潮追風
海原から流れてきた風がショウの髪をなびかせる。長く伸びた髪が顔にかかるのも気にせず、ショウの瞳ははるか沖に浮かぶ黒い影となった島を見つめている。
月明かりだけの暗い夜道夜、ショウはホテルに向かって帰った行く。ちょうど町の中心にある教会の広場に入った時かすかな明かりをもたらす月明かりも雲が遮り、一帯は真の闇の闇に包まれた。
再び月明かりが広場を照らした時、ショウは広場の中心からじっと反対側の闇を見つめていた。
そしてその闇の中から浮き上がるように一人の男が現れた。全身真っ黒のスーツを着込んだその体は鋼のように鍛え上げられ、その巨体にかかわらず軽々とした足取りである。
右の頬に大きな切り傷を生々しく残したその男の瞳は憎悪に燃え、ショウのことを睨み付けていた。
もちろん記憶をなくしてしまっているショウにその男の正体などを知るはずもなかった。
しかし、男のほうはそんなことは知らないし、また知ったことではなかった。
ゆっくりと男の左手が上がると、どこから現れたのか十数人の屈強な男たちが広場を囲んでいた。
その男たちを広場の中心からショウはグルリと見回した。
俺の正体は何者なんだ?そんな疑問がよぎるのだが、あまりにも冷静な自分に驚いていた。
男たちの手にはアサルトライフルが握られ、完全武装されている。
この男たちは何者なのか、そして自分との関係は・・・いま分かっていることといえば、正面に立つ顔に傷があるリーダーらしき男は自分に対して相当な恨みを持っていて、この男たちの標的が自分らしいということだけである。
正直、ショウは困惑していた。
今自分が置かれている状況に対してよりも、この状況の中で平然としていられる自分自身に対して困惑していた。
一般的な生活の中では絶対にありえないシチュエーションの中で、冷静に相手のスペックを測り、脱出経路を探している。そしてそれを当たり前のように行っている自分とは何者なのか?
微動だにせず男を見つめているショウの頭脳は目まぐるしく動いている。知らず知らずのうちにショウの頭と体は戦闘モードに入っていた。けたたましく動き回る頭脳は、かすかなアラーム音を発している。しかし、戦闘モードに入ってしまったショウは一切それを無視してしまった。
パッとパソコンの画面に電気が入ったように、「相手が動く前に動け!」と指令は出された。
次の瞬間、ショウの体ははじかれたゴムのように教会に向かって走り出した。
リーダーである男も、その部下たちも男の行動は予測していた。しかし、事は一瞬であった。
間合いをはずした。そのタイミングとあまりにも素早い動きに、誰も付いていくことができなかった。
あわてて追従する男たち、しかしリーダーである男は落ち着き払ってゆっくりとした足取りで教会に向かう。
教会の扉に体ごとぶつかるように飛び込むショウ。
この街に来たことがあるという記憶はない。もちろんこの教会にも・・・が教会の内部はショウが想像していたものとまったく一致していて、すべてが分かっているように一目散に教壇に向かって走る。そしてその教壇の陰に身を隠す。
ショウの視線は床に向けられている。床には一辺30センチほどの石版がきれいに敷き詰められている。そしてその視線は、一枚の石版の上で止まった。
ショウの高く振り上げられた右手が、その石板に向かって振り下ろされる。思いっきり叩きつけられた掌と石版の間に真空が生まれ再び振り上げられた右手と共に何キロもある石版が宙に舞う。
ドンと石版が床に落ちて砕けるのと、男たちが扉を破り飛び込んでくるのが全くの同時であった。
教壇越しに男たちがゾロゾロと教会に入ってくる気配を感じながら、ショウは石版の下に隠された紙袋からビニールに包まれた一丁のハンドガンを取り出した。
手慣れた手つきで装弾をチェックして、チャンパーへと初弾を送り込む。しっくりとガンが手になじんでゆくのを感じながら、敵の気配を探る。
先行した男たちが教会内にゆっくりと入り左右に散開する。そして、最後に入ってきたのが頬に傷のある男であった。
ショウは自分でも驚くほど冷静でいる自分に気づく。自分の正体は何者なのか?さっきから何度も頭の中からこの疑問がぐるぐる回っている。
今では自分の正体など知らなかったほうが幸せに暮らしていけたのでは・・・・と思っていた。しかし、今の状況のなかそんなことなど考えている場合ではなかった。
「ヴェント、久々の再会だというのに相変わらず冷たい奴だな、俺の顔を見て逃げ出すとは・・・」
男の大きな声が教会内に響く。その声で、男たちが近づく気配を消そうとしてるのである。
男たちがゆっくりと前進していく。ショウを追い詰めるつもりである。
相手は完全武装した男たち、それに対してショウはハンドガン一丁と体一つのみである。どう考えてもこの場から逃げ出すことすら不可能なことである。プロの戦闘集団に太刀打ちできるわけがないのだ。
「まさかヴェント俺のことを忘れたとは言わせねぇぞ」男の声に怒気がこめられている。
ヴェント、それが俺の本当の名前なのか?しかし、名前にヴェント(風)とは、普通におかしい。
「あれから一年だ。でもなぁ、まだうずくんだよ、この傷が・・・・」
そう言って、右ほおに残る傷をなでる。苦い記憶を思い出して男の顔が紅潮してくる。
「このファブリス様の顔に傷をつけておいて組織から勝手に逃げ出すとは、それなりの覚悟をしてもらわんとな」
ファブリスの右手が大きく振られ、刃渡り20センチのサバイバルナイフが一直線に飛び、ガン!と教壇に突き刺さる。
一瞬立ち止まった男たちが、再び動き始める。教壇へあと数メートルまで男たちが近づいた時、フッと教壇の陰から鳥のようにショウの体が舞った。
男たちの視線が宙を彷徨う。たくさんの視線がショウの姿を追う。しかし、それはすべて残像であって、すでにショウの体は彼らの視線の一歩先にあった。
全く重力を無視するかのようにふわりと浮かんだショウの体は、壁を駆け上がり垂直の壁面のわずかなでっぱりを駆け抜けて、再び宙に舞う。
一瞬にして教会内の空気が緊張に包まれる。
男たちの眼が、ショウに背後から銃を突き付けられたファブリスの姿に釘付けになる。
ファブリスは引きつったような笑いを見せている。
「どうするつもりだ」
そう言いながら、ゆっくりと膝の上あたりに隠したナイフを握ろうとした時、
「死にたいのか」
それはまさしく、ヴェントの凍りつくような冷ややかな声であった。
ファブリスの動きがフリーズする。額からは嫌な汗がにじみ出ている。
「なぁ、ファブリス、あんたに聞きたいことがあるんだ。俺は一体何者なんだ?俺の記憶はぶっ飛んじまって何も覚えちゃいない。もちろんあんたのこともな。」
ショウはわざとぞんざいな口調で言った。
「なんだとぉー」
瞬間的な怒りを抑えきれずにファブリスが声を荒げる。ファブリスが思わず振り向いた時にはすでにショウの姿はなく、彼はすでに風のように教会の外へ流れ出てしまっていた。
ホテルに向かって疾走するショウの心の中で不安が一気に膨らみ、はじけそうになる。記憶を失ってしまっている今のショウには相手が何者なのかも何もはっきりしたことは分からない。だが彼らの目的は自分であり、自分のことはすべて知られてしまっているとみていいだろう。相手はとんでもないプロ集団で、自分は自分のことさえ分かっていないのだ。
しかし、今回のことで分かったことがある。今相手にしている組織に自分も関係しているようである。そして、彼らに対抗する力が何かしら自分に備わっているようだ。
そうと分かった今一番危険にさらされているのは・・・・
ショウは疾風のように飛んだ。街灯の光もまばらな闇の道をためらうことなく縫うように走り抜ける。
ホテルのロビーに飛び込んだショウの眼は細くなり、あたりを見回す。いつもフロントマンがいるはずのカウンターは無人であった。ショウの鼻腔は確実に大量の血の匂いを嗅ぎつけている。おそらくあの愛想のいいフロントマンはカウンターの向こう側で永い眠りについていることであろう。
階段の下で耳を澄まして全神経を集中させる。人の気配もなく、殺気も感じられない。
すでにリシェールは・・・・という最悪の結果を押し込めて、ショウは階段を駆け上った。フロアの角を曲がり、廊下の真ん中あたりの部屋、そのドアは開いたままであった。
ショウの心の声が叫ぶ、「リシェール、リシェール、リシェール、リシェール、」
開いたままのドアから部屋の中へと飛び込む。部屋の中は、電気スタンドが倒れ、足元にはクッションが転がっている。
冷たい風が頬を撫でる。ベランダへの扉が開きカーテンが風になびいている。
ベランダに飛び出たショウの目に映ったのは、黒いワンボックスカーに積み込まれているリシェールの姿であった。
ショウが一番恐れていたことが起きてしまった。
考えるより体が先に動いていた。ショウの体はあっという間にベランダの向こう側へと消えた。着地の瞬間前受身を取りショックを和らげる。こんなことをどこで覚えたのか、記憶はないが体が覚えている。そんな違和感をここにきて少なからず感じている。
さっきの教会でのこともそうだ。銃を手にしたとき、知らぬうちに正確に動作するか、トラップは仕掛けられていないか弾倉を取り出し、チャンパー内をチェックしていた。
そして、自分の体が教会の壁面を走り抜けたとき、本当の自分が何者なのか微かに理解し始めていた。
そして今、リシェールを自分の過去に巻き込んでしまったことを後悔している。自分のいた世界は世間一般の世とは違うことは武装集団に襲われたときにすぐ分かっていたのに・・・。
公開がショウの心を締め付ける。
しかし今、そんな感傷にひたっている余裕はなかった。疾風のごとくショウは走った。高さ2メートルを超えるホテルの壁の手前で一瞬ショウの体が沈んだ。次の瞬間にはショウは壁を飛び越えていた。
リシェールを乗せた黒いワンボックスカーは100メートルほど先の角を曲がって消えてしまった。
人がいくら早く走ろうと、自動車に追いつくはずはない。分かってはいるがショウは全力で走っていた。
ワンボックスカーが消えた角を曲がった時、目の前には暗闇だけがあった。