#8 謎の観察者と前世の記憶
アストラがまだ後ろに一歩下がったまま、深く息をつく。
「……リシア、本当に大丈夫なの……?」
「大丈夫……大丈夫だよ!」
私は声を張ったつもりだったけれど、胸の奥では微かに震えている。前世の知識と妄想は確かに力になる。
でも、現実の街中で発動させると……人は恐怖にしかならないのだ。
――誰か、見てる。
さっきから背後の路地、屋根、遠くの窓の影……視線が密かに私を追っている。
光素の流れを理解している私には、微かな揺らぎも見逃せない。
「……アストラ、あの影、誰か知ってる?」
「わからない。けど、ハンナだけじゃない……別の、もっと巧妙な観察者がいるわ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。好奇心が刺激されると同時に、警戒心が走る。
私は鞄に手を伸ばし、魔道具の存在を確認する。炎石、半壊結界球、用途不明のキラキラ棒――そして、ミゼルとサラネ。
この小さな力たちも、私の妄想を現実に近づける“触媒”になるかもしれない。
「……ふふっ、考えてみれば、ここからが本番だね」
心の中で、前世の私がにやりと笑った。中二病全開だったあの頃の自分が、今の私を後押ししている。
世界の法則を知り、光素を理解する者として――ここから“誰も知らない私だけの物語”が動き出す。
アストラがふっと息を吐き、前に一歩出る。
「……じゃあ、行くわよ。私たちがこれから遭遇するものは、想像以上に複雑で危険かもしれない。でも、あなたなら――」
その言葉で、胸の奥が熱くなる。怖いけれど、楽しい。
前世では得られなかった“生きている実感”が、全身に走る。
――次の瞬間、街の空気が変わった。
遠くの屋根の影が、私たちに向かってゆっくりと動いた。
ただの人影ではない。確かに、何者かが――光素の流れを観察している。
「……きたわね」
アストラの目が鋭く光る。
私は深呼吸を一つして、鞄の中の小さな仲間たちにそっと触れた。
ミゼルがぴょこんと顔を出す。
サラネは小さく羽を震わせている。
「……さあ、始めようか、私たちの物語」
胸に手を当てる。
光素が、前世の知識が、そして中二病妄想が、今、現実の世界と交差する――
次の瞬間、街は――私たちを試すかのように静かに息をひそめた。
遠くの屋根の影が、ゆっくりとこちらに視線を送る。
ただの人影ではない――光素の流れが微かに揺れるのを、私は確かに感じた。
「……あれは……」
アストラが低く息を吐く。
「ただの人間じゃない。あれは“観察者”のそれよ。あなたの光を計測しに来た……いや、試しに来たのかもしれない」
胸の奥で、小さな興奮が走る。前世の私は、中二病全開で“影の支配者”“世界の裏側の使徒”ごっこをしていた。
その時の血が、今の私を突き動かす。
「――来い!」
小さく叫ぶと同時に、鞄の中のミゼルとサラネを手に取り、光素の流れを意識する。
胸の中の光素が、ほんのわずかに外へ滲み出す感覚。空気が振動し、静かな蒼色の光が私の周囲を包む。
「……リシア、落ち着いて!」
アストラが横で声をかける。でも、手が震えているわけじゃない。
鼓動は早いけど、理性はまだ働いている。
これは……前世では得られなかった“リアルな戦闘感覚”だ。
屋根の影が動く――
それはまるで、光を吸い取るかのように黒い粒子を纏い、ゆらりと宙に浮いていた。
「ふ……ふふふ、面白い……!」
心の奥で、前世の私は歓喜の声を上げる。中二病全開の台詞が勝手に浮かぶ。
――『始源の因子よ、我が手に集え!』
私は手をかざす。
光素が意識に呼応して、渦を描きながら円柱のように立ち上がる。
その光の柱が、黒い影に向かってぐんと伸びる。
影が一瞬、反応した。黒い粒子が巻き上がり、まるで光素に触れるかのように揺れる。
その瞬間、私の胸に力強い手応え――“力が通じた”感覚が走る。
「これが……私の光……!」
アストラが小さく息をのむ。
「……やっぱり、予想以上ね。流れが素直すぎる……でも、まだ入口に立っただけ。ここから制御を覚えないと、暴走するわよ」
しかし、私は笑った。恐怖よりも、昂ぶる興奮が勝っていた。
前世のオタク妄想が、現実世界で現象として現れた瞬間――世界がほんの少し、私に答えを返した気がした。
屋根の影が再び動く。黒い粒子が空気を切る音が聞こえる――攻撃なのか、挑発なのか、まだわからない。
だが、私は知っている。ここからが、本当の“試練”の始まりだということを。
「――来るなら来い!」
胸に手を当て、光素を渦巻かせる。
前世の私が叫ぶ。
――『世界の真理は、私の手の中にある!』
その瞬間、屋根の影が勢いよく地面に飛び降り――
「先生、✘✘✘さんがスマホ持ってきてます!」
「ブレンド・ラウス・レッド?✘✘✘さん、何それ見せてよ、✘✘✘さん、先生には言わないから」
「先生!ブラウンなんちゃら?みたいなノートを✘✘✘さんが持ってます」
「✘✘✘さんって、授業中に音ゲー机に叩き込んでるよね、あれ音煩くてウザくね」
胸の奥で、前世の痛みが光素の流れに絡みつく。教室に入れなかった日々、フリースクールで居場所を失った記憶――
それらが波のように押し寄せ、光素の粒を震わせる。
「……うっ……」
私はその場にうずくまった。膝を抱え、頭を伏せ、胸の奥でざわめく痛みに身を委ねる。
光素はまだ指先で微かに跳ねているが、私の意思は届かない。
アストラがそっと距離を取り、静かに息をついた。
「……リシア、今は無理に動かさなくていい。光素も、あなたの痛みも、まずは受け入れるしかないわ」
私は小さくうなずくことしかできなかった。この街、この観測所、そして自分の中にある過去の残像――
すべてが重く、胸の奥でぎゅっと絡み合う。
ただ、膝を抱えてうずくまる。呼吸だけが確かに自分の存在を伝えていた。
――今はまだ立ち上がる時じゃない。
未来を決めるのは、光素でも、アストラでもない。この痛みを抱えた私自身――
それを認めるところから、すべては始まるのだと、静かに感じていた。
外の喧騒も、屋根の影も、まだ遠い。
世界は変わっていくけれど、私の中の時間は、今、止まっている。
膝を抱えたまま、私はただ、自分の胸の奥でざわめく過去の影に耐えていた。




