第120話 良い母親候補
人間が社会で生きていくに当たっては、様々な行動が様式化された因習というものがある。
人々は、これに従うことで、社会の中でスムーズに生きていくことができるのだが、これは、良く言えば”大人な”、悪く言えば”擦れている”ということになろう。
因習の中には、弱者の立場を固定化してしまうような倫理的な問題があるもの、また、時代の変化に付いていけていないものなどもあり、翻ってみると問題のあるものも多いが、それに浸りきった者が、これを自覚することは難しい。
因習は、国や地域によっても違いがあるため、外国人などから第3者的に見ると、良くも悪くも見えるものもあるだろうが、かといって当該外国人の祖国の因習の方が優れているとも言い切れない。
シオンの町と大都会であるアウクトブルグの町は、因習も大きく異なるという意味では、ルードヴィヒは外国からきた異邦人と大きな違いはないのかもしれなかった。
正餐(昼食)を終わったルードヴィヒは、コンスタンツェに尋ねた。
「こっからなじょする? 腹ごなしの散歩に庭でも見に行くけぇ?」
「そうねえ……でも、その前に、もう一度サンディちゃんが見たいわ」
「ったく、なじょして女衆は赤ん坊が好きんがぁかぃのぅ」
「それは、本能だからしょうがないのよ。男子がスケベなのといっしょよ」
「そらぁ”言わぬが花”っちうもんだがんに……」
……と言いながらも、ルードヴィヒは育児室に案内する。
アレクサンドラは、まだ寝ているところだった。
「ああ。寝ている無防備な顔も究極の癒しなのよね」
……とコンスタンツェは、嬉しそうに漏らした。
だが、抱っこできなくて残念な様子だ。
そこにアグネスに授乳に来ていたソフィアが声をかけた。
「あのう……大公女様。私の娘でよければ、抱っこしてみますか?」
「まあ。いいのかしら?」
途端に、コンスタンツェの目が輝いた。
「もちろんです。どうぞ……」
ソフィアが、アグネスをコンスタンツェに手渡すと、彼女は恐る恐る抱っこした。
「アグネスは、もう首が据わっていますから、そんなに気を使わなくて大丈夫ですよ」
ソフィアが安心させるように言った。
「そうなのですね。この子はアグネスちゃんというのですか。あなたと同様に聖女の名前なのですね」
「ええ。主人がそうしたいというので」
「サンディちゃんよりも随分と重いのですが、生後何月ですか?」
「生後10か月になります」
「そうですか。赤ちゃんの生長って、そんなに早いんですね。目はどのくらい見えているのですか?」
「まだまだですが、3ヵ月を過ぎた頃から動くものを目で追ったりしていますね」
アグネスは、コンスタンツェの顔を不思議そうにじっと眺めている。
「アグネスちゃん。私はコンスタンツェですよ。私の顔が見えるかなあ」
コンスタンツェは、自然に微笑みを浮かべながらアグネスに呼びかけた。
するとアグネスは声を出さなかったが、ニッコリと笑った。
「ああ。今笑った。笑いましたよねぇ」
コンスタンツェは、大喜びである。
そして、もう一度笑わせようと、声をかけたり、笑いかけたり必死である。
ところが、アグネスは、そのうちにぐずり始めた。
「ああっ。ごめんなさい」
コンスタンツェは、アグネスをゆらゆらと揺らしてみたりしたが、無駄だった。
コンスタンツェは、申し訳なさそうにアグネスをソフィアに手渡す。
「おむつでねぇか」とルードヴィヒが指摘する。
「たぶん、そうですね」とソフィアは、さも確定事項であるかのように言った。
「えっ! 泣き声で、そんなことがわかるんですか?」
「ええ、なんとなくですけど……大公女様も母親になれば、わかりますよ」
「そんなものなのでしょうか……?」
(でも、私の場合、自信ないなあ……)
そこにルードヴィヒが声をかける。
「あちこたねぇすけ。大公女様。最初から母親の女衆なんていねぇがだすけ。女は、妊娠したら自然と母親んなっていくがぇてぇ」
「そうかもしれないわね」
(まったく。男は、そんなことを気楽に言うけれど……)
その後、コンスタンツェは、ソフィアがおむつを替える様子を興味深げに見入っていた。
「アグネスちゃんのう〇ち見ちゃった」と言っては騒いでいる。下の世話にも忌避感はないようだ。
これを見て、ルードヴィヒは思った。
(貴族の女性にしちゃあ珍しいのぅ。こらぁええ母親になるこっつぉ……)
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