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掌編小説集

幸福者

掲載日:2026/02/06

 書いてしまった瞬間からもう逃げている気がしているのに、

 それでも書くほかなくて、重い話になるとか前置きする余裕もなくて、

 でも、これ以上、きれいに始める余裕がない。


 私は死ぬのが怖い。どうしても死にたくない。

 この世に未練があるとか、やりのこしたことがあるとか、

 そういう、前向きな言葉に言い換えられるような話でもない。

 生きるのが好きかと聞かれたら、わからない。

 楽しいことが多いかと聞かれても、答えに詰まる。


 だからもう少し正確な言葉を探してしまう。

 怖い、と言葉にするとあまりにも軽い。

 死にたくない、という言葉も正確じゃない気がする。

 生き続けたい、というより、終わりたくない。

 終わりが来ること自体を、理解できないまま、

 そこへ運ばれていく感じが耐えられない。


 死ぬことをどうしても受け入れられない。


 いつか必ず来る、という事実だけが、異様に具体的で、

 いつか、という言葉が、距離を持ってくれなくて、

 未来が時間として機能しなくて、

 ただ、確定しているという一点だけが、胸の奥に残る。


 夜になるともっとひどくなって、

 横になっても目を閉じても、

 呼吸を意識した瞬間に止まることを考えてしまう。

 止まったら終わる。終わったら何もない。

 何もないって何なのかわからない。

 わからないのに呼吸は続いて眠れない。

 心臓だけが現実に取り残されて、

 生きていることが安心じゃなくて不安になる。


 人は言う、みんな死ぬ、自然なことだって、

 その言葉を聞くたびに逃げ道が一つずつ塞がれて、

 自然だから受け入れろと言われても受け入れられない。

 そういう種類の話じゃないんだし、死んだら全部なくなるっていうのは、私だけじゃなくて、

 これまで生きてきた時間、覚えている匂い、好きだった声、触れてきた世界、全部まとめて切り取られる。

 大切な人の顔も風景もほんの一秒後にはもう触れない。見えない。思い出せない。

 誰かが覚えてくれていても、私は覚えられない。

 愛も記憶も世界も私の視点ごと消える。


 完全に不可逆で、

 取り消せない、やり直せない。

 死は決して戻れない境界なんて言い方も安全すぎて、

 本当はただ突然なくなるだけで、無になるっていうけれど、

 何も感じない状態を想像しても、考えている私が邪魔になって、

 途中で言葉が落ちて、思考がほつれて、

 残るのは理由のない恐怖だけで、

 どうしてみんな平気そうなんだろう、

 どうして考えずに生きられるんだろう、

 それが人生だ、という言葉を、

 どうしてそんなに簡単に口にできるのだろう。


 私には無理だ。


 考えれば考えるほど怖さがはっきりして、

 薄れなくて、慣れなくて、受け入れようとしてもできないままここにいる。

 だから書いているし、整理したいわけでも、伝えたいわけでもなくて、

 この恐怖を外に出さないと内側で膨らみ続けて、

 息の通り道がふさがってしまう気がしたからで、

 このまま黙っていたら、ちゃんと生きているはずの時間まで、

 全部まとめて押し潰されてしまいそうで、

 書いている今も、余命という言葉が頭のどこかに貼りついたまま剥がれない。

 あとどれくらい残っているのかはわからないのに、

 残りがあるという感覚だけが、ずっと胸の奥で騒いでいる。


 たぶん、わたしは死を理解し、受け入れられたら、

 明かりの届かない病室の奥でも、余命を待たずに死ねると思う。


 死におびえることなく、ここで首を吊れたなら、私はどれだけ幸福者か。


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