#5 馬車夫にまで捨てられました。
馬車は、村外れの石畳を抜けるとすぐに、舗装もされていないぬかるんだ林道へと入っていった。
昨夜の雨がまだ地面に残っていて、車輪が泥を巻き上げるたびに重たい音が響く。私は揺れに身を任せながら、膝の上で指をぎゅっと重ねた。
──婚約破棄のあと、領都を出る唯一の手段がこの馬車だった。
そのはずなのに、馬車夫の態度は乗った瞬間から露骨だった。
「……アンタさ、ほんとにあの“貧乏貴族”んとこの娘さんかい?」
初めてそう言われた時、私は曖昧に笑った。侮蔑が混じった声音に気付かないふりをするしかなかった。
「まあ……行き先が行き先だしね。金貨もこれだけじゃ赤字だよ、まったく」
彼はカツカツと舌打ちをしながら、手綱をひっぱった。雨上がりの風が入り込み、馬車の壁に吊られたランタンが揺れて、私の影だけが心細げに揺れた。
やがて森が深くなるにつれ、道はさらに細く曲がりくねり、馬は時折立ち止まっては鼻を鳴らした。
昼前だというのに光は鈍く、枝葉の隙間から落ちる斑の光が、まるで見知らぬ文字のように地面へ散らばっている。
その頃だった。前方で馬が急に嘶き、馬車が大きく揺れて止まった。
「……ちっ。もう限界だわ」
馬車夫は乱暴に扉を開け、私を睨みつけるように言った。
「姉さん、悪いけど、ここまでだ。これ以上行くなら追加料金だよ。しかももっと多くだ」
「え……ですが、領都まで行くと……」
「聞いてなかったのかい? この先は倒木で道が狭いし、魔獣だって出る。
アンタみたいな“貧乏貴族の娘”を乗せて命の危険まで負う義理は、オレにはないんだよ」
最後の言葉に、胸がじく、と痛んだ。
昨夜の出来事、冷たく告げられた婚約破棄の場面が脳裏に浮かぶ。
——まただ。
また、理由も告げられず、価値のないものとして扱われる。
「……追加料金は、持ち合わせが……」
そう言った瞬間、馬車夫は鼻で笑った。
「知ってたよ。だから今、言ったんだ。
“払えないなら降りろ”ってな」
振り返ることもなく、彼は私の荷物をぽん、と地面に投げた。
泥が弾け、旅装の裾が汚れる。その瞬間、胸の奥のなにかがすうっと冷えていく。
「ほら。森を抜けりゃ村がある。そこからは勝手にしてくれ」
言うが早いか、馬車夫は手綱を打ち、馬車は私を置き去りにして荒々しく走り去った。泥が跳ね、音だけが森の奥へと消えていく。
残されたのは、深い森の匂いと、重たい沈黙。足元には転がった荷物。私はそっとそれを拾い上げる。
——こういうことだったのか。
“貧乏貴族の娘”というだけで、こんなにも簡単に切り捨てられるのだと。
今さらながら、じわりと理解が腹の底へ落ちていく。
けれど、不思議と涙は出なかった。
代わりに、森の空気のひやりとした冷たさが、むしろ気持ちを落ち着かせた。
「……歩こう。もう、誰の指示もなくていい」
そう呟いて、私は森の中へ足を踏み入れた。枝葉が揺れ、光がこぼれ、どこかで鳥の短い声が響く。
人生が大きく変わる瞬間は、いつもこんな静けさの中で訪れるのだと、その時ようやく気づいた。
森は、街道から少し離れただけで全く別の世界に変わった。木々はひしめき合い、幹の影は濃い墨のように折り重なる。
鳥の声が消えると、静けさは耳鳴りに変わり、心の奥の不安を炙り出す。
一歩踏み出すたびに、靴底は湿った苔を押しつぶし、かすかな水気が音を吸い込んでいく。
世界に自分の呼吸しか残っていない――そんな錯覚に襲われた。
「……大丈夫、私は大丈夫」
そう口に出さなければ、心が崩れそうだった。馬車から降ろされたときの、あの冷たい視線と乾いた砂埃。
「ここまでだ」と吐き捨てられた声が、まだ耳に残っている。
ミゼルが背の袋の中でもぞっと動き、サラネが私の肩に寄りかかるように羽を震わせた。
この二匹がいなければ、とっくに膝が折れていた気がした。
そのときだった。
――す、と空気が変わった。
風が止んだわけでも、光が遮られたわけでもない。けれど、森が“見ている”ような、奇妙な気配が背筋を撫でた。
「……誰?」
声は、頭上から降ってきた。人の声よりも澄んでいて、流れる水音に近い響きだった。
驚いて顔を上げると、太い楡の枝に腰を掛けた影がこちらを覗いていた。
薄翠の長い髪が、風もないのに揺れ、その瞳は夜明け前の湖のように静かで、光を深く吸い込んでいる。
顔立ちは整っていて、人間と遜色ないのに、なにか根本的に「違う」。
彼――あるいは彼女と呼ぶべきなのか曖昧な存在は、
枝の上から私を一度だけ眺めた。
「人間の子が、こんな深部まで来るのは珍しいわ」
声は甘くもなく優しくもない。ただ、驚くほど透明だった。
エルフだ、とすぐに分かった。書物で読んだことのある種族。森と共にあり、人とほとんど交わらない存在。
私は息を飲む。
「……その足取り、人間の匂い、背負っている荷物の重さ。
それに、目――焦りと痛みがまだ熱い」
エルフは、ゆっくりと足を枝から下ろし、まるで風が形を変えたかのような静けさで地面に降り立った。
落ち葉の一枚すら揺れなかった。
近づいて来た瞬間、その美しさに息が止まりそうになった。けれど同時に、目に見えない壁がある。
人間の尺度では測れない距離があった。
「……馬車で捨てられたのね」
その一言があまりに平然としていて、私は思わず目を丸くした。
「え、どうして――」
「理由を推測しただけよ。馬車の轍が途切れる場所、あなたの靴についた砂、泥の跳ね方。
歩き慣れていないのに荷物の重心が妙にずれている。“置いて行かれた”という匂いがする」
まるで心の奥を読まれたようで、胸の中の痛いところをそっとなでられたような感覚がした。
エルフは視線を少し下げ、私の背中の膨らみを見た。
「それに――その子たち」
ミゼルが顔を覗かせ、サラネがかすかに羽を鳴らす。
「小さな魔獣は嘘に敏い。 彼らがあなたに懐いているのは、あなたが優しいからよ。
人間は、追い詰められたときに本性が出るものだもの」
それは慰めではなかった。ただの事実であり、しかし不思議と胸が温かくなる言葉だった。
エルフは、ほっそりした指で木の幹をなぞりながら名乗った。
「私はアストラ。この森の“管理者”のひとりよ」
管理者――その響きは“守護者”とも“監視者”とも聞こえる。
アストラはふと私に近づき、瞳の奥を覗くように見つめた。
「名前は?」
「……リシア(元貧乏貴族とばれないための偽名。)、です」
アストラは静かに頷き、言葉を続ける。
「リシア。あなたは、ここに来るべきではなかった。けれど、森はあなたを拒まなかった。
それは、“まだ折れていない”証拠」
その言い方は、驚くほど優しかった。
「行くあてはあるの?」
その問いは、森の静寂に響いて痛いほど真っ直ぐだった。行くあてなんて、ない。
けれど「ない」と言ってしまうには、あまりにも脆い自尊心が残っていた。
返事に詰まっていると、アストラはふわりと手を伸ばす。
「森を抜けたいのなら、西へは行かないこと。あちらは“迷いの領域”。
人間が踏み込めば、たとえあなたでも帰れない」
「じゃあ、どっちへ……」
「東よ。陽が昇る方向に進みなさい。
あなたがまだ前へ進めるように――森が道を開けるわ」
森が道を……?
意味は分からない。けれど、アストラの言葉には嘘がひとつも混じっていない気がした。
エルフは私の手にそっと触れた。その指は驚くほど温かくて、
世界のどこにも属さないような、不思議な優しさを持っていた。
「ついてきなさい、リシア。
あなたを森の出口まで導くわ」
ミゼルが喉を鳴らし、サラネが胸の上にそっと寄り添う。
私は迷わず頷いた。
捨てられ、行き場を失った朝。森の奥で差し伸べられたその手は、
まるで新しい人生への導きのようだった。




