#6 ハンナの正体と二枚舌
アストラは、苔むした倒木に腰を下ろし、手招きした。
私が隣に座ると、彼女は枝葉を払いながらゆっくりと口を開く。
「この世界のこと、少しだけ話すわ。難しい話はしないから安心して」
木漏れ日が、アストラの白い髪を淡く照らす。
「この大地は《リュミエール》と呼ばれているの。
昔、大きな光が地上に降りてね……その光の“欠片”が、いまも世界のあちこちに眠っている」
「欠片……?」
「ええ。《光素》って呼ばれてる。私たちはそれを糧にして森を守っているし、
人間はそれを道具や灯りに変える。あなたたちの街が夜も明るいのは、そのおかげよ」
それは、子どもでも理解できるくらい単純で、それでいて胸の奥がざわつく話だった。
アストラは、私の表情を読み取ったように微笑む。
「“光素”はね、誰でも扱えるわけじゃない。
けれど、ときどき人間の中にも……光に触れられる子が生まれる」
「触れられる……?」
「そう。光を見分けたり、呼んだりできる。あなたが森で拒まれなかったのは、多分そのせいよ」
息を呑む私を見て、アストラはゆっくり立ち上がった。
風が吹き、枝葉のざわめきがどこか遠くから返事をする。
「でも心配しなくていい。才能なんて、ただの“入口”にすぎないわ。
使い方を知らなければ、ただの綺麗な火花よ」
アストラは私の手を取り、軽く振った。
「とりあえず、街に戻りましょう。
あなたがどんな光を持ってるのか、それを確かめるには……文明の側の目も必要だからね」
そうして、私とアストラは森を抜けた。
木々の陰影がゆっくり薄まり、遠くで街の喧騒が響き始める――。
街の石畳を踏みしめるたび、冷たい風が頬を撫でる。
商人の呼び声や馬車の軋む音が混ざるざわめきの中、背筋にひんやりとした違和感が走った。
角を曲がると、黒髪の少女が立っていた。
──ハンナ。
裏門で泣きながら見送ってくれた、あのハンナだ。
しかし今の目には、以前の無邪気さはなく、冷静で計算された光が宿っていた。
「……レイス嬢!」
偽名を知らない彼女は自然に、かつての私の名を呼ぶ。
その声は懐かしくもあり、ぞくりとするほど緊張を帯びていた。
私は眉を少し上げ、アストラの視線を感じる。
肩に軽く手を置く彼女の目は冷静で、街の構造を知る者だけが持つ鋭さを帯びていた。
ハンナは手にした鞄を抱き直し、小さく息をつく。
まるで「何かを隠している」とでも言うように、視線はほんの少しだけ泳いだ。
「……その、ええと……少し、準備の買い物を……」
言葉は小さいが、鞄の中身や指先の動き、肩のわずかな震えに、計算された緊張が混じっていた。
買い出しの目的は、私のためではない。私の後にここに来る誰かのための準備──それが、静かにそこにある。
──そうか、私にはもう帰る場所はないのか。
アストラは眉を軽く上げ、静かに告げる。
「ここに来て買い物? この街は観測所と情報屋しかないわ。本当に買い出しなら、南の街に行く方が自然よ」
ハンナは一瞥でそれを受け流し、すぐに視線を逸らした。唇の端だけがわずかに動き、口には出さない含みを残す。
「……レイス嬢、どうか無事で……」
その声に胸がぎゅっと締め付けられる。
森で抱いたぬくもり、馬車で置き去りにされた痛み、街の雑踏に混ざる不安――それらが絡み合い、心をざわつかせた。
アストラは私の肩をそっと押す。言葉はなくとも、「油断するな」と告げている。
ハンナの背中には、ただの買い出しではない計算と緊張が潜んでいた。
ハンナは小さく鞄を揺らし、雑踏の中に歩みを進める。鞄の中で指先がひそかに動き、紙が微かに震いた。
一瞬視線を合わせたその瞳には、緊張と覚悟が混ざった光が浮かんでいた。
私はそっと一歩前に出て、動作を追う。
ハンナは慌てず、動じず、肩の力をわずかに抜くだけで、計算された駆け引きを示していた。
再び声がかかる。
「……無事で、レイス嬢」
その声には、切迫感と計算が入り混じっていた。表向きの言葉と、行動の端々に隠された意図――
雑踏の中で静かに張られた糸が、今、この瞬間も微かに揺れている。
ハンナが雑踏の中に姿を消すと、街のざわめきだけが残った。
石畳に落ちる自分の足音が、周囲の喧騒にかき消されそうになりながらも、胸の奥に冷たい違和感を響かせる。
私は立ち止まり、先ほどまでのハンナの鞄の動きや指先の微かな震えを思い返した。
ただの買い物ではない。小さな揺れや、肩や手のわずかな力の抜き方――彼女の行動には、計算された意思と緊張が隠されていた。
そのとき、アストラがそっと肩に手を置く。
「……気づいているわね」
彼女の声は穏やかだが、視線には街の構造を知る者だけが持つ鋭さが宿る。
「……ただの買い出しじゃなかった」
私は小さく呟く。
「ええ、この街では買い物の必要はないもの。観測所と情報屋しかないのだから」
アストラの口調に、軽い警告の色が混ざった。
「本当に用事があるなら、南の街に行くのが自然よ。ここにいるのは、何か別の意図があるから――それだけ」
胸の奥がぞくりとした。
ハンナの動作一つひとつ、指先の微かな震え、鞄の中での紙の動き――表向きの理由を超えた意味を、確かに感じ取った。
エルフのアストラは、エルマが貴族の子だとは知らない。
けれど、それを知らなくても、彼女の目や手つきから、何かが仕組まれていることははっきりと分かるのだ。
私は深く息を吸い込み、肩に置かれたアストラの手に軽く触れ返す。
ハンナが去ったあとも、街の影は静かに揺れ、何かが動き出している。その感覚が、背筋をひんやりと引き締めた。




