第129話 タルタロス
タルタロス。
それは冥界のさらに下方、天と地の間の距離と同じだけ、大地から更に低いところにある。
霧がたちこめ、神々ですら忌み嫌う澱んだ空間。
一切の光はない暗黒の空間である。
ルシファーはタルタロスに一人佇んでいた。
踏みしめるべき大地はなく、上下左右もわからない。
ルシファーは元々天使最上位の熾天使であり、全天使の長で、天使たちの中で最も美しい大天使であった。
彼は、創造主である神ヤハウェに対し謀反を起こし、彼に味方した天使たちとともに自ら堕天使となった。
神の似姿として作られたアダンに拝礼せよという命令を拒み、そのために神の怒りを買ったのが切っ掛けであった。
謀反は失敗し、ルシファーたちは冥界へと追放された。
冥界は不毛の荒野であり、苦痛に満ちた場所だった。堕天した悪魔たちは、このような仕打ちをした神ヤハウェを心から恨んだ。
悪魔たちの筆頭格であるベルゼブブは主張した。
「主ルシファーよ。我らには智天使や座天使を始め、主天使、力天使、能天使などの上中級天使が堕天使した者が多数いる。ここは今すぐにでも我らの全武力をもってかの者に復讐すべきだ」
これに対し、悪魔ベリアルは反論した。
「かの者は全てを見通す存在だ。我らがこうやって復讐を談義していることも百も承知のはず。今にもかの者の怒りの鉄槌たる雷霆が落ちてきてもおかしくはない。
かの者は我らを冥界に閉じ込め、永遠の苦痛を味合わせるつもりのはず。しかし我らはその意図に乗る必要はない。
我らは冥界から出ることなく、地獄の主として君臨し、この地を我らの新たなる楽土となすべきだ」
議論は膠着するかに思われた。
しかし、ベルゼブブが妙案を提示する。
「天国にはかの者が最も寵愛するアダンらが住んでいる楽園がある。だが、その場所の防衛は住んでいる者の自衛に任せられているという。こここそが天国の弱点であり、突破口となるであろう。
それにアダンは我らが追放される切っ掛けともなった憎むべき存在でもある」
これに満足するようにルシファーは答えた。
「ベルゼブブよ。よくぞ申した。深謀遠慮をもって神に復讐することこそ痛快ではないか。その役目、我が自ら果たしてくれようぞ」
こうしてルシファーは、幾多の困難を退けながら、冥界を脱出すると、アダンとエバのいるエデンの園へと向かった。
そこで、ルシファーは蛇の姿に変化すると、エバを唆し、禁断の果実を口にさせることに成功した。
結果、アダンとエバは楽園を追放されることとなった。
ルシファーは、神ヤハウェが寵愛するアダンに復讐がかない、また神が落胆したであろうことを思うと溜飲が下がる思いだった。
だが、これでは終わらせない。
ルシファーは、冥界から悪魔の軍団を呼び寄せると住人不在となったエデンの園を突破口に、天国へと侵入することを試みた。
ことは天使と悪魔の全面対決の様相を呈したが、悪魔たちの執念が勝っていた。
ついに、ルシファーは天使たちの守りを突破し、神ヤハウェに肉薄した。
しかし、創造主の力は圧倒的だった。
ルシファーがヤハウェに怒りの剣を振り下ろそうとしたその刹那、ルシファーの視界は暗転した。
ヤハウェによって、タルタロスへと幽閉されてしまったのだった。
主を失ったことにより、戦況は逆転し、悪魔たちは再び冥界へと逃げ帰った。
だが、悪魔たちはあきらめてはいなかった。
いつかルシファーが戻ってくることを固く信じ、再戦を侍する一方、冥界を自分たちの楽土とすべく、支配を進めるのだった。
◆
タルタロスに佇むルシファーは、背後に鋭い殺気を感じた。
ルシファーは咄嗟にこれを回避すると、振り返りざまに手刀を一閃した。闘気の刃が敵を襲う。
敵は持っていた禍々しい魔剣で受けようとするが、闘気は闘気でしか散らすことはできない。
闘気の刃は魔剣をすり抜けると、そのまま敵の利き腕を切断した。
それでも敵は怯まず、地獄の業火をルシファーに放つ。
が、ルシファーは、冷静に魔法反射でこれをはね返した。と同時に、ルシファーは敵に突進し、右腕の鋭い爪に魔力を込めると、敵の虚を突いて強引に敵の心臓を抉り出した。
それでも敵は即死ではなかった。
敵を十分に弱らせたと判断したルシファーは、精力吸収の魔法を使い、敵の生命力と魔力の全てを吸収する。
敵の体は、みるみるうちに干乾びていった。
今は見る影もないが、遥か太古の時代にいずこかの神によって幽閉された魔王のようだった。
ルシファーは、魔王と思わる者が残していった魔剣を手にすると独り言を言った。
「なかなかの業物ではないか。これはこれからの戦いが楽になりそうだ…」
◆
タルタロスはこの世界の原初から存在し、ここには、神々の手に余った魔王や邪神の類が遥か太古から連綿として幽閉されてきた。
想像を絶する時間の経過とともに、その数は無数に及んだが、何もないタルタロスで生きていく術は、お互いに共食いをするしかなかった。
結果として、タルタロスは古の呪術である蟲毒の術を途方もないスケールで行っているような効果を生じていた。
強者が弱者を捕食し、その能力を得てより強く、そして強者どうしの戦いに勝ったものはより強く…
ルシファーがタルタロスに幽閉されてから相当な時間が経過していた。ルシファー自身もそれが数百年なのか、数千年なのかもはや見当がつかなくなっていた。
その間に倒した敵の数はもはや数えきれない。
その倒した敵の数だけルシファーは強さを確実に増していった。
そしてある時。
タルタロスに突然に光が差し込んだ。
何者かがタルタロスの入り口を開き、パンドラの箱を開けてしまったのだ。
ルシファーは久しぶりに目にした光に目が眩んだ。
と同時に、意に反して、タルタロスの外に吸い出されてしまった。
同様に、タルタロスで生き残っていた多数の魔王や邪神も吸い出された。
これにより、世界に、かつてない災厄の時代が訪れようとしていた。
今から15年ほど前のことである。
◆
タルタロスの入り口が開かれたことを悟ったガイアは、眉をひそめながらカオスに声をかけた。
「父上! ほかの有象無象はともかく、かの者が解き放たれては……」
「わかっておる!」とカオスは苛立ちを抑えられない。
二人を傍観していたウラノスが「では、どうされるおつもりで?」と冷静に訪ねるとカオスは嫌そうに答えた。
「かの者は、まだ魂の姿だ。これを抑えられる器を作るしかあるまい」
「では……」
誰に不満をぶつけるでもなく、カオスは呟いた。
「それは我にしかできぬことであろう……」
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