第三話
セデュはまだ帰ってこない。出かけてからもう2時間にもなるというのにだ。家族会議が紛糾しちゃって、身動き取れないって感じだろうか。特にあいつの家族はいわゆる上流階級ってヤツだから、一般家庭に生を受けた僕なんかには計り知れない苦労があるんだろう。同情するね、まったく。
ひとりでホテルをぶらぶらするのにも飽きて街へ出ようか、まずヨランダに一声かけてから、と思いつつ部屋に向かった僕はそこで、溌剌とした少女の、口汚い罵りを聞く。
「隠さないで、出しなさい! いるんでしょう、この部屋に! お兄様を堕落させた汚らわしい淫売が!」
「おやめください、ナタリー様、そんな言葉を使ってはなりません、お兄様がお悲しみになりますよ!」
くるりと踵を返して知らん顔してもよかったんだけど、というかかなりそうしたかったんだけど、僕を庇ってヨランダがいじめられるのはあまりにも可哀想だ。彼女は僕に親切にしてくれる人格者でもあるし。一方僕は悪口には慣れてるロクデナシなので、へらへら笑いながらもみ合う彼女らに近づいた。
「どうしたの、お客様かい? ヨランダ。やあ、かわいい子じゃあないか。初めまして、僕はルーシュミネ・リーヴェ。作曲家をしてる。ここには観光で来たんだ。君は?」
ぱっと小柄な少女が振り返る。きらきら輝く飴色の瞳が、セデュの瞳と重なる。黒髪を頬のところで切り揃えたボブヘアの、日に焼けた肌の美少女は、その愛らしい唇をゆがめて、僕を睨みつけた。
「あんたが、お兄様を誑かした淫売ね。いやらしい場所で、お兄様を誘惑したんでしょう、知っているわ。あんたがお金目当てにお兄様に近づいて、何もかも手に入れようとしてるってこと!」
「ナタリー様、どうかもう…」
「いいんだ、ヨランダ。彼女の懸念は正当さ。僕は確かにロクデナシだし、彼が離婚したのも僕のせいだ。でもあいつが僕を愛しちゃってることは、僕にはどうしようもないしなあ」
しまった。口が滑ってついつい余計な事を言ってしまった。火に油を注がれたように少女の怒りは燃え盛る。
「あんたみたいなのが、お兄様を奪うなんて、許されると思ってるの!? フェリシアお姉さまから、私たち家族から、お兄様を奪って、のうのうと幸せになれるとでも思ってるの!? この、淫売、ヤク中の、汚らしい男娼、人間のクズ!」
「ずいぶん口が悪いねえ。お兄様とは大違いだ。…いや、セデュもたまーに口が悪いことはあるか…」
「お兄様の話をしないで! あんたの穢れた口で、お兄様の名を呼ばないで! ぞっとする!」
「ナタリー様、私がお送りいたします。戻りましょう、ご両親のところへ…」
わっと泣き出した彼女を連れ、ヨランダがこちらに目配せをしてから部屋を出ていく。
なんだか嵐みたいな子だった。ちょっと出会った頃のダイアナにも似てた。セデュがダイアナを恋愛対象として見ないのは、妹に似てるから、だったりするのかな。なんて、ダイアナにはとても言えないけど。
僕はぐったり疲れてベッドに倒れ込む。カーテンを開け放した窓辺からは金色の日差しが入り込んでいる。セデュはまだ帰ってこない。
…。
その席は、内輪だけの集まりでした。
出席したのは、セデュイールの家族と、わたくしの家族、それにヴェネツィアに滞在中のお友達数名と、今回のセデュイールの映画の監督さんと、お偉い方々が何人か。
スクリーンで見慣れていたセデュイールだけれど、実物はもっと魅力的でした。あまりわたくしと目を合わせてくださらないのは、きっと恥ずかしがっているのね。シャイな方だから仕方がないわ。許してあげます。
高い鼻梁に整った目鼻立ち、眉を顰めて黙り込んだあの人の、愁いを帯びた美しい横顔、すらりとした立ち姿、神経質に時折ぴくりと揺れる長い指。どれもわたくしの好みです。合格ですわ! ヴェネツィアまで来た甲斐がありました。お父様もご機嫌です。わたくしの男遊び…もとい、陽気な戯れが終結して、貞淑な花嫁さんになるのですもの。わたくしも、今まで身を固めずに来たのは、今日のためだったのだと理解しました。セデュイールの花嫁! 世界じゅうの女の子憧れの美男子と、結ばれるためだったのです! オリンピア・レヴォネ、うふふ、なんて素敵な響き。羨みなさい、憧れなさい。わたくしはこのひとと結婚するの!
「それでね、セデュイール。今度ミラノで撮影するのでしょう? わたくしもね、来月、スカラ座のオペラに出るのよ。プッチーニの『トスカ』を演るの。招待状を贈るわね。…」
聞いているのかいないのか、上の空のあのひとはわたくしから視線を逸らして、あの方のお父様を呼び止めます。なにか難しいお話があるみたい。
話しかけたのが女の子でも、可愛い男の子でもなかったので、わたくしは寛容に待ちます。待っている間にあのひとの飲み物に、魔法のお粉を少々混ぜます。これで万事順調に、あのひとはわたくしのものになるのです。お粉の成分は秘密です。違法なものではなくってよ?
「いいわねエンリコ、部屋の準備は整っているわね」
「万端整っておりますお嬢様。あとはあの方を連れ込むだけでございます」
「連れ込むだなんて、うふふ、いやあね、すこーし一緒に、お休みするだけですわ」
レースの扇子で口元を隠して、わたくしは優雅に笑います。これで堕ちない男はそうそうおりません、胸元の空いたドレスも、結い上げた亜麻色の髪も、胸元に輝く大きなダイヤのネックレスも、すべてわたくしの魅力を引きたてるものばかり。今日のパーティーに参加している女の子たちだって、誰一人、わたくしに叶う子はおりません。まあ、セデュイールの妹さんは可愛らしいけれど、まだ16の子供ですし。セデュイールのお母さまはお美しいけれど、50近いお年ですし。わたくしが一番なのは間違いないですわ。うんうん。
「セデュイール、お話は終わった? わたくし退屈してしまったわ、少し夜風にあたりませんこと?」
「…失礼、シニョリーナ、私はまだ父と話がありますので…」
「これ以上話すことはないよ、セディー! オリンピア嬢と出ておいで。オペラの話でもするといい。音楽は好きだろう?」
わたくしは著名なオペラ歌手、セデュイールは有名な映画俳優。どこからどう見てもお似合いの二人です。セデュイールはパリに住んでいると言うから、わたくしが活動拠点をイタリアからフランスに移してもいいわ。セデュイールのお母さまはイタリア系だと言うから、きっと話も合うでしょう。ああ、円満な未来が見えるわ…。わたくしの希望溢れる将来が…。
「ねえ、セデュイール、わたくし、貴方の映画はすべて観たわ。特に『悪霊』が好き。陰鬱な話だけれど、冷徹な美青年役の貴方のお芝居が素晴らしかった、魅了されたわ…」
「…ありがとうございます」
「お礼なんて、他人行儀ですわね。わたくしたちは婚約するのよ、夫婦になるの。もっと気を許してくださってもいいのよ…?」
握ろうとした手をぱっと離して、距離を置くセデュイール。…なんだか勝手が違いますわね。なにかしら、この…この、慣れていない感じは…?
「あの、セデュイール? …わたくし、少し気分が悪いの。付き添ってくださらない…?」
「それはいけませんすぐに執事を呼びましょう」
「ちょっとちょっと! 待って! 執事はいいの! あなたに付き添っていただきたいの!」
わたくしにここまで言わせるなんて、なんて奥手? なの…それともこれが彼の手管なのかしら? というかあからさまに眉を顰めてこちらを見るのをよして! 冷たくされると昂ぶってしまうわ!
「…こほん。ね、セデュイール。お父様もああ仰っていたことですし…オペラの話でもいたしませんか? 貴方はどんなオペラがお好き?」
「…」
ふうと一つ息を吐いて、セデュイールが話し出します。おもに音楽への愛を、神聖かつ崇高なる音楽に対する彼の熱烈なる思いを。
…なんだか愛の告白を聞いているようで頬が熱くなってきますわ。貴方はそんなにも、オペラが好きなのね…それとも遠回しな、わたくしへの告白なのかしら…。
「もっとお話が聞きたいわ。場所を移しましょうよ、ね、セデュイール…」
広間では管弦楽の妙なる調べが鳴り響き、手を取って踊る人、歓談する人、トランプに興じる人など様々です。書斎のソファに寄り添いあって座るわたくしたちに注意を払うものはひとりもおりません。まさにチャンスですわ。ここでセデュイールをものにして、わたくしはスターダムを駆け上がるのですわ――
「…ね、セデュイール、いいでしょう?」
「…」
「セデュイール?」
「…おえ、」
「セ、いや、ちょっと、待って待って、ぎゃああああ!?」
――後で知った話なのですけれど、セデュイールは下戸なんだそうです。
これは、そうとは知らず強めのカクテルをソフトドリンクと偽って飲ませたわたくしの落ち度です。
それにしても、夜会服に吐瀉物をひっかけられたのは、わたくしは初めてですわ!
まったく、セデュイールったら、なんて面白い男…。




