雨東風
「ここに来たのは初めてではないのだ」
彼はそう自分にそう言い聞かせた。しかし、手のひらには汗がにじみ、時折ふるえまでくる。
「何を恐れているんだ」
自分に問いかけてみる。
その答えは分かっているが否定したかった。そんなことはない、ありえないのだと信じたかった。
確か、ここに来たのは1度や2度ではない。だが、わざわざ迎えが来たのは初めてであった。
そう、その迎えに来たその2人を見たときから恐怖が私の心を支配した。
「どうかしたのか、ドクター・ブラス」
氷のような表情で男は言った。
背がひょろりと高く、肌の色は漂白したように真っ白で鋭利なナイフでそぎ落とされたような顔の形に、切り傷のような細い割れ目から凍りついた瞳で見つめる。
この男クロウといった。
その傍らに立っている、がっちりとした体格に暑苦しい、いかつい顔が乗っているいつも機嫌の悪そうな男がジョウという。
彼ら二人は、アベル直属の部下でアベルの言うことはすべて実行する。
サヴァランの中で最も忌み嫌われている2人である。
その二人を見たときにすでに死を覚悟した。
原因も理由も分かっている。でも納得いかないのだ。
「私の何がいけないのだ」
心の底で叫んでいる。
「これまでは順調であったではないか、どれだけの結果を私の研究の結果から生み出したと思っているのだ」
誰にも知られることのない心の中だけが彼の自由な言動の場所だった。
実際のところ、あのプーペ(人形)がいなくなったということが、どうだというのだ。それにそれがどう私の責任に繋がるのだ。
全く理不尽、理解しがたい。
まったく理解しがたい、私が作り出したあのプーペが勝手な行動をするなど考えられない。
あれはあくまでもプーペ(人形)のはずなのに、すべての記憶だけではなく感情までも取り除き一体の戦闘マシーンとして作り上げたのである。
クロウとジョウに挟まれるように広い廊下を歩き続けた、ドクター・ブラスであったが、目的地であるドアの前に立った時初めて視線を上げた。
マホガニーでできた巨大な扉の向こうにいる人物こそが彼の雇い主である絶対君主である。
二人の男に押し出されるように扉の前に立つ。扉の前でいつまでも躊躇しているとクロウが扉を開き、ジョウが部屋の中へ押し込んだ。
ここは社長室ではあるが、ごく一部の者しか知らない特別な部屋である。
その広い部屋の奥に巨大なデスクがあり、その向こう側にゆったりとした椅子にアベルはいた。
ブラスはアベルの視線と自らの視線が重なった時、瞬時に固まってしまった。
アベル特有の爬虫類のような冷酷な瞳に吸い込まれると、彼はどうにもならなくなってしまう。
ビクビクしながら、恐る恐るデスクの前へと進む。
傍で見ているとイライラするのろまな動作であるが、アベルはそんな彼を見つめたまま眉一つ動かすことはなかった。
ドクター・ブラスは直立不動のままアベルの言葉を待った。
ブルーの大きな瞳が彼を見つめる。
ブラスの心臓は早鐘のように鳴り響き脳の奥底までも震えるほどである。
「今回のプーペの失踪について、ドクター・ブラスあなたの見解をお聞かせいただきたい」
いつもと同様の低い声で丁寧な言葉使いではあるが、その奥にある黒い闇感じ取っていた。
まさに、眉一つ動かす事もなく人の命を奪えるのはこういった人間なのだ。
ブラスの中にある危険警報のベルはけたたましくなっている。
どうすればこの危機を回避できるのか、彼の鋭敏な頭脳はこれまでにないほどに回っている。
「えー・・・・今回のプーペの不可解な行動についてですが・・・・えー・・えー・・なんというか・・・そのー・・」
アベルは黙って聞いている。
彼は清潔な真白いハンカチを取り出すとしきりに汗を拭き、決してアベルのほうを見ようとしない。
「予期することができなかった」
アベルの言葉に、コクリとうなづく。
「えっえー・・・・あの問題のプーペでありますが・・・順調でありました。記憶の抹消、および感情の操作においてもいずれも・・・その・・・何の問題、支障もなく・・・その・・・完全に遂行されたものであり・・・」
とめどなく溢れる汗を落ち着きなくハンカチでふき取るブラスは傍眼に見てもうっとうしいの一言に尽きる。
そんなブラスの行動にも何の反応を見せることがなく全くの無表情のアベル。
「それで、新しいプーペの進行状態はどうなんですか」
「えー・・・・順調に進んでいるようです」
「そうか、今日はわざわざすまなかったな」
その言葉で自分が無事解放された・・・そう思った。
震える膝に力を込め、振り返った。
目前がさえぎられる。
見上げるとクロウの冷酷な顔があった。
こっちを見下ろすことなくまっすぐ前を見ている。
ビクッとして仰け反るように後ずさる。
ヌルッ・・・足元が滑る。
視線を下に向けてみると、自分の腹部が血まみれになって見たことのない肉塊が飛び出している。
ボーっと自分の腹を見ている。脳の機能が停止してしまったように自分の状況が理解できていない。
全身の力が抜けて、糸の切れたマリオネットのように膝から崩れ落ちる。
床に横たわったドクター・ブラスの瞳に最後に映ったのは、アベルの冷ややかな笑みを含んだ死神の顔であった。