第十一話
水上バスから離島に降り立つと、少し離れた海外線近くに、釣り糸を垂れたバロットがいた。
僕はライトブルーの長い裾を引き摺りながら、彼のところにてくてく向かう。
「何か釣れたかい? バロット」
「だめっすね、今日は…朝から釣り糸垂れてるんすけど、なんも掛かりません」
「そっか。まあそういう日もあるよね…」
「…話せたんすか、セデュイールと」
釣り竿を見つめたまま、バロットが問う。僕はちょっと考えて、こくりと頷く。
「…うん。言いたいことは言ってやったよ。ちょっとスッキリした」
「そすか」
「あいつの婚約者にも会ってきたよ。色っぽいおねーさんだったなあ。僕とはぜんぜん違うタイプの…」
彼の隣にしゃがみこんでへらへら笑いながら並べる僕にちらりと目線を寄越し、バロットはすぐに逸らしてしまう。釣り糸を手繰り寄せ、何も掛かっていないそれを改めて遠くに放る。
「並んでるとこ見たらさ、お似合いだったよ。まああいつは誰と並んでも様になるんだけど。くやしーよなーこれだから色男はさあ!」
「…あんたは、つらくないっすか」
ぽつりと呟かれる言葉に、瞬間息が止まって、僕はゆっくり吐き出す。自分に言い聞かせるように。
「…だいじょうぶ。ありがとうね」
「礼なんて、いらねえっす」
「ううん、…僕は君を利用してる。君の好意を利用して、寄りかかってる。君に何にもあげられないのに。君に応えることもできないのに。…だから、ごめん」
「…あんたを、苦しませたいわけじゃないんです、俺は。だから、忘れてください、あの日のことは」
遠い地平線を眺めたままでバロットは言う。どうしようもない僕を庇うように、大切に包み込むみたいにして。
そんなふうに扱われる価値なんて僕にはないのに。
「君はほんとに、やさしいねえ。僕みたいなやつを、そんなふうに扱うのは、もったいないくらいだよ」
「…足りねえっすよ。全然」
「…ごめんね、ありがとう」
「…セデュイールのどこが好きなんすか、ルーシュミネさんは」
「えー、どこだろう。…やっぱ顔かな」
「顔すか…」
「うん」
「じゃあ俺には太刀打ちできないすね…」
「えー、バロットも格好いいよ。ワイルドで、男らしくって。君みたいな人が好きな子はいっぱいいると思うな。本腰入れて探してみなよ」
「…そういうのは、要らねえっす」
「…ごめん。無神経だったよね。ダメだなあ僕は、君を傷つけることしか言えそうにないや」
「泣いてもいいっすよ。ここには俺しかいねえんで」
「…もう、やさしくしないでよ。だめなんだって、僕もう…」
「あんたがまた笑ってくれるなら、俺はいくらでも、壁になりますよ」
「なんだい壁って…」
僕はバロットの隣にしゃがみこんで、一緒に遠い潮騒を聞く。
海鳥が一羽、巣を探す人のように薄暗い空を突っ切っていった。
セデュのヴェネツィアでの撮影は終わって、彼はミラノに移動した。
ダイアナは僕の体たらくを叱りつけて、パリに帰っていった。
一方僕は、パリに戻る気になれなくて、なんとなく、ミラノまでの旅券をマチウに抑えてもらう。
同じ街にいたら、またひょっこり、会えるかもしれないし。なんて、完全に、鬱陶しい二号さんの思考だけど。
彼の泊まっているホテルはわからないが、たぶん最高級のセレブ御用達みたいな五つ星だろうから、そこは避けて、ごくごくフツーの客室に入る。
狭いワンルームの一人部屋だ。リバプールでセデュと泊まった部屋にちょっと似てる。
しばらくここで作曲でもして気を紛らわせよう。アイデアに詰まったら街をぶらぶらして、ドゥオモを観に行ってもいいな。白亜の壮麗な大聖堂が、街の中にいきなり出現するんだ。魔法みたいで面白いんだ。
…セデュはどこで、撮影しているんだろう。
「ムッシュ・リーヴェ、ムッシュ・レヴォネの撮影は終わったそうですよ…」
「あ、そうなんだ。もう1週間経っていた? いやー部屋にこもってると時間の感覚がなくなるねえ。えっ今日水曜日? そうかー、結局セデュには会えなかったなあ。まあそれも当然か、ほとんど外に出なかったしね!」
「…こちらは、ムッシュ・リーヴェ宛に届いた招待状です」
「しょうたいじょう? なんの? まさかセデュの結婚披露パーティーかい? やだなーキャンセルできないそれ?」
「…12月9日、スカラ座、『トスカ』第三幕、劇場上階にて待つ、と。ムッシュ・レヴォネからの招待状です」
12月7日に開幕したスカラ座のオペラ『トスカ』では、セデュの婚約者がプリマ・ドンナを演じている。きっとセデュも招待されて、列席しているのだろう。
鏡に打ったぼやけた顔をぱちりと叩いて、気合を入れる。
長い髪はポニーテールに纏めて、頭頂部で紫紺のリボンを結わえる。
糊のきいたカラーの立つ、ぱりっとした真っ白なシャツに、サテンの黒の燕尾服は、セデュが僕のために誂えたものだ。
マチウにお願いして、パリから持ってきてもらったんだ。
肌身はなさず持ち歩いていたイエローダイヤモンドの指輪を嵌め、エメラルドと琥珀のピアスを付ける。
ぎゅっと引き結んだ唇をほどくと紅を塗ったような赤色にみえる。それでセデュの婚約者の色気に、対抗できるわけもないけど。
数週間ぶりに、またセデュに会える。僕は浮かれて、空でも飛びそうな勢いだ。
今夜は、婚約者さんは舞台の上にいて、僕たちが一緒にいるのを目にすることもないだろうし。
へにゃりとにやける頬を意識して引き締め、僕は部屋を出る。
待ち合わせの時間まで、もう間もなくだ。




