第十話
セデュは人ごみから離れて、ぼんやりと流れる運河を見つめている。
撮影用だろう、淡いブルーの将校服――今回の映画のセデュの役柄だ。イタリアの没落貴族の令嬢と恋に落ちる、オーストリアの将校さんの役だ――に、片側だけのマント、仮面は外して、手に持っている。
すらりとしたブーツも、腰に帯びた剣も、一幅の絵画みたいによく似合う。
僕はこみ上げてくる感情を抑えて、少し離れて彼を見つめる。
周囲に撮影クルーの姿はない。彼の分の撮影は、もう終わったのかもしれない。
僕は息を吸い、息を吐いて、リアルト橋に歩を進める。一歩一歩、たしかにセデュに近づいていく。
緊張で手がふるえる。僕って、どんなふうにセデュに話しかけていたんだっけ。
…。
……。
…だめだ、実際にセデュの姿を目の当りにしたら、何も言葉が出てこない。
言いたかったこと、たくさんあったはずなんだけど、頭の中が真っ白だ。
カーネギーホールの演奏だって、ウィーンフィルとの共演だって、こんなふうになったこと、一度もなかったぞ。
ああ、せっかくダイアナが時間をかけて準備してくれたのに。ごめんよ、僕がへたれなせいで…。
長く伸びる裾を踏まないように持ち上げて、ふわりと彼の後ろを、通り過ぎた時だった。
くるりと振り向いたセデュが僕に追いすがり、二の腕を掴む。
猫の仮面の向こう側に、セデュの潤んだ瞳が見える。
「ルー、…」
「――」
何も言えないままの僕らの頭上で、真昼の花火が幾度も上がる。
ドン、ドン、と地の底に響くような音がして、歓声が上がる。
誰も僕らを見ていない。僕はそれに勇気づけられ、気づいたら、セデュに抱きついていた。
ダージリンティーみたいな、彼の香水と、彼自身の、甘い香りがする。
涙を擦りつけるように何度も彼に頭を押し付けると、セデュは切羽詰まったみたいな掌で、僕の背中を強く抱く。
「ルー、ルー、すまない、お前は私を許さなくていい、憎んでくれていい、当然のことだ」
「いいんだ、もういいんだ、きみに会えた、それだけでぼくはいいんだ。君に家族をつくってほしいって、僕自身が望んでいたんだ。だからこれでいいんだよ」
「ルー、もう言わないでくれ、これ以上、自分を傷つけるような言葉は、…」
「君の子供が生まれたら、僕がピアノをおしえてあげる。奥さんが許してくれたらだけど。君と僕と、君の子供と、三重奏するんだ、すてきじゃない? 僕はさ、そういうのがいい。気楽で、自由なのがいい。もともと、僕は君の愛人だったんだから、元に戻っただけだよ、そうでしょう? 君と繋がっていられるなら、それでじゅうぶんなんだから」
「ルー、違う、私は子供は作らない。家族もいらない、お前がいないなら意味がない、」
「いるよ、ぼくはいるよ、きみのそばにいる! だから君はしあわせになってよ。僕の分までしあわせになって、」
「セデュイール、こんなところにいましたの? そちらの方はどなた? 共演者かしら?」
こつこつとヒールの音を響かせて、ざっくりと胸元の空いたドレスと、亜麻色の髪の乙女が近づく。彼女はセデュの婚約者だ。新聞で見たとおりの顔だ。色っぽい垂れ目に泣き黒子、ぷるんとした厚みのある唇。肉感的で、僕とはまるで違うタイプの女性だ。
ぴくりと固まるセデュの腕を振り払って、僕は逃げる。
追ってくるセデュにきっと振り返って、仮面を外さないままに、言ってやる。
「僕のケツが恋しくなったら、いつでも呼び出してよ! いくらでも貸してあげる。婚約者サンとはできないような過激なプレイも大歓迎さ! 僕は妊娠しないんだから、いくらでも中出しできるしね!」
さっと表情を変えた乙女がセデュの腕を掴む。美しいバラにくっついた毛虫でも見るみたいな目で僕を見る。
アハハハハ、と僕は哄笑して雑踏に紛れ込む。
言いたいことは言ってやった。ちょっとイジワルだったかもだけど、これが今の僕の正直な気持ちだ。
ああ、落ち込む。呆れたセデュは、もう僕を叱ってくれないかな。
むしょうに彼に、叱られたいような気分だ。
…嘘でもいいから、愛してるって、言ってほしかったんだけどなア。
驚きました。あれがお父様たちの噂していた、セデュイールの囲われ者、なのでしょうか。
仮面越しでしたけれど、たしかに顔も声もすらりとした立ち姿も、鑑賞用としては極上の部類に入るかもしれません。
けれど、中身がいけませんわ。品性下劣とはまさにこのこと。こんな公衆の面前で、セデュイールに恥をかかせて。あてつけのつもりなんでしょうが、全く信じられない悪童ですわ。
セデュイールはいったいどこが良くてあんな子を囲っているのかしら。やっぱり身体、なのかしら。穴の具合が特別に良いとか? あの下品な男の子が、セデュイールの前に這いつくばって誘惑するさまが目に見えるようです。ああ、いやらしい。まるで悪魔みたいな子ですわ。
「セデュイール、もう撮影は終わったのでしょう、帰りましょう。わたくし気分が悪くなりましたわ」
「あなたの執事を呼んでまいります、ひとりでお帰りください」
硬い表情のままのセデュイールはつれない素振りでそう言って、踵を返してしまいます。
…警戒心がエベレスト級ですわ。薬を盛られた日のことを根に持っていらっしゃるのかしら。
まあでも、こちらには既成事実――未遂ですけど――の証拠写真もございますし? あの子のマネージャーにも写真は渡っているはずですし? セデュイールがわたくしのものとなる日も近うございます。まったく、なーんの心配もありませんわ!
そう、セデュイールがあの日以来、わたくしを避けていることを除いては!!!
「お義父さま、セデュイールがわたくしにつれない素振りばかりなさるの。セデュイールはわたくしがお気に召さないのでしょうか?」
カーニヴァルの様子をサンマルコ広場で見学していたセデュイールのお父様に近づいて、甘えるような上目遣いで尋ねてみます。お父様はわたくしの味方のはず。そうであるなら、セデュイールに諫言してくれるかもしれません。
「そうかい、あの子はお堅いところがあるからねえ。けれど、一度懐に入り込んでしまえば際限なく甘くなる子だよ。攻略し甲斐があるじゃあないか!」
お義父さまはそう言って、快活に笑います。
…駄目ね、わたくしのために骨を折ってくれる気は、一切なさそう。
お義父様のもとにも証拠写真を送り付けたのだけれど、ご覧になっていないのかしら?
…いいわ、それならそれで。わたくしはセデュイールをなんとしてもモノにしてご覧に入れます。あんな下品なコドモに、負けていられるもんですか!
「セデュイール、御機嫌よう。ご一緒に朝のお散歩をしませんこと?」
「セデュイール、奇遇ねえ、ご一緒にランチはいかが?」
「セデュイール、良い月よ、ゴンドラに乗ってデートいたしましょう!」
わたくしの猛攻にうんざり…いえ、疲れた様子のセデュイールは、毎回丁重な断り文句を並べます。
まあ、彼も連日の撮影で疲れているのでしょうから、許してあげますわ。
ただし、撮影が終わったその時は―――うふふ、わたくしはあなたを逃しませんことよ♡




