第十三話
クローゼットから転がりだしたエンリコが触れ回ったおかげで、それからすぐに、セデュイールのお義父さまとわたくしの父が慌てて部屋に駆け込みます。
セデュイールはわたくしを抱え喉元にナイフをつきつけたまま、騒然とする観客を、淡々と見つめています。
「何をしている、バカな真似はよせ。君は婚約者を殺すつもりか?」
いつも悠然と構えておられるお義父さまも、さすがに汗を光らせています。当然ですわ。あまりの展開に、わたくしも頭がついていけません。
「貴方がたに私の要求を呑んでいただけないなら、そうなるでしょう。殺人者を出すのはレヴォネの家系では初めてですよね?」
「なんと愚かな、この男は狂っているのか?」
「ハッタリだろう、君がそんなことをできるとは思えないね。ナイフを棄てなさい、彼女を離すんだ」
「ハッタリではありませんよ。ではご覧に入れましょう」
ぽつりと呟いたセデュイールはナイフを翳し、すらりとしたむき出しの、自身の左腕を斬りつけます。鮮血が噴き出し、ぼたぼたとシーツやわたくしのネグリジェに垂れ、まるで凄惨な屠殺場のような、生臭い匂いが部屋に満ちます。
「切れ味は十分なようですね、次は彼女の首です。頸動脈を切断すれば、人は簡単に死に至るらしいですよ」
「きゃああああ!」
「静かに、お嬢様、共に地獄に参りましょうか」
怯えるわたくしにも一切頓着せず冷徹に述べるセデュイールを間近で見上げると、そこには、燃えるような怒りと、嫌悪と、厭世にみちた瞳がありました。
ぞっと、氷塊に貫かれたような寒気がわたくしを襲います。
火炙りにされてこの世を呪うひとのような、血反吐を吐いて嗤うような、その瞳にわたくしは、一片も映っておりませんでした。
ただの一片も。
「たすけて、お父様、エンリコ! この狂人からわたくしを救い出して!」
わたくしは知らず叫んでおりました。ぴりぴりとした緊張感が部屋に満ちて、身体の震えが止まりません。
「わかった、君の要求を聞こう。なんだ、何が望みなんだ」
おろおろとエンリコと顔を見合わせるお父様を他所に、セデュイールの父君が真っ先に応じます。セデュイールはナイフをもてあそぶように揺らしながら、濁った琥珀の瞳で父君を顧み、神託のように告げるのです。
「私とルーのことに、金輪際、口出ししないでいただきたい。貴方が握っているルーの秘密も、揉み消していただきましょう。貴方になら容易いはずだ」
「…わかった、君の要求を呑もう。オリンピア嬢を離しなさい」
「誓ってください。約束を決して違えないと」
「誓おう、私の負けだ、降参するよ、セディー…」
セデュイールに突き飛ばされたわたくしは血に塗れたネグリジェのまま、くたりと床に頽れます。エンリコが慌てて駆け寄り、わたくしに上着を着せ掛け、お父様が放心したわたくしを抱き寄せます。
セデュイールはぼんやりとナイフを首元に翳して、父君に向かって言うのです。
「もしも誓いを違えたならば、私は自ら命を絶ちます。貴方がたが隠せないような派手な死に様で、レヴォネの御名に泥を塗ってさしあげますよ」
窓から覗く真白い月を背に、壮絶に微笑むセデュイールは人でないもののように恐ろしく、そして、忘れられないくらいに、美しかったのです。
僕はその翌日、パリに帰った。
荷物も纏めなきゃだし、住むところも探さなきゃいけない。
できればセデュの近くに住みたいんだけど、いい物件ないかなー、マチウに探してもらおうかな。
いきなり帰ってきた僕に屋敷の人たちは驚いたみたいだけど、ハウスメイドのルージュもパールも、黙々と荷物を纏める僕を不思議そうに手伝ってくれる。彼女たちのところには、セデュの婚約の話はまだ届いていないみたいだ。
「どこかにまたご旅行されるんですか? ルーシュミネ様」
「んー、うん。そんなところかなー」
「せめてセデュイール様がお戻りになるまで待たれては? 坊ちゃん、お寂しがると思いますよお」
「そうだねえ、そうしたいのはやまやまだけど…顔を見たら、離れがたくなりそうだしなア」
「ルーネ君、帰ってくるなら先に教えてって言ったのにい。あれ、どこか行くのかい?」
「うん、ちょっと作曲旅行に。ヨーロッパを一周するのもいいかもなー」
「セデュイール様をお待ちになったらって言ってるのに、ちっとも聞いてくれないんですよクロードさん!」
「それはいけないねえ。セディー君が寂しがるよお」
「みんなセデュに甘いんだもんなあ、ちょっとは僕の味方もしてよー」
けらけらと笑いながら使用人の軽口に応じる。こんな会話も、もしかしたら最後かもしれないな、なんて思いながら。
離れがたいけどしかたない。僕はどうにもならないことには拘らないでいたい。スーツケースをばたんと締めて、立ち上がる。とりあえずは宿探しだ。これまでみたいな贅沢はできないから、倹約にも気を付けて…。財布はマチウに握っててもらおうかな。苦手なんだよなー倹約。
スーツケースを持ってくれるというパールの申し出を断って、ファー付きのダッフルコートに袖を通す。旅支度の完成だ。よし、行こう。
とことこ階段を下りていくと、ばたんと外で扉の閉まる音がする。これはもしかして、セデュが帰ってきちゃった、のかな。どうしよう、もし婚約者さんと鉢合わせしちゃったら果てしなく気まずいぞ。どこかに隠れてやり過ごそうかな…。
うろうろ視線を彷徨わせる僕をきょとんとした顔のハウスメイド二人が見守る。
「ねえ、どこかに匿ってくれないかな、セデュと今顔合わせられないっていうか、合わせたくないっていうか…」
「喧嘩しちゃったんですかルーシュミネ様!?」
「いけません、どちらが悪いかわかりませんが、きちんと謝らなくては!」
「いや君ら絶対僕が悪いと思ってるよね!? いつも概ねその通りだけども!」
「だいじょうぶです、セデュイール様は寛大なので、許してくださいますよ! たとえ旦那様からいただいた数十万フランの壺を割っても、浴室にお酒を零しても…」
「悪かったってー、もう家宝の前でふざけたりしないし、風呂で酒飲んだりしないからー匿ってよー」
「ちゃあんと謝らないと、後で拗れますよ! 坊ちゃんは貴方が大切で、周りが見えなくなることがあるんですから――」
「ルー!」
ばたんと扉が開いて、セデュが駆け込んでくる。黒のチェスターコートの肩に雪が載っている。朝から降り出したのだろうか。
くるりと見回しても、ヨランダの他に人影はない。…婚約者さんは、一緒じゃあないみたいだ。
僕はほっとして、階段を降りて、セデュの前に立った。
「おかえり、セデュ。出ていく前に、会えてよかった」
「坊ちゃん、ルーシュミネ様は坊ちゃんを待たずにひとりでどこかに行っちゃうつもりだったんですよお!」
「ルージュ、パール、ここはお二人だけにしてさしあげましょう…」
「わわ、そうですね、お邪魔虫は退散しましょ、ルージュ…」
メイドさんたちがそそくさと席を外して、僕らは二人きりで向かい合う。
セデュは僕の目を覗き込んで、言葉を探しているみたい。僕の目の中に、君の求める答えがあるわけもないのに、おかしいね。
「僕の荷物、残ったものは処分しちゃっていいよ。だいじなものは全部詰め込んだ。君のくれたものとか、スコアとか。ここに来ることはもうないだろうから、僕の痕跡はぜんぶ消したほうがいいね。君の奥さんになるひとも、嫌だろうしさ…新居はまだ決まってないけど、決まったらしらせるよ。手紙がいいかな、電話だと、君が出られないときに、困るだろ? 僕も君たちの痴話喧嘩の種になるのは嫌だしさ…」
「婚約は解消した」
「うん、僕もそれがいいと思って――え?」
「オリンピア嬢は私とはもう何の関係もない」
「え、え…」
わけがわからず、うろうろ視線を彷徨わせ、ふと見下ろしたセデュの袖口から覗く包帯に、僕は動転する。
「刺されたのかい!?」
「これは自分で斬った」
「自分で斬った!???」
「出ていくのか? お前は」
「…えー…いや、えっと…」
必死で言葉を探す僕に、セデュは淡々とした様子で言葉を並べる。ふいと瞳を僕から逸らして、苦いものを噛んだみたいに眉を顰めて。
「…バロットと暮らすのなら、別宅を用意する。あいつが承諾すればだが…」
「なんでバロット? …あ、もしかして、聞いちゃった…?」
「…私はお前を裏切って、傷つけた。それで償いになるとは思わないが、お前が望むように、すべて図らいたい。…お前が、バロットといたいと言うなら、私には止めることはできない」
傷跡を見せつけるみたいにセデュが言うのに、僕はどんどん苦しくなる。僕の弱さが、僕のだらしなさが、セデュをまた追い詰めてる。でも、僕は素直にセデュに向き合えなくて、ついつい意趣返しみたいなことを並べてしまうのだ。
「…オリンピアさん、のことは、もういいのかい」
「彼女とは、もう会うつもりはないよ」
「ほんとは、ずっと、つきあってたんじゃないの。僕に黙って、いちゃいちゃしたりしてさ。しゃ、写真まで撮って、送り付けたりして、見せつけたくせにさ、」
「写真…?」
「ほんとは、きみ、おんなのこも抱けるんだろ? 僕といる意味、べつにないんじゃないの? いまさらそんな、一途ぶったりしなくてもいいよ…」
ひとりでいたときに、ずっと考えていたことがぼろぼろと口から零れだして、止められない。せっかくセデュが帰ってきてくれたのに、僕のところに、戻ってきてくれたっていうのに。このままだともっとイジワルなことまで口にしそうで、僕は唇を噛み締める。俯く僕にセデュは一歩近づいて、だらりと垂れていた手をのばす。
ためらいがちに僕にふれて、くいと顔を持ち上げる。瞬く瞳が近くに見えて、僕は久しぶりの距離に戸惑って、…。
「…意識を失って、気づいたら彼女といた。寝惚けてお前と間違えた」
ぽつりと、感情の乗らない声で、セデュは呟いた。
「…ええ?」
「もう二度と酒は飲まない…これ以上あんな醜態をさらすのは御免だ…」
「いやそんな決心しなくていいから…」
――もしかして、むかしの僕とおなじように、セデュも、あの子に嵌められちゃったってこと、だったのかな。
だとしたら、一方的に決めつけて断罪するのは、あまりにセデュがかわいそうだ。
これは、完全にぼくの、希望的観測、だけど。
「うそ、吐かれてたと思ってた。ほんとはきみは、二股もよゆーでかけられるタラシなんじゃないかって…きみはいい男だし、もてるだろ? ぼくだけがきみを独占できるなんて、そんな奇跡起こるわけないんじゃないかって…」
伏し目になる僕の頬を、両側から挟み込んで、今度はまっすぐ僕を見つめて、セデュは言う。はっきりと、沈みがちな僕の心を、立ちなおさせるみたいにして。
「私に隙があったせいだ。すまなかった」
「…ぼくもかんちがいして、ごめん」
「…おまえは、バロットといたいのか?」
最後に確認するような声に、僕は首を横に振る。
「…彼はいいひとだけど。ぼくにやさしくしてくれるけど。ぼくはそれに応えられないよ。ためしてみたけど、だめだった。彼にはほんとに、悪いことしたと思ってるけど…どうしても、さいごまで、できないんだ」
「…ルー、」
「ぼくは、きみじゃなきゃ、だめみたい」
セデュの潤んだ飴色の瞳が僕を見つめる。濡れた彼の肩の雪を払って、僕は楽園を見つけたみたいに笑う。
「愛している、ルー、お前の魂を、お前の凡てを」
「やっと言ってくれたね。待ってたよ、ずっと待ってた…」
窓の外にちらちらと粉雪が舞う。
淡く青白い朝にきらきらと反射して、夢の中みたいで、僕は目を閉じる。
セデュの体温と、甘い香りが、いつでも傍にあるように、僕はそうしてひとりで祈った。




