第93話 セカンド・シェフ(1)
(ああ…いっそ消えてなくなりたい……)
大公女宮のセカンド・シェフの職にあるペーター・フォーベックは、今の自分が間違いなく人生のどん底にいることを感じていた。
手にしている小さな包みを見つめると、これから犯そうとしている大罪に物恐ろしさを感じ、手が震えている。
(本当に、こんなことで自分の人生を取り戻せるのだろうか?)
しかし、奴らにここまで追い詰められてしまった以上、どんなに知恵を絞ったところで、他の選択肢を考えつくことなど及びもつかない話だ。
(いっそ自殺でもすれば、楽になるかもしれない…)
そうも考えてみたが、キリシタ教においては、”生命は神からの賜物であって、人間が絶つことは許されない”とされている。自殺は、いわゆる7つの大罪には含まれないとはいえ、罪は罪である。
何をやっても罪……。
そんな閉塞状況の中で、ペーターの心は嵐の中の小舟のように激しく揺れ動いていた。
大公女宮の料理人であったペーター・フォーベックは、妻のソフィアとは、大恋愛の末、結婚した。
夫婦仲は、当然に良かった。
やがてペーターは、セカンド・シェフに昇格した。
それを祝って、同僚や知人を招いて、自宅でパーティを催した。
今思えば、この日が人生で最高に幸せだった瞬間かもしれない。
ペーターの人生に影が差したのは、念願の子供を授かり、妻が妊娠したことが切っ掛けだった。
ペーターは、子供の親になるということに自信が持てず、腹の中にいる子供に対する愛情も実感が持てずにいた。
妻のソフィアは、それに対し大きな不満を抱き、ペーターに対する不信感を募らせた。
やがて、可愛らしい女児を出産したソフィアは、子供の育児にかかりっきりとなった。
それに伴い、ペーターは疎外感を覚えた。
夫婦の会話も減り、相手が何を考えているかわからなくなった。
結果、ペーターは、家に居辛くなり、用事もないのに外をぶらつくことが多くなっていった。
そして、繁華街をぶらついていたとき……
「お兄さん。いい店があるよ。寄っていかないかい?」
と呼び込みをしていた女性は、美人ではあるがミニスカートを履いていて、化粧も濃いめだった。
「娼館の呼び込みなら間に合っているよ」
「何を言ってるんだい。そんなんじゃないよ。ただの居酒屋さ。たださあ、ここだけの話。女のお客はお兄さんと同じ年頃の未婚女性ばっかりなんだ。悪くないだろう」
「だから間に合っていると言っているだろう。俺には妻がいるんだ」
「お兄さんも堅物だねえ。そんなものバレなきゃいいんだよ。なにもふしだらなことをするっていう訳でもないし……お兄さんも女は嫌いじゃないんだろう。もしかして素敵な出会いがあるかもしれないよ」
「いや……それは……」
ペーターは、自信がなくなってきた。
今の妻との間にできた心の隙間を埋めてくれるような女性と出会えたら……
そんなことを思わず想像してしまう自分がいた。
別に、一線を越えて、ふしだらなことをしようということではない……ならば浮気とは言えないのではないか……
「別に難しいことは言ってないよ。そんなことは、皆がやっていることさ」
呼び込みの女性は、ペーターの心を見透かしたようなことを言う。
(そうさ。この程度は皆がやっていることさ……)
「ならば……ちょっとだけ……」
「毎度ありぃ! お兄さん。ハンサムだからモテるよう」
「そ、そうかな……」
「ああ。絶対さ」
ペーターには、このとき"魔が差した"としかいいようがなかった。
◆
案内されたお店は、"禽鳥貴族"という名前の鳥料理をメインに出す居酒屋だった。
看板には書いていないが、いわゆる"出会い系"というお店で、訪れた男女の相席を店側がコーディネートしてくれるのだが、客引きの女性は、そのようなことは一言も言っていなかった。
ペーターが一人ポツンとテーブル席に座り、注文した料理を待っているとカウンター席に一人で座っている女性がこちらにチラリと流し目を送っていることに気づいた。
だが、ペーターには、それに正面から応える勇気がない。
一方で、店員は、その様子を察したようだ。
「お客様。ご合席をよろしいでしょうか?」
「ああ。構わないよ」
生来、気の小さいペーターは、これを断ることができない。
案の定、流し目を送っていた女性が相席となった。
彼女は、庶民でも上級の者が着るようなシックなドレスを見事に着こなした垢ぬけた感じの美人だった。
ペーターは、こんな素敵な女性と自分が吊りあうはずがないと、少し腰が引ける思いがした。
彼女は、開口一番に言った。
「相席してくれてありがとうねえ。お兄さんがあんまり寂しそうだったから、思わずきちゃった。あたし、そういうのが放っておけない質でさあ」
「ああ。そうなのかい」
「あたしじゃあ、話を聞くくらいしかできないけど、言いたいことがあったら、愚痴でもなんでも言ってよ。話すだけでも気持ちが楽になると思うよ」
「そうかな……」
「別に、あたしに遠慮する必要はないからさあ……」
「じゃあ……そこまで言うのなら……」
こうして、彼女の話術に乗せられて、ペーターは、妻に対する愚痴を話してしまう。
「それはお兄さんも寂しいよねえ。でも、奥さんもたいへんなんだから、それもわかってあげなくちゃあ」
「それは……わかっているつもりなんだが……」
「でも、奥さんの方も大変なのはわかるけど、冷たいよねえ」
「う~ん」
「あたしだったら、もっと旦那のケアにも気を使うと思うなあ」
ペーターは、彼女と話すことで、かなりの気晴らしとなった。
そして、話題はペーターの仕事の話になった。
料理の話題については、ペーターの独壇場である。
彼女は、ただただ感心している。
結局、彼女とはもう一度会う約束をして、その日は別れた。
そして、彼女と二度、三度と逢ううちに、どんどんと彼女に引き込まれていく。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけましたら、ブックマークと評価・感想をお願いします!
皆様からの応援が執筆の励みになります!





