エピローグ
ポン、ポン、ポン、タララ、ルル…
ピアノで遊んでいた僕は扉の開く音に飛び上がって、階段まで駆ける。今日は朝からセデュは新作の打ち合わせで、顔を見られていないんだ。
「セデュ、おかえり! あのね、新しい曲ができたんだ、きいて――」
パラパラと玄関ホールでトレンチコートとハットについた雪を払う長身に、僕はかたまる。
艶やかな黒髪と長い脚、よく日に焼けた肌と、整った精悍な顔立ち。身長は、セデュと同じくらいか、ちょっと高いくらい。
セデュを30年くらい老けさせて、貫録を5割増しくらいにしたら、こんな感じになるんじゃないかって風貌の、美貌の老紳士が、そこにいた。
「やあ、君がルーシュミネ君か。初めまして…いや、一度、会ったことがあったかな?」
…セデュのお父さんだ。こんなにセデュにそっくりなんだから、絶対そうだ。間違いない。
「セディーとは仲良くやっているようだね、うんうん。仲良きことは美しきかな、だ」
鷹揚に笑って頷く。でも僕は、このひとが怖いひとだってことはわかっているので、できるだけ小さく見えるように、見過ごしちゃうような塵芥に見えるように、身を竦ませる。
「どうされたん、ですか。僕のこと、偵察に来た、とかですか」
「んん? いや、誤解しないでくれよ。僕はただ、セディーの愛する人に、挨拶に来ただけなんだから」
「…挨拶…」
「そうとも! 君は音楽をやっているようだね、ぜひ演奏を聴かせてほしいな。セディーのいるときでかまわない、僕は君たちの平穏を脅かすつもりはないからね」
「ピアノなら、今でも、弾けますけど…」
「そうかい? だが、今日はやめておこう」
老紳士はハットを被る。目じりの皺もダンディーで、色っぽい。彼もまた映画俳優みたいだ。美男子の血ってやつか。うーん、こんなふうになったセデュも、見てみたいなあ。パパって呼んで、甘えたい感じだ。このひとには怖くて、とてもできないけど。
「セディーの成長を、私は近くで見ていなかったからね。責任を感じているんだ。仕事にかまけてあいつを放っておいたこと、幼いあいつを、気遣ってやれなかったこと」
「…」
「君は昔から、セディーの友人だったろう。ヨランダから聞いていたよ。天使みたいな幼い子供が、セディーの孤独を癒して、幸せを与えてくれているってね」
「…ヨランダが、」
「君の過去にいろいろなことがあったのは知っている。それゆえに僕は君たちの仲に反対してきた。…今も妻や娘は、反対しているがね、」
「それは、…しかたないと、おもいます。諸手を振って受けいれられるなんて、おもってません」
「そうかい」
「ぼくは、…セデュと並んで立つなんてとても許されないようなこと、たくさんしてきました。あなたがたの懸念は、とうぜんです」
「ふむ」
「だから、財産とか、家屋敷、とか、そういうのは、いらないです。ぼくはセデュのそばにいられるだけで、しあわせだから」
「…」
「できれば、セデュには、家族と仲良く、してほしいんです。だから、セデュのこと、ぼくのせいで、見放すなんてことは、しないでください。ぼくは、なにも、いりませんから。ほんとうに…」
握りしめた掌が汗で滑る。久しぶりに緊張してる。こんなに緊張したのは、えーと、ヴェネツィアのカーニヴァル以来? あれ、意外と最近だな。
微笑を湛えた口元で僕を見上げていた老紳士はそこで、豪快に、快活に、ハッハッハッ、てな感じに、笑った。
「…な、なにか、おかしい、ですか」
「いやあ、君があまりに――」
「…ぼくが?」
「――いや、うん。セディーが夢中になるのもわかるな。君はとっても魅力的だよ。思っていたより、ずいぶん可愛らしいじゃないか。やはり会いにきてよかった」
「…え、」
「セディーのこと、よろしく頼むよ。僕はあまり、君たちのことには干渉できないから――セディーに怒られてしまうからね。これだけ言っておくよ」
「…はい」
「セディーに愛する人ができたことを、僕は嬉しく思う。僕は君たちを祝福するよ、心から。…セディーにそう、伝えておくれ。セディーの可愛い妖精さん」
老紳士は甘い綿菓子みたいな笑顔でそう言って、颯爽と帰っていった。
なんだか胸がじんと痺れる。あたたかさが、お湯に浸かったときみたいに、指先まで伝わっていく。
早くセデュにあいたいな、と思って、僕は階段に腰かけた。
雪はまだ、やまないみたいだ。




