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風の中で  作者: 正和
14/43

疾風

  バーンとすさまじい音を立ててドアが閉じられた。足早にカウンターに進むとファブリスは、バーボンをグラスになみなみと注ぐ。グラスを握りしめて一気に飲み干す。咽喉が焼けるように熱くなり、胃の中に炎を流し込んだように燃えている。

 再びなみなみとバーボンが注がれたグラスを片手にソファーにドスリと身をゆだねる。

 右手の指が頬に残された傷をなでていた。

 いつの間にか癖になっている。

 怒りが頭の中で暴れている。気がおかしくなりそうなのをアルコールで無理やり抑えていた。

「くそったれ!」

 そう言って、グラスを壁に投げつけた。グラスが砕け、ガラス片がバーボンと共に飛び散った。

 ぐったりとソファーに倒れこむ。

 女を人質として捕まえることはできた、しかし、ファブリスにとってはそんなことはどうでもよかった。何よりあれだけの人員を動員しながらも、まんまとヴェントに逃げられてしまったのだ。

 だいたいヴェントを捕獲することができれば、人質の必要などなかったのだ。リシェールの誘拐は保険に過ぎなかったのだ。そして、それを支持し指揮したのが、副官であるフィリップなのが気に入らない。

 まるで俺が失敗するのを見込んでいたようなあの態度・・・死ね!

 強化人間に俺は絶対に負けないと言っていた、この俺が完全に手玉に取られてしまったのだ。この思いどうにでもしてヤツに思い知らせてやらないと気が済まない。

 イラつきながら自室でバーボンを煽っていると、申し訳程度のノックの後ドアが開き、長身のグラマーな美女が入ってきた。挑発的な真っ赤な衣装に身を包んだ旨そうな女である。

「ご機嫌悪そうね」

 床に散らばるガラス片を横目で見ながら女は言った。

 グラスを投げつけた音は部屋の外まで聞こえたらしい。

 彼女を見るファブリスの瞳がいやらしく下から上へと嘗め回す。彼女もその視線を楽しんでいるようだ。

「あぁ、ジョルジェットか」

 けだるそうな言い方だ。

「私にももらえないかしら」 

 怪しい笑みを湛えながらわざわざファブリスの隣に座る。長い脚が挑発的に組まれる。スリットからは真っ黒の下着が見え隠れしている。

 テーブルにこぼれたバーボンを見て、

「まぁ、もったいない」

 そう言って指で掬うと自分の人差し指をいやらしく舐める。

 二人の視線が絡み合う。ファブリスの目は完全に彼女の虜となり、彼女以外映し出すことはない。

「もう飲まないの?」

 ジョルジェットはバーボンを口に含むと、おもむろにファブリスの唇に自分の唇を重ね合わせ、唾液と共にバーボンを流し込む。

 ファブリスは旨そうに喉を鳴らす。欲望の炎は極限まで燃え上がる。そして欲望のタガは簡単にはじけ飛んだ。

 獣のようにジョルジェットの柔らかな体にかぶりつく。ジョルジェットも情熱的にファブリスの首に抱きつき、二人の唇がゆがむほどの濃厚なキスをする。

 久しぶりの女との情事に陶酔するファブリス。そんな淫靡な気持ちを打ち消すように、突然ジョルジェットがソファーに座りなおす。

「これはなに?」

 そう言って差し出された白く華奢な手のひらに黒くて小さなボタンのようなものが乗っかっている。

 ファブリスはそれをつまむと、ギュッと握りしめ床に叩きつけて靴の踵で踏みつぶした。

 それはよく見て確認するまでもなく発信機であった。

 ファブリスは憤怒の表情で何も言わずにドアを叩きつけるように閉めて出て行ってしまった。

 そんなファブリスを見て、ジョルジェットは乱れた服装を直しながらクスリと笑い、バーボンを一気に飲み干した。

「意外とかわいいところがあるんだから・・・」

 そう言って一人にやついていたのだが、ふと思い出して

「そういえば、昨日の夜遅くに連れてこられたあの女・・・」

 そう呟くと、彼女も部屋から足早に出て行って、2~3メートルほど歩いた時、おもむろに体をひねると左足を振り上げ、振り返りながら高く上がった左足を踵から体重をかけて振り下ろした。

 左足は空を切り勢い余って床にヒールをたたきつけ、ハイヒールのヒール部分が宙を舞う。

 誰もいなかった。しかし、間違いなく誰かの気配を感じていたのだ。ジョルジェットがいくら目を凝らしてみても、突き当りにドアが一枚ある限りで誰もいなかった。

 ジョルジェットはしきりに首をかしげながら、ヒールのとれたハイヒールをぶら下げて裸足のままスタスタと歩いて行ってしまった。

 その状況を、ショウは天井に手足を突っ張った状態で張り付いたまま見つめていた。

 あの女のかかと落しは確実に相手にダメージを与えるどころか、致命傷になりかねないすさまじいものであった。ジョルジェットに興味を持ったショウは後をつけてみることにした。

 女が角を曲がるのを確認すると、ショウは身をひるがえして音もなく着地する。

 辺りにはあの女の気配しか感じることはない。

 今ではもうなぜ自分にそんな能力があるのか悩むことはなくなっていた、というよりも今自分が置かれている現実を受け止めるのに必死でそんな余裕はなかったのだ。

 再び、気配を消して女の後を追った。もうさっきのようなヘマはしないよう十分に気を付けたことは言うまでもない。さっきのように接近することなく十分に距離を取ることにする。

 女は同じ歩幅、同じリズムで進んでいく、ハイヒールを脱いだにもかかわらず、彼女の踵は床に就くことはなかった。

 今更ながら歩き方である程度相手の力量を測ることができたのにと、後悔してみても後の祭りである。

 女は地下への階段を下りて行き、突き当りにある一室へと入っていった。

 さっきから館の内外が騒がしくなったのは、自分がファブリスに取り付けた発信機が発見されたからだと予想はできたのだが、この女は戦闘に参加する気配が見られない。あれ程の力量をもっているにかかわらずだ。

 一時はあの女からリシェールの監禁場所を聞き出そうかとも思ったのだが、どうも分が悪いと感じたショウはそこから立ち去った。

 ドアが開き、ジョルジェットは戸口に立って今までショウがいたあたりを見つめて、クスリと一人笑みを漏らした。




 ファブリスは館の中を大きな歩幅で足早に歩いていた。

 首筋に発信機を付けられていながら気づかなかった自分をめいいっぱい恥じていた。そして、その感情はしだいにショウに対しての怒りとなり、時が過ぎるとともに大きくなる。

 ギリリと歯を食いしばる。怒りのため目は吊り上り、頬の肉はこれ以上ないくらいに張りつめている。

 右の頬に残る傷がズキズキと痛む。しかし、そんなことがあるはずはない傷は完治してすでに長い時が経っている。

 ゆっくりと指で傷をなぞる。



 冷ややかな何の表情も、感情も映すことのない瞳が見詰めていた。

 あっという間の出来事であった。

 50人を超す一流と言われていた自分の部下たちがたった一人の素手の男に全滅させられる。まるで悪夢であった。

 すでに体の自由も奪われ動くことができなかった。

 そんな俺を奴は見下ろしていた。冷ややかな何の感情も映しだすことのない瞳で。さげすむように立ち去ったあの男の顔を忘れることはない。

 数か月後あの戦場に立った時、すでに時の流れが何もなかったように、すべて洗い流してしまっていた。

 しかし、俺はすべてを覚えている。そして、それを忘れてしまわぬように、自分でその右ほおに傷を残した。泣かれる涙は血に染まり頬を流れた。




 ファブリスはリシェールの前に立っていた。

「あなたたちは何者なの、早く私を帰して」

 リシェールは椅子に座ったままファブリスを睨み付けるように言った。

 ファブリスは何も言わずリシェールの前に座った。

 必要最小限の物しかない部屋であるが、清潔に掃除された部屋にリシェールは閉じ込められていた。

 彼女の世話を一人しかいない女性のジョルジェットに頼もうと思っていたのに、忘れていたことに気づいた。

 リシェールに向かい合ったファブリスの表情は硬かった。

 リシェールは黙ったままファブリスを見つめていた。旅行中に突然誘拐されてここに連れてこられた。恐怖に体を震わせながらも、なんとか平常心を保っていられるのも、持ち前の負けん気とモデル業で培われた度胸のおかげである。

 突然目の前に現れた男は2メートル近くある大男で、軍人のように迷彩服を着込んでいた。

 なぜ私が誘拐されこんな風に閉じ込められているのだろう。何度考えてみても答えは同じであった。

 そう、ショウが関係している以外に考えられないのだ。とすると、ショウの過去に何があったのか、消えてしまった彼の記憶にはどんな危険な情報が詰められているのか。

 私は、踏み込んではいけないところに来てしまったのだ、と思い始めていた。

 そして、私の視界のほとんどを占拠した目前に座る大男は険しい表情で私に言った。

「あの男とはどういう関係だ」

 その質問で私の予測は事実になってしまった。

 もう、自分がどうすればいいのか分からなくなり、椅子の上で自分の膝を抱え込んで呆然と座り込んでしまった。

 男は、女の扱いに為れていないようで、チッと舌打ちをして私のことを見ている。

 私は何もかも考えることをやめてしまった。

 なんども「あの男とはどういう関係だ」という声は聞こえるが、私の耳に届くことがあっても、私の心はすべてを拒否していた。

 楽しい旅行になる・・・そう思っていた。

 その時ドアをノックする音がして、一人の女性が入ってきた。彼女は場違いな場所に紛れ込んだようだった。男の服装とは打って変わり胸元が大きく開いたブラウスに深くスリットが切れ込んだ黒のタイトスカートという艶めかしい服装だった。

  「あら、ファブリス大佐こちらにいらしたの・・・」

 放心した私の顔を見ても彼女は顔色一つ変えることはない。

 ジョルジェットはファブリスにニッコリと笑いかけて

「彼女のことは私に任せてもらえますね、大佐」

 そう言うと、ドアを開けてファブリスの退室を促す。

 ファブリスは何も言わずに、憮然とした表情のまま出て行った。

「ふぅ~」

 とジョルジェットはため息をつくと、リシェールの正面のソファーに体を沈み込ますように腰かけた。

 じっと私のことを見る視線を感じた。

 ファブリスに感じた恐怖とはまた違ったものを彼女は持っていた。彼女に見つめられると、自分の心の中まで見透かされているのではないかという恐れを抱かされる。

 細く長い脚を組みながらジョルジェットは言った。

「やっぱりモデルとなると、いいスタイルしているわ」

 彼女の動き一つ一つに隙のない気品が溢れている。

「あなた、ベルというファッション雑誌のモデルしているでしょ、私もたまに買っているのよね、アレ」

 そう言うとニッコリと笑う。笑うと美しさの中にある近づきがたい雰囲気が消え去り、思わず微笑んでしまいそうだった。でも、私にできるのはただ黙っていることだけであった。まるでそれが唯一の反抗であるこのように。

 しかし、ジョルジェットはほんの少しの私の反応を見て

「やっぱり人違いではなかったのね」

「パリから来たの、遠かったでしょ、ここにいると欲しいものがあってもなかなか手に入れることができないから、嫌になるわ」

 彼女は本気で怒っていた。そんな彼女を見ていると、私の心を覆っていた氷が少しずつ溶けていくようであった。

 じっと彼女を見つめていた。若そうに見えるが、私より5~6歳は年上のようだ。とてもスタイルが良く引き締まったボディーに艶めかしい大人の色気を醸し出している。 

 モデルの私でも彼女の横に立つとなったら尻込みしてしまいそうだ。

 見た目の雰囲気では、彼女はファブリスの手伝いはしているか荒々しいことには無縁の立場のようである。

 恐怖感も遠のいてゆき、心臓の鼓動もやっと落ち着いてきた。

「あの・・・あなたたちが探している男というのは、ショウのことですか?」

 思わず私は尋ねてしまっていた。

 ジョルジェットは私が口を開いてくれたのがよほど嬉しかったのか、ニッコリと笑った。

「やっと口をきいてくれたのね。ショウという名前なの?大佐はヴェントと呼んでいるみたいだけど」

「いえ、私が勝手にそう呼んでいるんです」

 緊張して思わずおどついた口調になってしまう。

 そんな私を見て

「そんなに緊張しないでよ、女同士じゃないのぉ、ここには私たち二人しか女がいないんだから友達になりましょ」

 思わず表情が緩んだその時、彼女の腰につけていた携帯電話がバイブした。彼女は携帯電話を取り

「はい」

 とだけ言って相手の言うこととを聞いていた。

 パチンと携帯電話を折りたたむと、彼女はにっこりとほほ笑んでいった。

「あなたのナイトの登場のようね」

 私の鼓動ははち切れんばかりに鼓動している。

 まさか・・でも、やっぱり・・・なぜかそう思った。ショウなら助けに来てくれる、そう信じていた自分に気づく。でも、どうやって彼が私を助けることができるのだろう、と考えるとなにも想像できずにいる。

 想像できるのは、あの大男のファブリスに撃ち殺されて倒れるショウの姿だけであった。

 あまりのショックに顔面蒼白となっている私を残してジョルジェットは

「おとなしくしててね」

 そう言って部屋を出て行ってしまった。

 また、一人きりになってしまった。

 胸が締め付けられる、苦しい。

 私のためにショウは今こんな危険な場所に飛び込んできたのだ。料理人であるショウに何ができるというのか、すでにショウは捕まってしまっているんじゃないだろうか、いやすでにもう・・・不安なことばかりが頭をよぎる。

 落ち着くことができず、部屋の隅から隅へとうろうろせずにはいられない。

 とてもじっとしていられなかった。





 リシェールを監禁しているへやから憮然とした表情でファブリスは出てきた。自分の体に発信機を取り付けられていた以上ヴェントがここにやってくるのも時間の問題である。

 何事もうまくいかず神経が高ぶりどうしても不機嫌になってしまう。部下たちにはすでに厳戒態勢の支持は出しているが、どうにも落ち着かない。今回の相手は一筋縄でいかないのはわかっている。すでに戦ったことのある相手である、こちらの手の内はある程度知られている。

 しかし、それが彼が落ち着かない原因とするならそれは間違っていた。今回はこの場所で敵を迎え撃たなければならない、要するに守りの戦いなのだ。常に攻撃する側であったファブリスにはどうも勝手の違う戦いなのだ。だから様々な考え付く限りの指示をだしてはいるものの、まだ不備があるように思えてならないのだ。

 部屋の中にいても落ち着けそうにないので、足早に館内のチェックをして回った。

 いまこの館には30人からの戦闘員が動員されている。それはたった一人の男を迎撃して捕獲するためだけにだ。用心しすぎるといわれても仕方がない状況である。

 しかし、この戦闘員たちのほとんどが厳しい訓練は受けているが、ほとんどの者が実戦の経験のない若い兵士が中心なのである。そう考えると不安がどんどん高まっていく。

 しかし、いまさら考えてもどうにかなるものではない、と開き直ることにした。なるようにしかならない・・・だ。

 さらに廊下を歩き続けた。 

 その時、激しい爆発音が鳴り響く。振動で窓ガラスがビリビリと音を立てて震える。

 窓から東側の庭の奥の森から煙が立ち上るのが見える。

 ファブリスはすでに走り出していた。廊下を駆け抜けながら無線機を取る。

 現場に着いた時にはすでに10人以上の兵が集まっていた。まだ、こっちに向かって走ってくる兵たちもいる。

 皆緊張した顔つきで目が吊り上ったような表情をしている。ほとんどが新兵である。

 森の中から出てきた古参兵を捕まえて尋ねる。

「ブービートラップに引っかかって新兵が一人やられました。しかし、爆発が派手なだけで威力は大したことははなく、命には別状はないようです。完全に罠です。辺りには人のいる気配はありません」

 その報告を聞いたファブリスは顔色を変えて振り返った。館の様子は何一つ変わった様子はない。しかし、今この場所に全体の半数以上の兵が集まっている。

 ヴェントはすでに館の中にいる。ファブリスはそう確信した。今更焦っても仕方がない。さっきの古参兵を指揮官に任命し現在館の外にいる兵で館の周りを完全に封鎖するように指示するとファブリスはゆっくりとした足取りで館の中へと消えた。




 森で爆発が起こったころショウはすでに館の中にいて、ジョルジェットの後に続きすでにリシェールのいる部屋の前にいた。完全防音設備の施された地下にいるため爆音はここまで聞こえなかったが、微かな振動でそれが起こったことをショウは分かっていた。

 ジョルジェットが部屋を出ていくのをショウは天井に張り付いて見ていた。彼女はしっかり暗証ロック式のカギをかけて足早にどこかへ向かう。

 ショウはとりあえず彼女をつけてみることにする。ここにいては危険なばかりである、もうすぐにでもここにファブリスがやってくるであるだろう。それまでにリシェールを助け出すのは時間的に無理なのである。

 それになにか彼女の匂いがすごく気になったのだ。なぜ気になるのかは分からない、分からないから調べてみる。単純な結果であった。



 ジョルジェットは部屋から出てファブリスの携帯電話にコールする。

 二度目のコール音でファブリスは出た。

「どうした」

 苛立ちを隠そうとしないぶっきらぼうな対応である。

 ジョルジェットは心の中で、そんなことだから大成しないのよあなたは・・・、とつぶやいた。

「何があったの?」

「森の中に仕掛けられたブービートラップが爆破した。たぶんヴェントの仕業だ。」

 ファブリスはそう言うと一方的に切ってしまった。

 本来であればリシェールのところに戻らなければならないのであろうが、私の知ったことではないと思っていた。それにファブリスが向かっているに違いないし、と思っている。

 かといって何もすることもないわけで、とりあえず自分の部屋へ帰ることにする。指令室に行くべきなのだが、どうもフィリップの嫌味な性格が合わない。どうせ嫌味を言われていやな気分になるのが関の山だ。

「しーらないたら、しーらなーい」

 と一人つぶやきながら、部屋へと帰る。

 部屋へ戻り、カーテンを開ける。陽の光が赤色を帯びてきて夕刻が迫ってきているのを知らせてくれる。

 フゥーとため息をつきながら、これから忙しくなるんだから、その前に一息つこうとコーヒーを注ぎにバーカウンターに行こうと立ち上がった時であった。

 音もなくドアが開き、全身を真っ黒のボディースーツで包まれた男が立っていた。

 ジョルジェットは一瞬でその男を観察した。身長は私と同じぐらい、体つきは普通よりは少しがっちりしているかな、全身しなやかなバネといった感じだ、髪は黒色顔つきは東洋人・・・・ヴェントに間違いないようね。

 彼女は顔色一つ変えずにコーヒーを2つ入れると、ヴェントに部屋へと入るように目で促す。

 彼は部屋に入ると、ドアに鍵をかけ窓際に行きカーテンを閉める。

 部屋の中は光を遮断され闇に包まれる。

 ジョルジェットはそんなヴェントの行動を見ていたが、コーヒーをテーブルに置き、ソファーにくつろいだ様子で腰かけてタバコに火をつける。闇の中にジョルジェットのくわえたタバコの火だけが赤く染みのように浮かんでは消える。

 ヴェントは足音も立てずにいつの間にか移動してジョルジェットの目の前に座っていた。

「これじゃあ顔も見れないわね、お互いに」

 そう言うと、テーブルの上にあるアロマキャンドルに火をつける。微かに白い煙をあげるとポッと柔らかな炎が点いた。

 しばらくするローズの甘い香りが鼻腔をくすぐる。 

 キャンドル越しにジョルジェットはじっとショウの顔を見つめている。東洋人といってもたぶん彼は日本人ね、と思った。

 ゆっくりとショウの目の前へとコーヒーの入ったカップを滑らした。

 ショウはカップを一瞥しただけでじっとリシェールを見つめている。

 ジョルジェットははなかなかいい男だと思っていたので、まんざらでもないらしい。

 「冷めるわよ」

 そう言ってコーヒーを薦めると、何も入ってないわよと言うかのように自分のコーヒーを飲み干した。

 実はさっきから喉が渇いて仕方がなかったのだ。ショウはコーヒーを飲む間もジョルジェットから視線をそらすことはない。

 ショウは自分が信じられなかった。昨晩の出来事で自分の名は少なくとも彼らの間ではヴェントであるということは分かったのだが、自分が何者なのか、自分との関係がどういったものなのか、重要なことはわからないままである。

 そして今、助けに来たリシェールをほったらかしにして、敵であるはずの女とコーヒーを飲んでいる。

 そういった行動をしている今の自分が怖くなった。自分はそういうことができるんだと一人思った。

 「私はジョルジェット」

 カップをテーブルに置きながら言った。

 ショウもコーヒーを飲む。

 カップを置くと、ジョルジェットが身を乗り出して目の前まで顔を近づけて言った。

 「東洋系の顔をしているけど、中国人、それとも日本人なの?」

 見つめる瞳は澄んだグレーで奥が深く吸い込まれてゆく。気が付くと視界がぼやけてきた。彼女の顔はゆがんで何が何だか分からなくなってしまっているのだが、彼女のグレーの瞳だけははっきりと見え、脳へと焼き付けられたような錯覚に陥る。

 頭の中がボゥーとしてくる。意識はあるのだが、自分の体が自分の者ではなくなっていく。

 そんなショウの耳にジョルジェットの声だけが響く。

 「気持ち良くなってきた?私の声が聞こえるかしら」

 彼女の声だけしか聞こえず、視界を失った状態であるにもかかわらず、魅惑的にほくそ笑むジョルジェットの顔がはっきりと見える。それに対して感情が全くないような人形のようにうなづいているのを知る。

 「あなたの名前は?」

 「・・・。ショウ」

 「本当の名前は?」

 「わからない」

 「あなたは何者なの?」

 「わからない・・・」

 「彼女との関係は?」

 「彼女??」

 「リシェールという女の子のことよ」

 「彼女はオーナーの娘」

 「オーナー?何のオーナーなの?」

 「私が働いているレストラン」

 質問に拒否しようとも勝手に口が答えている。

 催眠術と気づいた時には遅かった。すでにショウは彼女の操り人形になっていた。

 今ここに、ファブリスを呼ばれでもしたら、何の抵抗もできないまま彼の特異なナイフで切り刻まれるに違いない。

 ジョルジェットの目の前には抜け殻のようになったショウがソファーにもたれかかりだらしない姿で横たわっている。視線は定まらず、口元はつねにだらしなくニタついている。

 「もうどうでもいいわ、こんなこと」

 一人言い放って、ソファーに無造作に座り込む。

 色々と質問をしては見たものの、埒が明かない、はっきりと分かったことは一つだけ、このヴェントと呼ばれる男の記憶はある時点を機に消失しているということである。

 ふと顔をあげて横目でショウを見つめる。身長は低いががっちりと鍛え上げられた体がとてもセクシーに見えてくる。

 ファブリスとの途絶えてしまっていた情事での欲情がムクムクと湧き上がってくる。もうすでに欲望の泉は溢れんほどに満ちていて、蓋をしても、もうそれは何の意味も持たない。

 自分でも自覚はしている。また、懲りずにやろうとしている、この癖というものが抜けないために、またこんな任務に付かされているというのに・・・。

 「全く懲りない女だこと」

 まるで他人事のようにつぶやいて、ショウの体に肉食獣のごとくにじりよる。

 獲物に飛びついた獣は欲望のままにむさぼり始める。自分がどこにいるのかも忘れて、快楽に身を委ねていく。長い髪を振り乱し、ショウの体の上で、荒波のようにうねり、揺れ、弾けていく。恍惚の快楽の中を漂っている。

 はじけたジョルジェットはもう止まることはない。彼女が止まるのは、オーガズムの果てであろう。

 そして、彼女は全く気付くことがなかった。いや、気づくことを拒否したのかもしれない。彼女は今完全に女になっていた。

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