俺も同じ。
シリウス
地球が回るなら俺も回らなきゃ。
そんな意味不明な理屈とともに、俺は昨日、町内をハンドスプリングで一周した。マジふざけんな。
膝に擦り傷、肘に青アザ、息は上がりきってゼェゼェ。
犬に吠えられ、通行人に笑われ、子どもに「すげー!」と拍手され――
たぶん、人生で一番注目を浴びた日だった。
学校からぐるりと町内を回って、なんとか辿り着いたのは、見覚えのない住宅地の一角。ハンドスプリングから解放された体を道路の真ん中に投げ出し、ぐるぐる回る視界の中で俺はすっかり暗くなった空を見上げる。
なんとか上体を起こして一番近くにある一軒家を見上げる。その門の横には、確かにこう書かれていた。
「月嶋」
表札とポストと、郵便受けに刺さった光熱費の封筒。
中には俺の名前がしっかりと記載されていた。
「……これ、俺の家なのか」
思考停止したまま鍵を差し込み、ドアを開ける。
そこには新品みたいな家具や部屋の中。中はとても広いのに、その家具はとても小規模で……まるで“大きい部屋の中でたった一人で過ごしている”ようなそんな感じの部屋だった。
「マジで……生活環境まで用意されてんのかよ……」
俺はシャツを脱ぎ、それを恐る恐る臭ってみる。土臭いし、汗臭い。人によっては努力の証だとかそんな言葉を使うのかもしれないが、俺にとっては嫌な思い出となりそうだ。
臭くなったシャツを洗面所の洗濯機にぶち込んでからシャワーで汗を流す。
一瞬食事はどうしようかと考えたが、どうでもよくなってベッドに倒れ込む。
食欲よりも睡眠欲が勝った瞬間である。
羞恥と疲労と、ちょっとした恐怖と膨大な睡眠欲の中で――
俺は、眠りに落ちた。
⸻
朝、目が覚めて部屋を見回す。
昨日、帰ってきてからの記憶が曖昧だ。シャワーを浴びたことだけはしっかり覚えていたのだが……。
乾かさなかった髪もすっかり乾いて、着替えも洗濯機に突っ込まれていた。うーん。身勝手◯極意。
ベットの上でぼーっとしているとぎゅるるるる。という腹の虫の鳴き声が聞こえた。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開けて卵と牛乳を取り出す。
皿に卵を割って塩胡椒を軽く振ってかき混ぜる、それをフライパンで焼いて薄焼き卵にする。湯気が立ち上る中で、静かな室内を見つめる。
「……やっぱり、誰もいないな」
それは“寂しさ”というより、“慣れた空気”だった。前世も、こんな部屋だった。働いて、帰ってきてただ寝るだけの場所。静かで、暗くて、味気ない。
コップに入れた牛乳を一気に飲み、あらかじめ焼いていた食パンに薄焼き卵を乗せて、とんかつソースとマヨネーズをかけて食べるとばり美味いんだコレが。てかコレ全卵のマヨネーズじゃん。俺カロリーハーフの方が好きなんだけど。
食パンを食べ終えた俺は寝室の中の散策を始める。押し入れの奥、引き出しの中といろんな場所を探してみる。
そしてふとした拍子に、俺は一冊の古びた日記を見つける。
それは、この世界に来る前の、俺自身の記憶。
数年前の事故で、両親と妹を一度に亡くした。
親戚に引き取られたものの、誰もが「俺」を見る目はどこか濁っていた。
「そうか……お前も“俺”と一緒だったのか……」
通帳。保険金。遺産。
手続きの話は弔いの前にやってきた。
「優しさより先に、書類と相続の話が来たら……
そりゃ、人間不信にもなるよな」
高校に進学する頃には、俺は一人暮らしを選んでいた。
誰にも頼らず、誰にも踏み込ませず――
だから、この転生世界でも「ひとり」であることに、妙な安心感があった。
⸻
春の朝は、妙にまぶしい。
昨夜あれだけ身体を酷使したはずなのに、思ったより疲れは残っていなかった。
多少の筋肉痛と、若干の羞恥心。
でも、それ以上に――不思議なほど“現実感”があった。
「……あれ、夢じゃなかったんだな」
制服の襟を直しながら、凪は軽く息をついた。
寝癖はざっくりと撫でただけでごまかし、まだ馴染みきらない通学カバンを肩にかける。
アパートのドアを開けると、やわらかい風が頬をなでた。
いつも通りの朝。
鳥のさえずり、遠くで鳴る部活の掛け声、同じ制服の生徒たちが自転車で駆けていく。
それなのに――凪の胸の奥には、うっすらとした警戒があった。
(昨日みたいな……“選択肢”。また出てくるんだろ?)
彼はそれを「システム」と呼ぶこともできたし、「特典」と呼ぶこともできた。
あるいは――この世界の“運営”が与えてきた、歪な特典。
その発動条件は不明。時間もタイミングもわからない。
ただひとつ確かなのは、「日常のなかに唐突に、無慈悲に」やってくるということ。
「できればもう、勘弁してほしいんだけどな……」
ふと、風が止まる。
学校の坂道を登り切ったところで、門が見えた。
グラウンドからは朝練中の声が響き、校舎の窓には教室の影が揺れている。
校門を抜け、下駄箱で上履きに履き替え、
いざ教室のドアに手をかけたそのとき。
──バチン。
まるで誰かが指を鳴らしたような音。
それと同時に、世界が――停止した。
鳥の声も風の音も、誰かの足音も、すべてが消える。
時間が流れていた川なら、それは一瞬にして凍りついたようだった。
凪の視界だけが、異常に鮮明になる。
そして――目の前に、あの“UI”が現れた。
「うわ、マジかよ……また来た……!」
⸻
【選択してください】
【挨拶はインパクト!奇声を上げながら挨拶をする】
【挨拶は大きな声で!大きな声で「おはようございます」と挨拶をする】
「おい。おいおいおいおい……!ふざけんなよ、なにが“奇声を上げながら挨拶”だ。
誰がそんな朝から不審者ムーブを……いや、もう昨日やったか……」
昨日の【地球が回るなら俺も回るぜ!】の選択肢がフラッシュバックする。
まあ、あれに比べれば、まだマシかもしれない。
それでも、「奇声を上げながら挨拶」なんて選べるわけがない。
選べるわけが――
「……っていうか、これ、“スキップ”も“無視”もできないんだよな」
彼は試しにUIから視線を外してみるが、ディスプレイのように追いかけてくる。
下を向いても、目をつぶっても、視界の裏に焼きついている。
「てか“奇声”って何だよ……ウホッとかアオーンとか?知らねーよ!ホゼ!!!!」
当然のようにスキップも×も効かない。てか無い。
俺の選択は、二つに一つ。
「頼む……これ以上、晒し者は勘弁してくれださい……!!」
敬語とタメ口の混ざった日本語。俺は震える指で、【挨拶は大きな声で!大きな声で「おはようございます」と挨拶をする】を選んだ。
⸻
選んだ瞬間。全ての時間が動き出し、褪せていた色が戻り始める。
「いける。大丈夫。奇声よりマシ」
凪は小さくつぶやき、ドアを勢いよく開けた。
「男は度胸!女は愛嬌!俺は脳死!」
勢いよくドアを開けて、俺は思い切り叫んだ。
「おはようございます!!!」
シーン――。
一瞬、教室の空気が凍る。
数秒の沈黙のあと、クスクスと笑い声が漏れた。
「なに?どうしたの急に?」
「めちゃくちゃ元気じゃん」
「いや、なんかちょっと前まで“壁”みたいだったよね?」
「確かに。話しかけてもスッとかわされてた感じ」
俺は内心ヒヤヒヤしながら、引きつった笑顔を浮かべる。
「あー……いや、その……俺、急に陽キャになろうかと思ってさ。うん」
教室に笑いが広がっていく。
俺は苦笑いでごまかしながら、席に着いた。クスクスという笑い声や、なんだアイツという変なものを見る目が俺を貫く。
う゛ぅぅお゛お゛お゛……いっそ、俺を殺してくれ……!
シリEarth