へ行った」
と何の感情もなく、そっけなく言った。それは私に言った言葉ではなく、独り言に違いなかった。
リシェールは涙を拭って、ただ黙って首を振った。
じっと見つめるファブリスの視線を感じて、一層体を丸めて膝に抱きついた。
こんなところ、誰にも見られたくなかった。恥ずかしくて、悲しくて、悔しくてそして怖かった。心がバラバラに千切れて風に飛ばされそうだった。
そんな自分をなんとか保とうと、必死で膝にしがみついた。まるで自分の体の存在を自分で証明しているようだった。
気が付くと、また一人ぼっちになっていた。
「私はいつも置いてけぼり・・・・」
瞳を閉じて、瞳の奥にショウの後ろ姿を探していた。
快楽の泉の中で身を横たえて、身も心も満たされてジョルジェットはいつしか気を失った。今まで味わったことのない深く、あまりに甘美な泉だった。
ふと気が付いたのは、自分の唇に誰かの唇が触れたのを感じたからだった。唇の間から溢れた液体が、自分の唇の間をすり抜けて口の中へと流れ込んでくる。
激しい悦楽の後の乾ききった体は素直にそれを吸収する。
瞳を開けると、目の前にショウの瞳があった。彼の漆黒の瞳は、光を失った闇のようにジョルジェットの瞳の光を吸い込む。
ハッ、と思った時はすでに手遅れだった。ジョルジェットの視覚は霧がかかったように白くぼやけて、何もかもが陽炎のようになってしまっていた。
ヴェントと呼ばれる男の黒い瞳がじっと私を見つめている。
ジョルジェットは水面に彷徨う木の葉になったようだった。薄れゆく意識の中で自分の油断からのミスを悔やんだ。そして自分の性への欲求の深さを呪った。
そして自分の本当のミスの原因が何だったのか、思い知らされた。この男は催眠術にかかったふりをしていただけだったのだと。
いつしかジョルジェットの自意識は白い闇の中を漂っていた。
ショウは見よう見まねで行った催眠術にジョルジェットが落ちていくのを見ながら、内心驚いていた。ここまでうまくいくとは思っていなかった。
現にショウ自身も催眠術に陥りかけた、いやすでにかかっていたのだ。
ただ、記憶を失っていたため、ジョルジェットの質問に対する答えを持っていなかったに過ぎない。もし、彼女が粘り強く質問を繰り返し、もっと深くまで誘おうとしていたのなら、もっと違った結果になったに違いなかった。
しかし、彼女は自らの欲望に負け、快楽の泉の中で溺れてしまった。
そのおかげで、ショウは彼女の催眠術から逃れることができたのだ。
今、ジョルジェットは扇動的な下着姿のまま、うつろな目で自分のことを見つめている。
そんなジョルジェットを見て、何から聞いたら良いものか、戸惑ってしまっていた。
しかし、時間がない。戸惑っている余裕などないのだ。
頭に浮かぶこと、自分が興味のあること。とりあえず手当たり次第に質問した。
ジョルジェットは時たま苦しそうな表情をしながらも的確に質問に答えてくれた。
その結果、この屋敷にいる連中の正体などが分かった。
彼らの正体は、「ノアール」という秘密団体であり、そのバックとなっているのが、あのフランス、いやヨーロッパを代表する企業サヴァランであり。いわば、サヴァラン社のプライベート・ミリタリーである。
サヴァラン社と言えば、記憶を失ったショウでさえ知っている。家電からエレクトロニクス産業、自動車産業から重工業、そして最近ではエコロジー産業に力を入れ、クリーンエネルギーによる発電事業にまで触手を伸ばしている、モンスター企業である。
そんな企業がなぜ?
これは誰が聞いても信じはしないことである。それほどまでにサヴァラン社という企業イメージがよく、フランスと言えばサヴァラン社という図式が完成されているほど、国を代表する企業の一つである。
「そんな大企業に、この俺が何の用があるというのだ」
少し興奮気味の自分を抑えながら言ったつもりではあるが、少し声のトーンが高くなった。
「あなたはプーペ、操り人形・・・でもあなたは姿を消してしまった」
「プーペ?操り人形?・・・いったい何のことだ」
感情を押し殺して尋ねたが、彼女は黙り込んでしまった。
質問の方向を変えてみようと、自分が感じた違和感について訊いてみることにした。
「君は一体何者だ?」
「私はノアール本部から、この特殊部隊に派遣された」
「本当にそうなのか」
なにかは分からない、しかしなにかがひっかかった。
「なぜ俺は追われているんだ」
「それは・・・漆黒のりんぐ」
と言いかけた時、ノックもなしに突然ドアが開いた。
ドアの向こう側には大きな体のファブリスが立っていた。
ファブリスの眼が下着姿のジョルジェットを見つめ、そしてショウを発見する。
その時すでにショウはベッドから飛び降りて臨戦態勢になっている。
「ヴェント!!」
怒りの叫びが部屋中に響く。
その声に反応してジョルジェットの体がビクリと跳ねる。
ファブリスは拳を強く握りしめて、ショウに向かって突進する。怒りのあまり自分の腰に吊るされたF91の存在など忘れてしまっていた。
ファブリスの右の拳がショウを襲う。
ショウの体が沈み拳をよけて、クルリと回りファブリスの足を払う。
ファブリスは片手で倒立するようにしてショウの足払いをよける。そしてそのまま両足で踏みつける。
決まった、と思った瞬間、再び回ってきたショウの足がファブリスの体を支えていた腕を払い、ファブリスが倒れこむ、背中から倒れこみながら見事に受け身を取り、次の瞬間には跳ね上がり、二人は再び対峙した。
ジョルジェットはそんな二人をベッドの上から見つめている。
鋭い視線でヴェントを睨み付けるファブリス、その瞳には積年の恨みという憎しみの炎が込められている。
ショウもまたじっとファブリスを見つめている。しかしその瞳には何の感情も込められていない。ただ見つめているだけである。全くの無防備、だらりと腕をぶら下げてただ立っているだけである。
それに対して、ファブリスは後方に引いた右足に体重をかけ、つま先立ちの状態でいつでも襲いかかれる体制で、両拳は軽く握られ素早くどのようにも対処できる構えである。
ファブリスの額にジットリと汗がにじむ。
まるでこの空間だけが取り残されたように静寂が包み込み、凍てついた空気が時の流れまでも止めてしまったかのようである。
ゆっくりと雲が流れ太陽が顔を出す。カーテン越しにでも部屋の中がいくばくか明るくなった。
その時、何の前触れもなくジョルジェットの体が宙に舞い、前転しながら右の踵がショウの脳天に打ち込まれる。
ショウの瞳は動くことなくじっとファブリスを見つめ、ジョルジェットの踵落としをよける様子もない。ジョルジェットはやった、と思った。
が、ショウは左手で右足首をむんずと掴み、まるで邪魔な小枝を振り払うかのように、無造作にジョルジェットをベッドへとかなぐり捨てた。
ベッドの上でジョルジェットの体が跳ねる。
こんなチャンスをファブリスが逃すわけがない。もう獣のようにショウにむかって飛びかかる。
ジョルジェットを投げるためにできた左わきの隙を見逃すことなく、足から滑り込むように右の蹴りを正確に叩き込む。たとえガードの上からでも肋骨を打ち砕く自身のある渾身の一撃である。
しかし、その攻撃もショウに通用することなく、上体をそらして躱されて、どこをどうされたのかクルクルとファブリスの巨体が宙に舞い、ジョルジェットのいるベッドに向かって飛んでゆく。
すんでのところでジョルジェットはファブリスの巨体をよける。ファブリスの巨体が今までジョルジェットがいた辺りで大きくバウンドする。
瞬時に頭に血が昇ったファブリスが得意のナイフを手にした時、すでにショウの手に握られたベレッタF92がファブリスとジョルジェット、2人に向けられていた。
悔しさにファブリスの顔がゆがむ。
しかし、ショウはジョルジェットに鋭い視線を向けたままである。
ジョルジェットもそれに負けぬように睨み返していたが、ふと視線を外すと、シーツに隠して握られていたワルサーPPKをショウの足元に投げた。
その10分後、ショウが二人を閉じ込めて出てきた時には色々と自分の事が分かっていた。
数時間後、ショウは自動車のハンドルを握っていた。助手席にはもちろんリシェールが座っていた。
二人きりの車内には異様な空気が漂う。
話したいこと、聞きたいことが数多くあるにかかわらず、二人とも口を開くことができないままいた。
いつの間にか時が過ぎ、ショウはゆっくりと駅前に車を止めた。
リシェールはうつむいたままただひたすらに涙を流していた。
ショウは決してリシェールの方は見ようとはしなかった。自分の気持ちが悲しみの涙に流されるのが怖かったのだ。ショウは振り返ることなく駅の中に消えてて行った。
リシェールは追いかけることもできないまま、車の中で悲しみの海原に漂っていた。