第一話
坊ちゃんの新しい仕事が、来週から始まります。
ヴェネツィアで約4週間、ミラノで1週間の撮影期間、坊ちゃんはルーシュミネ様を連れてイタリアのホテルに滞在致します。
私は、坊ちゃんのお言いつけに従って随行し、ルーシュミネ様のお世話をするのが当面のお仕事でございます。
坊ちゃんの可愛い水の精さんは、オークバークのスーツケースに衣類を詰め込みながらウキウキとハウスメイドに話しかけておられます。光を幾重にも反射するようなエメラルドグリーンの虹彩がきらきら煌めいて、愛らしい頬が赤く染まって、とっても愛らしいこと。坊ちゃんがこの子を溺愛する心情も、よく理解できます。ふわふわと、いつでも夢見ているような瞳のこの子は、まるで天から間違って現世に落とされた天使のようにも見受けられます。
「ヴェネツィアかあ、ひさしぶりだなあ! 前に行ったときは父さんと二人だったから、セデュとは初めてなんだよね。異界に紛れ込んだみたいで、面白いところだぜ。夜なんて特にね。お土産は何がいい?」
「めめ、滅相もない! お土産なんて、そんなそんな…」
「ヴェネツィアングラスの香水がほしいです、ルーシュミネ様!」
「ちょっとルージュ!」
「D‘accord.パールもそれでいい?」
「…ありがとうございます。家宝に致しますう…」
「ほらほら、口を動かさないで手を動かす! ルーシュミネ様、荷物はこれだけでよろしいのですか?」
「えっと、あとスコアも入れなきゃ! 旅先では、いいアイデアが浮かぶんだ。セデュと一緒なら、特にね!」
「そうでございますか、それはそれは…」
坊ちゃんのことを語るときのこの子は、愛らしい頬がやわらかく綻んで、満開の、純白のアマリリスのようです。
――私は坊ちゃんとこの子が、世間様の冷たい悪意によって傷つかぬよう、引き裂かれぬよう、祈りながら、お仕えするのです。
旅立ちの朝です。三人分のスーツケースを車のトランクに詰め込み、運転手のセラノはココア色の首で頷いて、出発の準備が整ったことを知らせます。セラノは無口で、滅多に言葉を発しません。坊ちゃんの少年期から仕えてきた仲間で、坊ちゃんが独り立ちされる際に志願して共に仕えてまいりました。
今日もセラノは何も申しませんが、寄り添いあう坊ちゃんとルーシュミネ様を見るその漆黒の瞳は愛おし気に潤んで、喜びを湛えております。
「では、行ってくる。留守を頼んだぞ」
「好きに散らかしちゃっていいよお、帰ってくるまでに掃除してくれればね!」
「しし、しませんしません! 断じて!」
「行ってらっしゃいませえ、セデュイール様、ルーシュミネ様、あとヨランダも!」
「帰ってくる前に連絡してくれよお、おいしいごはんを用意して待ってるからさあ」
「はい、行って参りますよ。坊ちゃん、ルーシュミネ様、参りましょう」
ハウスメイドのパール、ルージュ、料理人のクロードの見送りを受けて、私共はセラノの車に乗り込み、オルリー空港に向かいます。こうして、私共の長い旅路が、始まりました。
ヴェネツィアに到着してすぐにルーはゴンドラに乗りたがり、スーツケースを解く間も惜しんで街に繰り出す。
サンマルコ広場でジェラートを食べて、鐘の音に一斉に飛び立つ鳩の群れにけらけらと笑う。
迷路のような細い路地をあてずっぽうに歩き回り、ごてごてと装飾が施された仮面やレース編みの店、ヴェネツィアングラスの工房を覗き見ては私の手を引き、目に入るもの悉くが素晴らしい神秘に満ちてでもいるように目を輝かせる。
旅先のルーはいつでも陽気で溌剌としていて、全身から光を放っているようで、私は目が離せない。
「見てよ、猫の仮面がある。あれを君の部屋に飾ったらどうかなあ、いけない趣味のひとみたいに見えるかな?」
「…お前には似合いそうだな」
「えー? ほんとかよ、適当言ってない?」
目元や口元、ピンと伸びたヒゲに金の縁取りがある猫の仮面を手に取って顔に当てるが、頭が小さいせいで不釣り合いに浮いて見える。…それもまた、愛らしいのに違いはないが。
「あ、笑ってるな。似合ってないかにゃあん? 君はネコじゃあなくて、ほんとはオオカミが好きなのかにゃあ? ガツガツ食べられちゃいたいのかにゃ?」
「私はお前が好きだよ」
「…真顔で言うなばか」
仮面を外してぷいと他所を向くその頬が熟れた桃のようなピンク色で、齧りつきたくなる衝動をなんとか抑える。
店主に声をかけ、購入した猫の仮面を、ルーはホテルに着くまでずっと被っていた。
撮影は順調だ。私は朝から現場にでかけ、ルーはホテルでヨランダと共に過ごしている。作曲のほうも円滑に進んでいるらしい。出来上がった曲を聴くのが楽しみだ。ルーの作る音楽は、この世の何にも似ていない、彼自身の才能の発露だ。スランプに悩んだこともあったようだが、今はその才をぞんぶんに羽搏かせている。
ルーから音楽を切り離すことはできない。それは彼自身の魂と深く結びついているものだと私は思うからだ。
ルーが自らそこから離れるというのなら私はその決断を尊重するが、外部の、くだらない障害によってルーが音楽から切り離されることを私は望まない。
ルーの才能が再び世界を席巻する日は必ず来る。私はそれを確信している。
――折悪しく、ヴェネツィアを訪れていた私の家族に呼び出されたのは、そんな時だった。




