人の存在意義について
ここで存在意義について定義してしまうのは
半ば恐ろしい心持ちがする。
何もなかろうと思考なんてものは所詮変わり続ける、安定性の小さいものなのだから。
しかし敢えて書こう。
我々は小さい存在なのだ。
⚠あくまで私の私見です。
人は自分の生きる前と死ぬ後を知らない。
人は自分の思考や感覚、知識の何処から来るかを知らない。
したがって世界の何たるかを知るにはあまりに情報が少ない。
世界5分前説を聞いたことがあるだろうか。
その仮説では世界はあらゆる情報を持って五分前にできたものとしている。
このような仮説が生まれるほど人は今自分の住んでいる世界を理解できない。
つまり私たちが普段何気なく使う「世界」という言葉はかなり広い範囲にある。
私の思う「世界」とは概念である。
私たちは概念に至れるわけでない。
私たちは概念をその手に捕まえてじっくりと観察することができないし、
私たちのような小さい存在は概念に影響を与えることはできない。
概念と言えば、時間も概念だとかいう話も子供の頃聞いたが(多分母親からだったと思う)
例えば未来、人類が時間を操る可能性もないとは言えない。
ただそれは、概念を捉えたとは言えない。
時間もまた物理現象であったということだ。
ただ人類が概念として名付けることしかできなかった枠組みは宇宙が壊れようが事実として依然ある。
これを私は真に世界の根幹足りうるものだと思う。
私たちも私たちの引き起こすあらゆることも、概念に比べたら小さな存在なのだ。
さて、それらを踏まえたうえで問う。
私たちの存在意義とは何か?
世界は別に私たちを必要とするわけでもないし、私たちがいなくても別に構わないのだ。
極論、概念の存在にのみ気をつけると、この自然のあらゆるものが崩壊してもなんら悪いことはない。
すると自分は(世界にとって)何のために生きているのかとか言う問いには対して
「存在する意味はない」という結論に至る。
私たちは何のために生まれてきたのかと理由を突き詰めても、恐らくそこには、私たちはただ生まれたという事実しか存在しないと思われる。
私たちは私たちに利のある行動をベースにしてそのうえで人生のあらゆる選択を決めることができるのだ。
私は他者に危害を加えることことがあっても、各人の選択の権利の否定はしない。ただ
他者にも選択の権利はあるのだから、その行動がどのような結末を巻き起こそうがそれも関係したことではない。
私は私が感じたことをただ受け取る。
それが私の世界観に妥当だろう。
そもそも善悪なんて言葉を人生に使うのはおかしいだろう?
追記:ここでの概念とは事実を含む何かしら
善悪の存在しないほど’ある’だけに近し
いものを指す。
具体例として、本文の概念を事実に置
き換えて考えても良いかもしれない。
⚠あくまで私の私見です。
過度に信じてもらわなくてもいいし(文章力が足りないか)過度に否定しないでくださいませ。