第2話 竜の血筋(1)
この世が始まる前。
そこには混沌だけが存在していた。
混沌は、ただの無味乾燥な無秩序ではない。
混沌は、揺らぎを内在する活発な存在だったのだ。
途方もない時間を経て、その揺らぎの中から、混沌は偶然に知性を獲得し、知的存在となった。
これが原初の神で、神の中の神であるカオスである。
カオスは、まず大地と天空を生み出した。
これがこの世界の実質的な始まりとなった。
あの日から二か月が過ぎようとしている。
マリア・クリスティーナの心は重く沈んでいた。
憂鬱で今日も日がな一日、何をするでもなく部屋に籠って過ごしている。
そこに、母のマリア・テレーゼが訪ねてきた。
彼女は恐る恐る口を開く。
「今日も……ないようだね……」
「ええ……」
マリア・クリスティーナは力なく答えた。
あるべき生理現象が二か月近くない。
それが何を意味するか白黒つけるのが、彼女は怖かった。
「悩んでもしょうがないね。私が付き添うから、医者に診てもらいましょう」
意を決してマリア・テレーゼは娘に誘いをかけた。
(クリスのこんな姿……もうこれ以上見ていられない……)
「でも……」
「悩んだからって、結果は変わらないのよ」
とマリア・テレーゼは、少し強い口調でたたみかける。
「はぁ……わかりました。お母さま」
マリア・クリスティーナは、大きなため息をつくと、漸く覚悟を決めた。
母子が訪れた病院は、アウクトブルグでも治安の悪い地区に隣接したところにあった。
マリア・クリスティーナに起きた今回の事故のようなことは、貴族や大商人の娘にもままあることだった。
このような訳ありの娘たちを秘密厳守で診察する。ここはそんな病院の一つだった。
医者は白髪交じりで瘦せぎすの姿で、少し疲れているように見えたが、慣れているようで、母子の名や詳しい事情は何も聞かず、ただ淡々と問診していく。
そしてやはり淡々とした口調で告げた。
「妊娠してますな」
「ええっ! まだ詳しい診察は何もしてないじゃないですか!?」
とマリア・クリスティーナは、躍起になって抗議した。
しかし、抗議したところで事実が覆るはずもない。
「症状といい、体に出ている特徴といい、間違いなく妊娠です。それでも詳しい診察をお望みなら一応やりますが?」
マリア・クリスティーナは、ガックリと肩を落とすと「いいえ。結構です」と力なく答えた。
「あの……このことは、どうかご内密に……」
と言うと、マリア・テレーゼは幾ばくかの現金を医師に握らせる。
医師は何のためらいもなく現金を受け取ると、飄々として答える。
「もちろんですよ。こちらも信用商売ですからね。他人に漏らすことは絶対にありません」
自宅に戻った母子は、グンターに結果を告げた。
「困ったことになったな……」
グンターは、眉間に皺をよせ、難しい表情で呟いた。
しばしの沈黙の後、マリア・クリスティーナは自信なさげに言葉を発した。
「私……産みます……」
父の素性が知れないとはいえ、我が子は我が子。彼女は約二か月間悩んでいる間に、そのことだけは心に決めていた。
「それは……もちろんだが……」とグンターは即答した。
マリア・クリスティーナは少し驚いたが、世間体を気にして堕胎を勧められることを恐れていた彼女は、安心の方が勝った。
では、グンターは何を悩んでいるのか?
それには、少し複雑な事情があった。
◆
神聖ルマリア帝国の帝室の血統には、原初の神であるカオスの血が流れているという伝承があった。
カオスは、地上に姿を現わすときには、竜の形をとるという。
現に、帝室の血筋の者には竜の紋章の形をした痣が体の一部に現れるという。
だが、竜の血筋は代を重ねるうちに混血し、薄れていく。
そしてこの数代では、竜の紋章が現れないか、現れてもとても小さいという状況にまで陥っていた。
だが、奇跡が起きた。
隔世遺伝とでもいうものか、現皇帝のフリードリヒⅠ世・フォン・ホーエンシュタウフェンの右の二の腕には、5センチメートルほどの小さな紋章があったのだ。
紋章は、その現れる部位によって、発揮する能力が異なる。
腕に現れる紋章は、武勇に優れていることを示すものだった。
結果、帝国南部のエタリア地方におけるルマリア教皇との権力闘争では、勝利とまでは言わないまでも、痛み分けの状況となっており、これにより帝国はなんとか均衡を保っていた。
ルマリア教皇のイノケンティウスⅢ世は権力に固執した人間で、これまでにない勢いで教会勢力を拡大していただけに、この結果は大きかった。
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