第十二話
上映中の劇場内はロビーも階段も、がらんとしている。
入口で招待状に同封されていたチケットを見せ、つかつかとロビーを進む。赤絨毯の布かれた階段を上がり、上階のホワイエに向かう。
壮麗なシャンデリアが煌めき、白大理石と、ここで作品を上演してきた歴代作曲家の立像が見える。
僕は気ばかり逸って、脚に羽が生えてるみたいで、次第に駆け足になりながら進む。
舞台では朗々としたテノールの美声が響いている。『星は光りぬ』、『トスカ』を代表する、プッチーニの名曲だ。
バタンと、桟敷席から抜け出してきた性急な足音が僕に近づく。
僕が上階まで辿りつくのも待てないみたいに、セデュが階段を駆け下りてくる。
誰もいない、がらんとした階段で、僕たちはきつく抱きしめ合う。
踊り場をぐいぐい進んで、壁に僕を押し付けたセデュが、切羽詰まったみたいなキスをする。
僕たちは吐息も唾液も交換しあって、夢中で唇を貪り合う。まだまだ、いくら舐めしゃぶっても足りないみたいに。
僕の震える手はセデュの背中にしがみついて、彼の黒いタキシードに皺が寄るくらいきつく握りしめる。セデュの背中に爪痕を残してやりたいなんて、イジワルな考えまで湧いてくる。
僕にはそれくらいしか、現状に抵抗する手段がないからだ。
唇を離しても息は落ち着かない。はあ、はあ、と肩を揺らす僕を、セデュは抱きしめたまま離さない。このまま溶けて消えちまいたい。そしたらもう、離れることなんてできなくなるのに。
「ルー、今晩始末をつける。これでこの茶番も終いだ。…もし私が、お前の元に戻れないようなら、私を忘れて生きてくれ」
「なんでそんなこというの。いやだよ、どこにもいかないでよ、」
「私の心はお前と共にある、いつでも…」
「こころだけじゃいやだ、そんな、目に見えないものにすがるのはいやだ!」
「ルー、…」
「すきなんだ、きみのことがだいすきなんだよ、ぼくをあいしてるって言って、いつもみたいに、ぼくをなぐさめてよ」
「…」
「愛人でいい、きみのそばにいられるならなんだっていい! だからどこにもいかないで、ねえ、セデュ、おねがいだよ…」
僕の涙がセデュのタキシードにしみをつくる。
セデュはひどく苦しそうに眉を顰めて、潤んだ瞳で僕を見つめて。
優しい掌で僕の涙を拭って、またきつく抱き寄せた。
セデュは、その晩、愛しているとは、いちどもいってくれなかった。
「今晩、貴方の寝室に伺います。よろしいですか」
セデュイールの初めてのお誘いに、わたくしは飛び上がります。
『トスカ』終演後、楽屋を訪ねた彼自らのお誘いです。これは、いよいよあれですわね! セデュイールの本気モードが、見られるということ、ですわね!?
天にも昇る心地とはまさにこのこと! セデュイールと同じホテルの、同じ階に滞在しているというのに、今まで一度も訪ねてくださらなかったのは、きっとそう、今日この日のためだったんですわー!!
舞い上がったわたくしは挨拶もそこそこに部屋に戻り、今晩の準備をいたします。
「ねえエンリコ、白の下着と赤の下着、どちらが初夜にふさわしいかしら!?」
「白じゃあないですかね、純潔の花嫁さんって印象持たせたいなら。お嬢様には赤の方が似合いますけど」
「そうなのよねー、うーん迷うわー」
白の下着はレースやリボンで飾られた可愛いらしい印象のもの。赤は、黒いレースと同色の小さな飾りのついた、大人の女性らしい艶やかな雰囲気のものです。わたくしのタイプ的に赤が似合うのは間違いないのですけれど、セデュイールの好みを考えると――
脳裏にヴェネツィアで出会ったあの男の子の姿が浮かびます。
見た目だけは極上の、ブロンドの美少年(実年齢は知りませんけど)といった雰囲気のあの子なら、白の下着がきっとよく似合うでしょう。
もしかしたら女物の下着をつけて、セデュイールを誘惑したりしたことが、あったかも、なかったかも…。…。
「赤にしますわ。セデュイールに、わたくしの魅力を見せつけてやるために!」
「左様ですか、お気張りくださいお嬢様」
「ちなみにエンリコ、今晩もあなたはクローゼットに潜んで一部始終、監視してもらうわよ。セデュイールの気分が途中で変わるようなことがあったらいけないものね!」
「左様ですか…わたくしの人権は完全無視ですね…」
「何か言ったエンリコ?」
「なんでもございませんですー」
エンリコに手伝わせて赤のエンジェリーを身に着けたわたくしはバラの花のように艶やかです。あの男の子になんか負けませんわ! 手を拱いてみていなさい、わたくしは今夜、遂に、やっと、とうとう、セデュイールと結ばれるのですわー!!
キイ、と扉を開けて、セデュイールが部屋に入ってきます。部屋の灯りは消して、ベッドサイドの燭台だけが微かに揺れます。
いつもきっちりとボタンを留めて素肌を見せないあのひとが、だらしなく胸元の空いたシャツ姿で、映画の撮影に使う将校服のような、ぴったりしたズボンを履いています。
なんだかドキドキして参ります。これが貴方の本気モード…わたくしにこれまで見せてくださらなかった、貴方の素顔なのですね…。
「うれしいわ、セデュイール。遂にこの日が来ましたのね…」
うっとりと囁く私は菫色のネグリジェ姿です。ランジェリーもばっちり、化粧にも手抜かりはございません。どこをとっても一点の曇りもない! 完璧な貞淑の花嫁ですわ!!
「私も待ちわびておりました。ヴェネツィアで貴女と初めて会ったあの日からずっと」
淡々と述べるセデュイールは目を伏せて、少し恥ずかしそう。シャイな方ですものね、気持ちはよくわかりますわ。…もしかしてこの方、この美貌で、実はあまり経験がないのかしら? 生真面目な方ですもの、あの愛人の坊やに振り回されて、まともな恋愛の経験が少ない、とか? それならばわたくしがリードするのも吝かではないですわ。いえむしろ燃えますわ。今晩は長い夜になりそう…。
「こちらに来て、セデュイール。お話も楽しいけれど、もっと楽しいことをいたしましょう?」
セデュイールは素直に、窓辺に置かれたわたくしのベッドに近寄り、ギシリと音を立てて膝を乗り上げ、わたくしを抱き寄せて――
「動かないでください。あなたの執事を呼んで、私の父を、連れてきていただきたい」
きらりと光るナイフをわたくしの喉元につきつけて、そう冷然と言い放ったのです。




