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俺の初恋泥棒について

作者:

 それは、寒い冬の日のことだった。

 ただ、目を奪われるような、他に何も目に入らないような、そんな感覚。言うまでもなく、一目惚れだったと、今ではわかる。


 出会いは12月25日。クリスマス。見ない顔を見た。色白で、儚げで、目は透き通るようで、頬だけ少し赤く、さっぱりしたショート、その感じに惚れる他なかった。一度だって見たことがない人。他学年だろうか。そう頭では考えながらも、酷く波打つ心臓が痛くて仕方なかったことをよく覚えている。


 冬休みの宿題を忘れた俺は、冬休み初日、部活もないのに学校にいた。そこである人に出会ってしまったのだ。

「あの」

 見惚れていると、向こうから声を掛けられた。まずい。出会って早々変な奴認定されたかもしれない。

「君……写真部の雰囲気イケメン?」

「は?」

 思わず素で答えてしまった。イケメンのところだけ切り取れば単なる褒め言葉だが、雰囲気が付くと意味合いが変わってくる。ーーつまり、ぱっと見はイケメンだが、実際はそうではないということだ。

 元から自分がイケメンだなんて思ってないが、こうもはっきり言われると心に来るものがある。

「ごめん、ごめん。悪気はなかったんだよ」

 顔の前に手を合わせ、へらっと笑った。既に印象が変わりつつある。静かでかっこいい系かと思ったら、簡単に笑うんだな。でもそれが好感度を下げることは、なかった。鼓動はまだ速いまんま。

「まぁ、いいです」

「てか何で学校いんの?写真部ってあんま活動してないでしょ?」

「えっと、宿題学校に置きっぱだったので取りに」

「なるほどなるほど」

「ほんとはそのまま帰りたかったんですけど、電車が30分くらい無くて散歩してました」

「あら、かわいそうに」

 言葉ではそう言いながら、顔は正直だった。興味がない、と。

「ほんとにかわいそうです、自分」

「てか、敬語じゃなくていいよ?私、君より年上な訳じゃないし」

「え、まじっすか?」

 今まで見たことなかったし、あまりの風格に三年だと思い込んでいた。まじか。何で今まで気づかなかったんだ。

「何組ですか?っていうか名前は?」

「小森早苗」

「あ、俺は小林洸です」

 あ、しまった。また敬語つけてしまった。まあ、いいか。

「で、えと、何組?」

「あーまあ暇になったら探してみてよ」

 ……返答が意味わからんすぎる。探してみてよ、とは。

「私も暇だし、君の暇つぶしに付き合ってあげよう」

 微妙に上から目線で言われた。それなのに、なぜか嫌な気がしない。不思議だ。

「小森さんは……ここで何をしてるんですか?」

「私は何もしてない」

「と、言うと?」

「いや、ほんとに何もしていないんだ」

 小森さんは俺を真っ直ぐに見て、そう言った。

 どういうことなんだろうか。なにもしてない。うん。まあ初対面でズカズカと聞き込むようなことじゃねぇな。家に帰りづらいから、とかだったら気まずすぎるし。

「じゃあ、一緒に宿題します?というか、俺のやつ進めてくれません?軽く絶望してるんで」

「やだ」

「もうちょっと考えてくださいよ」

「無理。私頭悪いし」

「へえ、意外」

 反射でそう応える。頭、悪いのか。意外すぎるかもしれない。

「そう?」

「はい、なんか、何でもできそうな雰囲気が」

「あっははっ雰囲気だけね、できるのは」

「まあ比較対象もいないんで、確かめようもないですけど」

「あーれ、なんか敬語戻ってない?」

「え?あ、まじすか?」

「ほらー。なんか敬語。やめてよ、敬われるような人間じゃないんだから」

「えー。善処する」

「善処……なかなか聞かない言葉」

「使いどき、あんまないかも……いや、あるか?」

 例えば仕事かなんかミスったとき、言いそう。あとはテスト近いけど大丈夫?とか聞かれて善処する…………あんま言わないか。

「今度使ってみよーっと」

 2人でベンチに座る。微妙な距離が空いているが仕方がない。なんたって心臓の音が彼女に聞こえないようにしなければならないし、平静を保たなければ。

「あのさ、いきなりで悪いんだけど…………頼まれてくんない?」

「え……何を?」

 出会って数分の俺に一体何を頼むっていうんだ?でも、彼女の目には緊張の色が見て取れた。俺はこの話をちゃんと聞かないと駄目な気がする。

「ある人を、探してるんだ」

 まさかの人探しだった。

「人…………?」

「そう、人。厳しいのかもっていうのはもうわかってるんだけど、まだ諦めらんなくて」

「でも、仲良かったなら居場所くらい連絡あるんじゃないですか」

 彼女を見ると、困ったように笑っていた。場違いに美しい、とただ思った。

「ほんと、そうだよね。わたしは彼女の名前すら知らないのに」

「え……なまえ、しらない?」

 嘘であってほしいと思いながら、尋ねる。混乱して若干カタコトになる。

「え、知らないけど?」

 当たり前じゃん、と言いそうな口調で彼女はそう言った。

「まじか」

 名前を知らない、だって?あり得んだろ。どうやって探すってんだ。無理だろ、普通に。俺に超能力はないぞ。

「やっぱ、無理?」

「無理っていうか、ほぼ不可能……?無謀すぎるって」

「やっぱ、そうだよねえ」

 彼女は遠くの一点を見つめる。静かになると、部活の掛け声が聞こえてくる。みんな、この寒いなか、よくやるよな。まじ尊敬。そんな呑気なことを考える。

「どういう関係?その人とは」

「うん、そうだねぇ…………たぶん友達だったよ」

「たぶん」

「そう、たぶん。曖昧だった。ただ、どうでもいいことを話して笑ってた。いつもここで」

 そう言ってベンチを一瞥する。まさに今の状況のような感じだった、と。

「曖昧で、だからこそ何にも縛られてなくて、すごく楽だった。名前を聞こうといつも思いながら、先延ばしになっていたんだ」

「なるほど」

「でも、あるとき、消えた」

「……消えた……?」

 彼女の声のトーンが下がる。

「あるときから来なくなった。私は変に意地を張ってね、ここで待ち続けていたんだけど、一向に来なくて。流石に探し回ったよ、学校中。でも、いないんだ」

「転校したとか」

「かもしれないね。突然、何も言わずに消えたってことは、それほどの関係だったのかもしれないけど。でも、なんだか忘れられなくて」

 愛おしむように微笑んだ。その表情には寂しさが窺えた。俺のことじゃないのに、なんだか苦しくなる。

「え」

 突然、手を握られた。びっくりした。その行為に、ではなくーーその体温に。

「わかる?」

「え、な、え……」

 彼女の手と顔を交互に見る。

 人間の体温とは思えない冷たさ。温もりは少しだって感じられない。なんだこれ。未知の領域に片足だけ突っ込んだような。

「私、地縛霊なの」

 速いままだった心臓が、止まった。


「地縛霊?」

「そう、地縛霊。正確に言えば、ちょっと違うけど。この学校の敷地から出れないんです」

「…………いや、うん。そうだな。一旦落ち着いていい?」

「うん、落ち着いて?」

 地縛霊。人間じゃない。でも彼女は制服を着ている。は?どういうこと?

「あのう、言っとくけど、私自殺したとかじゃないし、高校生のコスプレしてるとかじゃないからね?」

「え、はい」

 さすがにコスプレしているとは思っていなかった。でも、そうなるのか?だって相手は幽霊だという訳だし、コスプレじゃなけりゃ……ん?ここで高校生のとき死んでしまったのか?何か心残りが…………

「別に死んでないから」

「なんで考えてることわかるんだよ。幽霊ってなんか能力あるのか?」

「なんでもなにも、顔にまるっきり出てるけど?」

 半笑いで、呆れたように彼女は言う。でも、俺は何事も顔には出さない。そんな奴なはず。

「いやいやいや、そんなはずは」

「自分のこと、そこそこにポーカーフェイスだと思ってるでしょ」

「はっ?いやいや」

 焦った。いやいや、をさっきから連発してる。

「わー図星ー」

 愉快だ、とでも言いそうな顔で笑う。やめてくれ。俺の精神状態をどれだけ揺さぶれば気が済むんだ。

「……話、戻すけど、え、幽霊なんだよな?」

「うん、そうだって言ってんじゃん」

「まぁ、そうだね。じゃなくて、不本意に死んじゃって、心残りがあるからここに幽霊として残ってるんではないの?」

 死んじゃって、という言葉を発するのが凄く違和感がある。死、なんて言葉、ほんとにその意味で使うなんてなかなかないからな。

「えっとーあのね?私幽霊ではあるんだけど……いや、幽霊じゃないのか」

「は?」

「え、幽霊って死んだ人が成仏できずにってことならさ、私幽霊じゃなくて妖怪なのかもしれない」

 彼女は真面目な顔をしてそう言った。

「妖怪?」

「私もはっきりはわからないんだ。でも、私は死んでこうなった訳ではないんだから、妖怪かな」

 顎に手を当てて彼女はそう言った。漫画か何かで出てきそうな動きだ。

「もうちょっと詳しく」

「うーん、私はたぶん、この学校の人間ーー生徒のいろんな感情をかき集めてできたようなものなんだ。言っちゃえば願いとか逆に不満とか、そういうもの。だから生徒が減れば、私だって消える可能性は高くなる」

「……なるほど」

 あんまりわかっていないが、とりあえず頷く。

「わかってないか。まぁいい。ひとまず、私は人間ではないということさ」

「あ、はい。それはわかった」

「おお。じゃあ…………人探し、協力してくれる?」

 じゃあってのも変な話ではあるが、俺が協力しなかったらこの人はどうするんだろう。俺はどうしたい?

「暇つぶしにでも、その話、乗ります」

 俺はこの人の話を馬鹿げていると思った。無理だろうと。でも俺はそのまま放っておくことができなかった。たとえ、人間ではないとしても。

 彼女は顔を綻ばせた。不覚にもどきりとする。俺の心臓は動いている。

「ありがとう!」

 ばっと手を握られた。冷たい。でもその中に温もりを感じた。おかしな話だが。


「まず、どんな人なんですか?……似顔絵とか」

 写真とか、と言いかけてやめた。彼女はその存在さえも怪しい人間だ。スマホは持っていないだろうし、今の時代、わざわざ印刷して持っているとも考えにくい。

「そうだなぁ…………」

 彼女は手帳を取り出し、そこにさっと絵を描く。…………手帳持ってるの、謎だな。

「たぶん、こんな感じ」

 手帳をこちらに見せる。…………うん。なかなかに個性的だ。情報としては、髪はボブで、目は少し小さめ、笑顔が柔らかい感じ、だろうか。

「ていうか、この人今は何歳なんですか?」

「えーっと、いち、に、さん……8年前だから、25、とか?」

「思った以上に古いな」

「え、そう?」

「そらそうでしょ。人間の感覚でいけば」

「まぁ、たしかに。そうかもしれん」

「ね?」

 8年前か。…………ん?8年前?

「8年前だったら…………」

「ん?」

「姉ちゃんがちょうど同級生かも」

「え、うそ」

「小森さん、ちょっとスマホ出すから先生来ないか、見張っといて」

「任せろっ。てか、早苗でいいよ」

「え、いやそれは」

「なんでよ」

 俺はスマホでラ○ンを開く。姉。明依。履歴を遡る。あ、これだ。

 プロフィール画像の下に誕生日が書いている。

 1999.9.8.

 今は2024年だ。となると、今は25。やっぱし。

「朗報です。姉がその探してる人と同い年」

「うわ!でかした、洸!」

 不意打ちの名前呼びに心臓がぎゅっと締まった。収まりかけていた心臓の鼓動がまた激しくなる。

「お姉さん、今はどこにいるの?県外?」

「あー県外なんだけど、近々同窓会するとか」

「あー冬休みね?」

「たぶんそう」

 このクリスマスが終わって、年末には家に帰ってくるだろう。例年通りいけば。

「たぶんもうじき、帰ってくるんで、そんときでいいですか?」

「あー全然いいよ。てかどうやって聞くの」

「そうだな…………幽霊が会いたがってる人がいて、一緒に探してほしい、とか」

「アバウトだな」

「あ、妖怪か」

「そこじゃねー」

 何の気なしに腕時計を見る。ん?…………あ、やべ。

「もう電車来る」

「そっか。じゃ、またね?」

 首を傾げながら、小森さんは手を振る。

「あ、待って…………これ」

 ゴソゴソと手帳に挟んだ写真を彼女に渡す。

「え、なにこれ」

 まじまじと写真を見つめる。そんなに見つめたって、種も仕掛けもないさ。

「俺が初めてこのカメラで撮って、印刷した写真。綺麗だろ?」

 撮ってもないのに持ってくるだけ持ってきたカメラを鞄から出し、見せる。彼女は写真とカメラを見ながら頷く。

「うん、めちゃくちゃに綺麗」

「お、おぉ」

 素直に褒められて反応に困る。

 その写真は小6のときに、爺ちゃんから貰ったこのカメラで撮ったものだ。今はもう死んでしまった爺ちゃん。だけど、初めて撮ったのは爺ちゃんじゃなく、爺ちゃんっ子の小さな猫だった。河川敷を優雅に歩く猫。真っ白い毛は汚れて黒っぽいけど、それがまた良い感じの雰囲気を醸し出していた。

「俺の大事なもの」

「だよね…………大事なものは簡単に渡しちゃ駄目だよ」

 はい、と写真を俺の方に差し出す。でも俺は受け取らない。

「大事だからですよ」

「え?」

「大事だから、俺は必ずその写真取りに行くから、安心して、ちゃんといい子で待っててってこと」

 彼女はぽかん、とした顔をしていたが、ゆっくり嬉しそうに笑った。

「うん、待ってる」

 これは口だけの嫌な奴にならないための、ある種の保証だ。


 想定していた通り、姉ちゃんは帰ってきた。日付は12月27日。しかも明日が同窓会らしい。 

「姉ちゃん」

「おー洸。久しぶりの姉ちゃん、嬉しいか」

「あーうれしーうれしー」

「そんな生意気な奴に土産はやらん」

「え、それは駄目」

 久しぶりの姉ちゃんは髪を切っていた。前までロングだったのに、今は肩につくかつかないぐらいに。

「あのさ……突然なんだけど、高校のときに転校した人っていた?」

「え?あぁ、いたね。2年のとき……だったかな。急に決まっていなくなっちゃった」

「連絡先、わかる?」

「え?たぶんわかるけど……え、なに。こわいんだけど」

「…………会いたがってる人がいるんだよ」


 さすがに幽霊だと言ったら、

「はー?なに言ってんの?そんな危ない奴に連絡先は教えられないね」

 なんてからかわれて終わるだろうから適当に話した。人間でないことを伏せ、昔助けて貰ったお礼をしたいと言ってる、的なことを言った。意外とあっさり教えてくれた。名前は水野志穏というらしい。

 どういう文面にしたらいいだろうか。詐欺だと思われないようにしないと。

 あなたに会いたがっている人がいるんです。

 ナンパみてぇ。アウトだな、こりゃ。小森早苗に会いに行こう。


「小森さん?」

「ん?ああ、洸」

 どうやらこの間話していたベンチで寝ていたようだ。

「連絡先ゲットした」

 にやっと笑って見せた。小森さんは大きく目を見開き、口も開いたまま固まっていた。

「……え、うそ」

「なんなら姉ちゃんに写真も貰ったから、確認して」

 周りに先生がいないか確認し、スマホを出してクラス写真を拡大する。

「あぁ、この子だ」

「よかった。的外れじゃなくて」

「でも、こんなにあっさり見つかるとは思ってなかったな」

「だよね、俺もびっくりした」

 彼女は嬉しそうな反面、少し緊張しているように見えた。そりゃそうか。8年も前の人に会うんだ。ずっと探していたとはいえ、いざ会えるもなるとどうすればいいか、わからないかもしれない。

「で、どう連絡しよう?」

「うん……もう、十分かも」

「え?」

 小森さんが言ったことが理解できなかった。一点をじっと見つめ、表情という表情がない。…………いや、逆か。色んな感情が混ざっているのか。

「だって、あの子は生きてるんだよね」

「……たぶん」

 もし何かあったなら連絡が姉のほうにも行ってるだろう。

「じゃあ、わざわざ会わなくてもいいような気がしてきた。しかも私、学校から出られないし」

 へらっと笑った。…………なんで笑うんだ。

「会いたいんじゃ、ないの」

「………………」

 彼女は黙った。でもそれが答えだろう。

「いいのか?これから会いたいと思っても会えるとは限らない。今しかないかもしれないのに」

「それを言うなら、今まで、この8年、会いたいと思っても会えなかった」

「ああ、そうだ。だから俺に頼んできたんだろ?」

「私は、探してほしいとしか言ってない」

「…………何をそんなに躊躇ってるんだ?」

 彼女が言ってることは違和感がある。どうにか自分を正当化しようとしているが、本当は望んでいないことはひしひしと伝わってくる。

「覚えてなかったら、どうしよう」

 泣きそうな声だった。

「そもそも私が見えなかったら……どうすればいい?」

 縋るようにこちらを大きな目で見つめてくる。どうすればいい、なんて。というか。

「えっと……その人は小森さんが人間じゃないってこと知らないんですか?」

「知らない」

「なんで…………」

 聞いたって意味がないことはよくわかっている。でも、なんで、そんなことも話してないんだ。

「なんでもくそもない。私が現実から逃げただけだ」

 ズズッと鼻をすする。

 …………この人はなんなんだ。実はとっくにボロボロじゃないか。傷つくのが怖くて逃げて、逃げて、ずっと殻に閉じこもっていただけじゃないか。

 プルルル

「え?」

 電話を掛けた。出てもらえるかどうかはわからない。でも、出てくれ。小森さんがいるこのときじゃないと意味がない。

『……はい』

「もしもし。水野志穏さんのお電話で間違いないでしょうか」

『はい……』

「僕は小林洸といいます。少しお時間よろしいでしょうか」


「え、ちょっと何勝手に電話して……」

「これは俺のケータイ。電話番号を手に入れたのも俺だ」

 ケータイを少し離し、焦る彼女に言った。

「僕は○○高校の生徒なんですが、実はあなたに会いたいと言っている人がいるんです」

『え……私にですか?』

「はい。高校時代、よく5階のベンチで話していた……女性です」

 女性といっていいのかはわからないが、とりあえず彼女の認識としてはそうだろう。

『あ、もしかして……』

 言葉に詰まるのがわかる。名前を知らないっていうのは本当なんだな。

『あの、実は今から同窓会があるんです。それで…………彼女とは明日とかに会えないでしょうか』

 聞こえていただろう、小森さんを見る。と首を振った。

「はい。大丈夫です」

『ほんとですか……!』

 小森さんは凄く不服そうな顔をしていた。勝手にしやがって、と。でも無理矢理止めようともしてこなかった。

「じゃあ、明日。そうだな、14時ぐらいに○○高校の北門前とかでいいですか?」

『はい。では明日』

 後に何か言われていないことを確認し、電話を切る。俺は意味もないのに頭を下げた。短い電話だっただろうに、ものすごく長く感じた。

「ねぇ、洸」

「なんだい」

 俺は彼女と目を合わせず応える。怒られるしかねぇか。

「……ありがとう」

「はい…………は?」

 え、えーっと、なんだって?気の所為だろうか。ありがとうなんて。え?

 じっと小森さんを見つめると、

「もう言わない」

 そう言われた。え。

 …………なんだよ。めっちゃかわいいじゃねーか。


 その後小森さんは俺を門まで送ってくれた。

「そういえばさ」

「ん?」 

「この8年?他に小森さんが見える人、いなかったのか?」

「あぁ、いなかったよ」

「え、まじで?」

「嘘じゃないよ。何回か5階から降りてウロウロしてみたけど、誰も私を見つけなかったよ」

「そうなんだ」

 想像してみた。誰からも見つけられない日々を。

 ……………………ただ、虚しいな。

「誰にも見られないのに、人混みに行くのはなかなか堪えるよ。それに……わざわざ出迎えにいかなくても、私が見える人は勝手にやってくるんだよ。君みたいに」

 ちらっと俺を見た。寂しさは見える。でも、あの電話をする前の今にも泣きそうな顔は、もうしていなかった。どこかすっきりしたような顔をしているように見える。

「よかった……」

「え、何が」

「いや、なんでもない」

 学校前の信号に着く。あれ?

「小森さんってどこまで出れーー」

「いだっ」

 顔面を思い切り壁にぶつける。なんにもなかったのに、透明の何かが彼女の道を阻む。

 うわ、まじか。

 現実でこんな場面見られるとは。小森さんには悪いが少しおもしろいと感じてしまった。

「ここまでさ」

 赤くなった鼻を押さえながら恨めしそうにそう言った。

「お、おぉ……」

「じゃーね」

「うん。また、明日」

 手を振り、去っていく。その背中は堂々としていた。


 俺は1時間近く前に学校に着いていた。というのも、電車が少ないせいである。こういうときに田舎であるのが嫌になる。都会に行きたい訳ではないが。

「え、早くない?」

「あれ、そういう小森さんも早いじゃん」

「緊張しちゃって。特にすることもないしさ」

「そっか」

 俺は校門のそばにある壁にもたれる。ギリギリ校外だと俺は思う。だからスマホも出す。

「どう?楽しみ?」

「緊張してるってば」

「そうだった」

「わかって言ってるでしょ」

「そんなことない」

「顔に出てるって自覚しろ」

 スマホでオセロを検索し、見せる。

「暇つぶしにオセロしよ」

「オセロ!」

「あ、ルールわかる?」

「それはなんかわかる」

「へぇ、謎だな」

 最初はぐー。じゃんけんぽん。

「じゃ、俺からね」

 正直余裕で勝てると思っていた。このときは。

「……え、ちょ、強くね?」

「いや、たぶん、君が弱いよ」

 余裕の笑みを浮かべる。まじか。俺強かったはずなんだけど。…………まぁね?まともにやったの、小学生のときだし。

「あーあ。負けちった」

「まだまだだな」

「こら」

 小森さんの頭を小突く。

 一瞬驚いた表情を見せ、笑った。

「そろそろ小森さん呼び、やめてもいいと思うんだけどなー」

「……まぁ、タイミング見て」

「うんうん」

「てかさ、幽霊に小森早苗、みたいに個人名、あるもんなの?」

 純粋に疑問だったことを聞いてみる。結構かなり謎だ。普通の人間のような感じだし。

「それは…………」

「あの!」

 俺達は同時に声がした方を向く。まだ時間じゃないはず。でも目の前にいるのは間違いなく、彼女ーー水野志穏だ。髪は想像より長いが、少し前に小森さんに描いてもらった似顔絵とうまく噛み合う。下手だと思っていたが、特徴を捉えていたのか。

「初めまして。お電話させていただいた小林洸です」

「水野志穏です」

「えっと……今日は来ていただいてありがとうございます」

「いえ」

 小森さんの方を見る。嬉しそうだが、やっぱり顔が強張っている。水野さんの方に視線を戻す。と、まるで誰かを探している様子だった。

「えっと……彼女はどこにいるんですか?」

 血の気が引くのがわかった。その言葉一つで何もかも理解できた。そんな気がした。


「見えない、んですか」

「……えっと、何を言っているのか」

 水野さんは視線を下げた。本当なのか。嘘じゃないことはわかる。でも、本当であってほしくないと、全身が叫んでいる。…………だって、それなら、彼女は、小森早苗はーー。

「大丈夫。覚悟はしてたから」

 俺の隣に立った小森さんは、穏やかに微笑んだ。

 ーーあの時の言葉は、余計な心配なんかじゃなかったんだ。ある程度この可能性があると、高いとわかっていて…………俺が浅はかだった。

「……いるんです。俺のすぐ横に」

 水野さんの目が大きく開く。そして俺をじっと見た。

「何も、ありませんが」

「……………………」

 どう対応すべきなのか途端にわからなくなった。何をどう伝えればいい?どうすれば二人の間を繋げる?

「小林さん?」

「信じて、貰えないかもしれないですが……」

「言ってください」

「彼女は……人間ではないものとして、幽霊のようなものとして、今、ここにいます」

 どんどん水野さんの顔が険しくなる。眉をひそめ、不審がるような目を向ける。

「…………なんです。彼女が死んだとでも言いたいんですか」

 俺を責めた。こんなに穏やかそうな人から、低く響く声が出るのか、と驚く。

「違います。彼女は初めから、生きていない。本来存在しない存在です」

 おかしな日本語だという自覚はあった。でもこれに代わる、嘘じゃない言葉がうまく見つけられなかった。


 俺は彼女にすべてを話した。つい最近出会い、あなたを探してほしいと頼まれたこと。突然消えたから転校したのだと仮定し、姉からあなたの情報を得たということ。そして、彼女が人間でないこと。

「なに、言ってるの。信じられるわけ…………」

「ですよね……」

「え、待って。だから?だからあの日からずっと会えなかったの?」

 何か思い当たったのか、考え込む。すると突然俺の腕を握った。強い力で。

「えっ」

「あなた、見えるんでしょう?そこに彼女がいるんでしょう?だったら伝言して。ーーあの日、いつも通りだったあの日。彼女はあそこにいたのか」

 縋るように本気で訴えかけてくる。俺は小森さんを見る。彼女も俺と同様に困惑しているようだった。それでも小森さんは頷く。

「私、ちゃんといつも通りあそこで待ってた」

「ちゃんといつも通りあそこで待ってた、そうです」

 俺は必死に彼女にそう言う。彼女はぼろぼろと涙を流し始めた。

「ねえ、聞こえる?わたし、あの日はたまたま来てなかったんだって言い聞かせて何度も、会いに行ったのに、いなくて…………もう来ないんだって。ガキみたいに意地張って……わたしが……わたしが見えなくなったせいだったのに……ごめん、ごめんなさい」

「知ってるよ……」

 あぁ。小森さん、君は俺に嘘をついていたんだね。彼女が見えなくなったって、そうわかっていても会いたいと。きっと嘘をついた理由は、出会ってすぐの奴に、見えないとわかっている相手を探して欲しいと頼んでも無駄だと思ったからだろう。会っても、それは会ったことにはならないんじゃないか、と言われることを想定していたからだろう。

「今までで初めてだったの。気も遣わないで、ただ今生きてるって。そう思わせてくれた人。……あ、人じゃないのか」

「うん」

 隣で小森さんは頷く。俺は二人をただただ眺める。

「大好き。大好きだった。一番大切だった」

「うん……私だって大好きだったよ……今でも」

 小森さんはいつの間にか泣いていた。彼女の言葉は直接水野さんに届くことはない。

「彼女も、大好きだった、と。今でも」

 俺の言葉、ひいては彼女の言葉を聞き、また大粒の涙を流す。…………どうして。どうして二人は直接話せないのだろう。どうして、届かないんだろう。こんなにそばにいるのに。


 二人の間を取りもち、しばらくして二人は落ち着いた。端から見たら俺が水野さんを泣かしているような光景だ。年末で生徒がこのタイミングで通りかからなかったのがせめてもの救いだ。

「……お別れ、しなきゃね」

 水野さんが小さくそう呟く。目は泣き腫らして赤くなっている。小森さんはというと、すっきりした顔をしていた。なんだ。もっと悲壮感が漂ってるのかと思っていたけど、そうでもなかったらしい。なんたって8年越しの願いが叶ったんだ。これからのことを考えると気が遠くなるが、ここでちゃんとケリをつければ大丈夫だろう。…………で、そのケリをどうつけるんだろうか。

「もう今日が最後になるよね。わたしには彼女のことは見えない訳で、毎回小林くんに取り持ってもらうのも無理だろうし。…………それに、わたしはもう地元のここは出ちゃったから」

「そうですね…………」

 本当の別れか。

「あのさ、わたしは水野志穏。覚えておいてほしいな」

 水野さんは小森さんのほうを向いてそう言う。でも視線の向きが若干ずれているから、見えていないことはすぐわかってしまう。

「小森早苗」

「え?」

 俺は思わず口に出していた。言わずにはいられなかった。

「一応あるんです。彼女の名前。由来こそ俺はまったく知らないですけど」

「小森早苗…………早苗」

 小森さんの止まっていた涙がまた溢れ出した。

「早苗、ありがとう。またどこかで会えたら」

「うん……またね」

 俺は彼女の言葉をそのまま伝える。すると、水野さんは嬉しそうに笑った。

「小林さん、ありがとう。わたし達を会わせてくれて……またね」

 水野さんは俺にも手を振った。俺も手を振る。意外にもあっさりと去っていった。…………違うか。長くいればいるほど、名残惜しくなるよな。

「洸」

「うん?」

「ありがとう」

 初めて彼女の本当の笑顔を見た気がした。


 学校は年末ということで暫く完全に閉鎖された。俺と彼女が次に会ったのは、年明けの4日だった。

「あ、明けましておめでとうございます」

「おお、明けましておめでとー、洸」

 久しぶりに会った彼女は、特に変わった様子もなかった。でも、年越しさえ学校で一人というのはかなり堪えそうだ。

「どう?気分は」

「ん?あぁ。洸のおかげでいい感じ。すっきりした」

「そりゃよかった」

 いつものベンチで俺達は駄弁る。あぁそうだ。あの聞きそびれたことを聞こう。

「小森早苗の由来って何?」

「あー…………聞きたい?」

「めちゃくちゃ」

「しゃーねーなー」

 口ではそう言いつつ、笑顔で話し始めた。

「これは、人につけてもらったの」

「あーやっぱり?」

 なんとなくそんな気はしていた。

「うん。私、小森じゃん?つけてくれた人が小林さんで木を1個増やしたって」

「あれ?小林って俺と同じ」

「たしかに、そうだね」

「へぇ、すげえ偶然」

「…………」

「え、なに」

 なぜか小森さんにめちゃくちゃ見つめられる。そんな綺麗な顔、近づけてくんじゃねえ。…………しかもなんかいい匂いする気がするし。ん?幽霊に匂いってあるのか?

「もしかして親戚?」

「は?」

「小林晃宏っていう人だったんだけど」

「……何年前です?それ」

「えーと、30年は前かな」

「…………俺の父親です……」

「……え、まじ?だからなんか似てるんだ」

 呑気だけど、思い立ったら行動みたいな人ではあるが、高校生の頃からだったのか。父さん……父さんがつけた名前でこれから何年も何十年も残り続けるよ、彼女の中で。

「まさかあの人の息子さんと会えるとは。光栄だ」

「……てかさ、早苗って何歳よ」

「私はこの学校の創立とほぼ同じだから……100歳くらい?って、さっき『早苗』って言ったよね?」

「さあ?」

 初めて名前で呼ぶのはかなり緊張した。声震えんくてよかった。

「あーやっと呼んでくれた」

「そんなに、呼んでほしかった?」

 満足気な彼女に俺は意地悪く言う。どんな反応をしてくれるんだろうか。

「結構割と」

「お、おぉ」

 真面目な顔をしてそう言われた。結局狼狽えるのは俺の方だった。

「また、オセロしようよ」

「……今度こそ俺が勝つ」

「いや、私が勝つね」

 また学校でスマホを出す。早苗のせいで俺は校則違反常習犯だ。

 順番に石を置いていく。今回も俺が先だ。

「……さっきの話だけど、父さんのときは水野さんみたいな変な別れ方にはならなかったの?」

「あーならんかったな」

「そうなんや」

「うん。君の父さんは私のことずっと見えてたし、別れるときもなかなかにあっさりだった」

「おお……さすが父さんだ」

「ねー」

「…………てか待って。俺詰んでない?」

「あっははっ今気づいたの?」

 気づけば角を2つ取られていた。これはまずい。俺の石は黒だというのに、盤面はほぼ白だ。これじゃあこの間と一緒じゃねぇかよ。

「君、なにしてるんだ?こんなところで」

「えっあ……」

 スマホ隠さねぇと。頭ではそう思いながらも身体は固まって動かない。俺は早苗と目を合わせる。…………なんだその顔。任せろ?

「なんだ?」

 先生は怪訝そうな顔をしてこちらを見る。…………そうか。この人には彼女が見えないんだ。

「えっと……冬休み終わるの嫌だなぁってぼーっとしてました」

「はぁ。用がないなら早う帰りな」

「はい」

 大分無理のある言い訳だったが、意外とあっさり行ってくれた。でも、スマホ…………。

「私が触ってると、普通の人には見えなくなるの」

 先生の姿が見えなくなった後、彼女はそう言い、俺のスマホを掲げる。

「そうなん?やっば」

 俺には確かに見えるこれが見えなくなるのか。不思議な感覚。

「じゃ、続き続きー」

 はい、とほぼ白の盤面を俺に示す。あーどうしよう。どうしたって負ける未来しか見えない。ぱっと直感で置く。

「あーあ、そんなとこ置くから負けるんだよー」

 俺は結局負けた。これで2連敗。俺の直感はまったくもって当たらない。

「もう一回やろう」

「えーいいよ」

 3連敗になった。絶賛記録更新中だ。


「次、いつ来る?」

 帰り際、そう聞かれた。次、か。

「いつがいい?」

「いつでも…………望んでいいなら、明日も明後日も明々後日も」

 駄目だろうな、と顔をしながら早苗はそう口にした。でも俺はチョロいのだ。

「いいよ。会いに来るよ」

 ベタな台詞だ。こんなことを大真面目に言うなんて、俺も変わってしまったのかもしれない。

「え……やった!」

 早苗の嬉しそうな顔を見たら、もうなんでもいいと思ってしまった。

 彼女にとって自分が見えるのがたまたま俺であっただけなのに。


 他愛ない話をもう散々した。でも話題が尽きて変な空気になるとかはなかった。時々オセロもして。相変わらず連敗記録は更新され続けている。

「そういやさぁ、宿題って終わったの?」

「え、あぁ。そういやそんなもんあったな」

「おい」

 呆れた顔を見せる。なんだい。君には宿題がないんだろう?…………これを口にしたら駄目だな。

「一緒にやる?」

「勉強教えてくれんの?」

「いいよ。でも幽霊だろうと、ある程度知識ありそうだけど」

「そうかな。できない気がするけど」

「それもあれ?高校生の思考が染みついてたりする感じ?」

「あぁそうかも。私は人間の、主に高校生の業みたいなものだし」

「業、か」

「ごめん、ちょっとカッコつけたわ」

「そうなん?おもしろいからいいけど」

「で、何が終わってないの?」

「えっと……数学のチャート」

 俺は鞄からチャートを出して見せる。

「うわ。分厚いな」

「だよね。もっと圧縮してくれって感じ」

「圧縮……」

 何故かその言葉がウケたようでケラケラと笑い出した。

「え、何がおもしろかったん?」

「なんやろな。なんかおもしろかった」

 早苗は涙を拭く仕草をする。なんかよくわからんが、楽しそうだからいいか。

 あ、そうだ。

 俺は鞄からカメラを出し、彼女に向ける。

「え」

「気にせんで」

 俺は困惑する彼女にそう言う。レンズ越しに彼女を見る。相変わらず綺麗だ。レンズを通そうが、彼女の魅力は濁らないらしい。

「私、ちゃんと映ってる?」

「え、うん。ほら」

 一枚写真を撮り、見せる。しっかり映っている。…………そうか。

「もしかしたら見えない人には見えないのかな」

「あり得る」

 それを確かめるのに最適なのは、水野さんだ。でも悪いな。この間ちゃんとお別れしたばかりなのに。わざわざそこまて調べなくても、

「まぁいいか」

「ん?うん」

 不思議そうな顔でこちらを見る早苗。俺はどうやら口に出していたらしい。

「それより、チャートやってよ。終わんないから、本気で」

「うん……って先に話逸らしたの、そっちじゃん」

「なんのことだか」

「てか真面目な話、私が書いて、ちゃんと見えるの?」

「え?さすがに見えるんじゃ……」

 確かに。当たり前に見えると思っていたけど、どうなんだろう。

「そしたら私の努力は水の泡に」

「いやいや、大丈夫っしょ。なんたって俺のノートで俺のシャーペンだし、書いても見えないほうが謎でしょ」

 考えながら喋ったが、この理論は間違ってない気がする。存在するノートとペンを本来存在しない人が使うだけだ。そもそもスマホでオセロ出来たし。

「そこまで言われちゃしょうがない。やるか」

「あざす!まじで感謝です」

「もっと崇めよ」

「神!天使!この世の星!」

「あっははっもういいってばー」

 めちゃくちゃ笑った。幸せだった。 


 男が女のもとに通う昔の夫婦のように俺は彼女のもとに通った。そして3ヶ月ぐらいが経った頃だろうか。

「…………勝った……」

 俺はオセロで早苗に勝った。

「あーやらかしたなー。あそこがまずかったかー」

 悔しそうな顔をしているかと思ったら、穏やかに微笑んでいた。

 俺は見惚れた。出会った当初のように。

 内側から何かが湧き出るように全身が熱くなる。これはなんだ?

「……帰るわ」

 これ以上ここにいたら、覚悟もろくに出来ないまま口走りそうだ。熱い身体と早鐘を打つ心臓を抱えて、走った。


 俺は、小森早苗が好きだ。


 きっと、もうずっと前から。あのとき。出会ったあの瞬間から。俺は早苗に惚れていた。

「いくらなんでも遅すぎだろ、気づくの……」


 家に帰ると革靴が置かれていた。

「おかえり、洸」

「ただいま、今日父さん早いね」

 リビングから顔を覗かせる父さんを見て言う。普段は夜遅くに帰ってきてすぐ寝るのに。珍しい。

「たまには息抜きも必要だからな」

「もっと休んでもいいくらいだけど」

 俺は靴を脱ぎなから言う。

「最近よく学校行ってるな。部活か?」

「いや…………」

 どう言い訳しようかと思ったが……よくよく考えたら、父さんは早苗のことを知ってるんだ。だったら…………。

「父さん、小森早苗、覚えてる?」

「小森早苗……あぁ、幽霊のことか?今もいるのか?」

「あ、あぁ普通にいる」

「そうか…………」

 思ったより前のめりでびっくりした。やっぱり覚えているのか、名付け親だし。

「最近は、早苗に会いに行ってるんだ」

「うん。洸も見えるんだな」

「うん…………でもなんで早苗って名前にしたの?」

 今となっては、早苗じゃないと違和感があるぐらいだけど、どうしてそう名付けたのかは気になっていた。

「…………えっと、確か……小森にしたのは小林に木を一個増やしただけで……」

 顎に手を当て、考え込む。小森の由来については早苗と同じことを言ってるな。

「あ、そうだ。今考えると皮肉に感じるかもしれないが、苗のように成長してほしかったからだ」

「成長?」

「だって、幽霊ならその姿から成長することはないだろう?目には見えずとも成長してほしいな、とか父さんなりに考えたんだ」

 懐かしむように父さんは笑った。凄く穏やかな表情。

 この表情を見てると思う。早苗は少なからず、父さんの影響を受けて今があるのだと。

「そっか。ありがとう」

「早苗によろしく」

「……会いたいとかは思わないの?」

「思わなくはないけど…………こんなおっさんに会っても嬉しくはないだろ」

 父さんはおどけて笑った。もう数十年も会っていなければそうなるのか。

「じゃ、元気だって伝えとくよ」


 いつも以上に速く運動する心臓。俺は今日も学校に向かう。いつも通り5階まで上がり、彼女に会うのだ。でも、昨日までとは訳が違う。

 …………でも、待てよ。もしこの勢いのまま気持ちを伝えたとして、相手は幽霊?妖怪?はたまた人間の業?な訳で、しかも彼女にとって自分が見える存在というのは貴重。これで気まずくしてしまったら申し訳ない気がしてきた。…………いや、でも友達のふりして、下心がありますーなんて方がだいぶキモいし、ヤバい奴な気がする。

 つーか、こんなこと考えたって俺は多分、気づけば口に出してるだろうから意味ないな。

「早苗ー」

 いつものベンチを覗く。あれ?

「いない……」

 珍しい。いつもなら大抵いるのに。…………もしかして昨日突然帰ったから怒ってるとか?そんな短気には見えないけど、ちょっとした意地悪だろうか。

 まあ、気長に待とう。

 ベンチに腰掛け、ぼーっと窓から見える空を見た。あー空、青いなー。

 なんでこんなに天気いいんだって思うような日もあったけど、今は全然そういう気分にはならない。なんたって、恋をしているからな。

 よくよく考えれば、これって初恋なんだろうか。

 記憶を遡る。今までも、まぁかわいいな、と思う子はいたが、ここまで心揺らがされたことはない。つーか俺、女子との絡みが今までなさすぎじゃね?何年前よ?事務的なこと以外で女子と話したの。…………いや、写真部では話してるか。いや?うーん。

 まぁいいや。心当たりない時点でもう、早苗が俺の初恋相手ということだ。

「……………………」

 さすがに暇だな。

 鞄に入れっぱなしの宿題を出す。あ、チャート。

 パラパラとノートを捲る。俺より筆圧が低い。全体的に薄めの字で、なんか細長い。1と7、どっちがどっちか怪しい。あーかわいい。早く来てよ、早苗。


 唇に何かが触れた気がした。

 どうやら寝ていたらしい。目の前には散らかった文房具とノートの類。今、何時だろう。

 13時。

 俺が来たのは9時過ぎ。もうそんな時間が経っていたのか。というか、ほぼ寝ていた気がする。

 周りを見る。やはり誰もいない。早苗……どうしたんだろう。

 寝ぼけたまま、なんとなくカメラを触る。そうだ、前に撮った写真でも眺めて…………。

「え」

 嘘だろ。

 違う。見間違いだよな。それか記憶違い。じゃなきゃ…………。

 一枚一枚遡る。でも、そのどれにも早苗の姿はなかった。

 思わず空を仰ぐ。……あ、雪。え、雪?


 3月。春が見え始めた。でも寒さはまだ残っている。久しぶりに雪が降った日。俺は彼女を、小林早苗を見失った。


 早苗を見失ってからもあの場所へと通った。そこで待ち続けた。でも現れなかった。

 それが数日経った頃。紙切れ一枚とシャーペンがベンチに置かれていた。

 その紙切れは、写真だった。

 思い出す。


「大事だから、俺は必ずその写真取りに行くから、安心して、ちゃんといい子で待っててってこと」

「うん、待ってる」


 俺が彼女に預けていた写真。

 手に取る。俺の大事なもの。シャーペンが転がる。

「これって…………俺の?」

 あまりに見覚えのあるシャーペンだった。でも俺、失くしてたっけ?

 鞄から筆箱を出し中身を確認する。…………ない。これは俺のか。ーーもしかして。

 写真の裏を見る。


 大事なものは簡単に渡しちゃ駄目だよ


 そう、書かれていた。

 なんで。なんで。なんでなんでなんでなんでなんで見えなくなったんだ?なんで………………。

 ーー子どもは純粋だから霊が見えるって言う話を聞いたことがある。

 どうして冷静にそんなことを思い出しているのか…………待てよ。『純粋』、だから。

 俺が彼女に恋をしたから?俺がその感情に気づいてしまったから?俺が純粋じゃなくなってしまったから?

 ーーだから、見えなくなったのか?

「早苗!早苗!」

 いるはず。いるはずなんだ。俺は必死に名前を呼ぶ。でも足音一つしない。本当に、見えない。

 どうすれば……どうすれば彼女と話ができる?もう、無理なのか?

 会いたい。

 ただ、あの頃の時間が永遠に続けばよかった。

 俺は床に座り込む。堪えても堪えても溢れる涙を止める術が見つからなかった。


 泣き疲れて、ベンチで時間だけを溶かした。

 昼飯も食べないまま、夕方が来て下校時刻の放送が流れ始めた。帰らないと。頭ではそうわかるけど身体が動かない。

「あれ、小林。何やってるんだ?」

「……先生」

 数学の先生だ。わざわざ5階まで来てそっちこそ何をやってるんだ。近くまで来てギョッとした顔をする。あぁ、そうか。俺、泣いてたんだ。

「…………何があったか知らんが、いつでも話聞くぞ」

「え、ありがとございます」

「そういや全然関係ないけど、冬休みのときのチャートのノート、破れてたから次は気を付けてな」

「え?」

 破れてたっけ。まぁいいか。そんなことを気にしてる余裕なんて俺にはない。

 先生は意外にもあっさり俺の前から去っていった。泣いてたからもっと心配されるかと思ったが、所詮高校教師だな。しかも数学の先生だし。

 ベンチに散らばったあらゆるものを鞄にしまい、立ち上がる。

「また、明日」

 誰も見えないけど、そう俺は言った。そこで自覚する。あぁ、俺、明日も来る気なんだ、と。



 春休みが終わった。勿論毎日学校には行った。会えることはなかったけど。

「洸、なんかやつれたか?」

 友達にも心配された。時間が解決するものだと思っていたが、そうでもないらしい。俺はずっと早苗のことを引きずっている。というか、過去のことになんか出来そうにない。

 新しいクラスの緊張感なんか俺には無くて、必要なものに事務的に名前を書くだけ。

 アンケートか。

 手元に回ってきたプリントに目を通す。ずっとマーカーやボールペンだったが、シャーペンで書くやつらしい。

 筆箱に手を突っ込む。…………そういやこのシャーペン、いつからなくなっていたんだろうか。早苗にチャートをやってもらうときに渡したから、そのときか?だとしたら俺、気づかなすぎじゃね?思わず苦笑する。

 …………あれ。芯が出ない。カチカチと何度押しても出ない。芯入ってないのか?

 しょうがない。入れるか。シャー芯を出し、キャップを開く。ーーなんだこれ。

 紙がぎゅうぎゅうに詰められている。え……新手のいじめ?おずおずと紙を引き出し、開く。


 洸のファーストキスは、私が奪ったから。

 私のことが見えなくなっても大好き。さよなら。幸せになってよ。

 小森早苗


 ガタンッ

 思わず立ち上がる。周りの視線が俺に集まる。でも、そんなものに構ってなどいられるかっ。

「小林くん?どうかした?」

「すみません!」

 俺は教室を飛び出し、ひたすら走った。早く。速く。見えなくても。俺は彼女にこの気持ちを伝えるんだ。何が正しいのかなんてわからない。でも、絶対後悔する。

「早苗!小森早苗!」

 あのベンチ。でも、やっぱり見えない。俺には、がらんとした風景しか見えないけど、でも。

「好きだ!めちゃくちゃに、好き!」

 きっといるはず。

「愛してる……」

 声が掠れる。言葉にしてやっとわかった。俺は彼女を愛している。

「俺と、付き合ってくれ…………って言いたかった。ちゃんと聞こえてるか?見えないけど、声だって聞こえないけどーーえ」

 握りしめていたシャーペンと紙が何かに引っ張られる。俺は思わずそのまま離した。宙に浮くと思っていたが目の前から消える。…………そうだった。見えない人には見えないんだ。あのとき、スマホを隠してくれたみたいに。思わず笑みが溢れる。久しぶりに笑ったかもしれない。

 目の前にシャーペンと紙が落ちてくる。


 卒業まで、毎日じゃなくていいから顔見せに来て。でも卒業してからは来ないで


 ぶわっと嬉しくなる。彼女の存在が感じられる。そばにいる。姿が見えなくても、もうこれで十分なんじゃないか?

 でも、どういうことだ?

「顔は勿論見せに来るけど、卒業してからは来ないでって、どういうこと?」

 また紙とペンが消える。そしてすぐ現れる。


 私はこの学校から出られないし、君を束縛したい訳でもないからさ。この1年でゆっくりお別れしよ。


「…………うん」

 お別れのための1年が始まった。


 あの紙切れを見る限り、俺が見えなくなってからもう既に別れの準備はできていたのだろう。あるいは、そういうふりをしたのだろう。俺は後者であってほしいと、最低ながら思ってしまった。

 俺はあれからノートを持ってくるようになった。言ってしまえば、俺と早苗の会話の断片を形にしたようなものだ。

 3年開始早々、勝手に教室出てきたから目をつけられた、とか。明日人生最後のシャトルランだ、とか。友達に彼女ができて、お前勉強する気ないだろ!って怒られてたとか。

 本当にお別れとは程遠い、俺の日常の話ばかりした。

 ずっとこのままでいいのに、とすら思っていたのに時間は否応なしに減っていく。俺は未来に目を向けなきゃいけなくなってきた。未だに迷う志望校と、受験勉強。

「駆け落ちしない?」

 思わず口にした。でもこれは不可能だ。彼女はここから動けないんだから。

 何馬鹿なこと言ってるのって返ってきた。ははっと笑ってしまったが、すぐ表情は戻ってしまう。

「……ほんと、馬鹿だよなあ」

 馬鹿でも何でも、そばにいられたらそれでいいと思っていたのも、本当だったんだ。

 体育祭とかいう、周りとの熱量の差を見せつけられる行事も終わった。早苗との残りの時間を楽しんでやるとか、うまく割り切ることもできないまま、春が終わった。


 夏。以前に比べて心の重しが少し軽くなった気がした。暑さにやられて遂に溶けたとでも言うのだろうか。

 最近笑うようになったね、と早苗に言われた。正確には書かれただけだが。

「そうかな」

 時間が解決する、と言うのは嘘だと思っていたが、本当だったのかもしれないと最近は思う。見えなくなったあのときより、俺笑えてる。

 8月。課外中。季節外れのインフルエンザにかかった。暑いのに寒い。意味のわからない高熱。死にたくなった。一週間学校に行けない。それはつまり、早苗にも一週間会えないことを意味していて。そこでやっぱり思った。一緒にいるなら楽しまないともったいない。彼女の記憶に残るのが笑う俺であってほしい、と。

 受験勉強でおかしくなったのか、とクラスの奴にも早苗にも言われた。自分でもわかってるよ、情緒不安定だって。


 もうすぐそこに受験がやってきた。俺は養護教諭が目指せる進路に方向転換した。もともと経済学部にしてはいたが、別に興味がそこまであったわけじゃないし、多少教師に心配はされたが最終的に応援してくれた。場所は片道1時間以内の近場。

 でも何で養護教諭?そう早苗に聞かれた。

「今、これだけ特殊な状況にあったら、どんな相談されても取り乱すことなんかないだろうと思って」

 俺は意地悪く笑って見せた。

「大きな理由としては、俺って意外と世話焼きなのかもしれないと思ったからだよ」

 彼女に頼まれごとをしたときのことだ。俺はなんだかんだ相談や頼みを断れない奴だと悟ったのだ。……それが全てじゃないけど。

 あの頃のような会話ができるようになった秋。


 いよいよ受験本番。雪で滑って受験票無くすなんてこともなく、無事に共通テスト終了。予定通り、志望校の個別試験を受験。あとは結果を待つのみ。受からなかったときの後期日程も存在するが。

 自信の程は?と聞かれた。文字に緊張なんか感じられず、からかってるような気さえする。

「俺地頭いいからさ、なんかいけてそうって謎の自信あんだよね」

 世の高校生敵にまわしたね、と書かれる。確かに、と俺は笑う。追加で何か書かれる。んー?後期の勉強はしなくていいのか?だって?

「後期は小論文だから地道にやってるって」

 自由登校なのにわざわざ毎日学校に来てる物好き、俺以外にいんのかな。これじゃあただの学校大好き人間じゃないか。

 寒い冬は気付けば終わっていた。


「ご卒業おめでとうございます」

 遂に俺は卒業した。

 周りに合わせてそれなりにはしゃいで、それなりに遊んだ後こっそり抜けて早苗の元に向かった。

「早苗、いる?」

 実は今日、ずっと付き纏ってた。そうノートに書かれる。

「うそ、まじ?気づかんかった」

 気配すら感じない。まあそれは今更か。

「これ、早苗が持ってて」

 制服につけたコサージュを早苗に渡す。なんで、と聞かれたが無視した。

「で、早苗は言ってくれないの?」


 卒業、おめでとう


 躊躇っているように見えた。ただの文字だけど。

 これで遂にお別れ…………にはしないけど。

「じゃあな、早苗!」

 早苗は俺のこと一生引きずってて。

 俺、なかなか性格悪いな。でも知ったこっちゃない。

 俺は新しい道を歩き始めた。


「4月から配属になりました、小林洸といいます。この学校は僕の母校でもあるので、また戻ってこられて嬉しいです。これからよろしくお願いします」

 養護教諭になり数年が経った頃、俺はまたあの高校へと戻ってきた。懐かしい景色。少し古くなった感じは否めないが、結構嬉しいものだ。……まあ、ここに戻ってくることは、もう何年も前に予定していたことだが。

 俺は学校を探検するふりをしながら、あのベンチへと向かった。勿論、一年付き合ったあのノートも一緒に。

「早苗ーいるかー?」

 コサージュが床に落ちた。俺はそれを見て笑みを溢す。

「久しぶり。帰ってきちゃったわ。つーかもっと早く帰ってくるつもりだったんだけど」

 養護教諭になり、配属に希望を出せなかったことがかなりきつかったけど、無事ここに戻ってこれた。

 姿こそ見えないがいるのは確定だ。なんか、とりあえず嬉しいなーとか呑気に考えていると、風が吹いたように髪が靡く。ーーもしかして。

「抱きしめられてる?」

 抱きしめてないし!

 俺から奪い取ったノートに荒々しくそう書かれる。わかりやすすぎだろ。かわいいって。

「ねえ、俺と付き合ってよ」

 姿も見えないのに?

 少しの間が空いた後、そう書かれた。

「大事なものは渡さないから」


 ばーか いいよ


 ばーか、の後に小さく書かれた文字に心が躍る。

 初恋は実らないって本当だった、と思ったときもあった。でも、叶っちゃったな。

 見えないが、俺は早苗に向けたつもりで微笑む。


 彼女は俺の初恋泥棒だ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

どうにか今年中に公開したくて頑張りました。

『天才の弟』という話もまったく別の話ですが、連載で投稿しているので、よかったらぜひ読んでみてください。

とにもかくにも、読んでくれて嬉しいです!

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