第二話 妻を想う
静かな応接室で時計の音だけが響く。リヒャードはそこに自身の呼吸音が混ざるのを聞く。ゆっくりと深く息を吸い、吐き出す。
(今日もまた、コーエンがおらねばバルドゥールの悩みを晴らすことは叶わなかっただろう)
婚約者であるバチルダ以外の女を抱きたくなどない、と潔癖に拒絶していた昔の自分。そこに今日のバルドゥールが重なって見えた。
弟である第三王子バルドゥールの正式な婚約者ではないが、弟には恋する少女がいる。
友好国ガルボーイ王国の第一王女。ツァレーヴナ・アンナ・ガルボーイ。
彼女は母国の反国王派の起こした内乱から逃れるため、ゲルプ王国に亡命してきた。
王弟グリューンドルフ公爵の元に身を寄せるアンナとは、公爵邸で出会ったという。
グリューンドルフ公爵が嫡男フルトブラントと、弟バルドゥールは学友であり幼馴染だ。
それまでバルドゥールとアンナとが公爵邸で出会う機会がなかったのは、彼女の存在が公爵によって隠されていたからであろう。
王太子であるリヒャード自身、父国王からアンナがガルボーイ王国の第一王女であり王位継承権を持つ少女であるなどと、正式に告げられているわけではない。
リヒャードは弟バルドゥールの恋する青少年ながらの潔癖さと不安、同時に貪欲な性への渇望といった煩悶が手に取るようにわかった。だから弟の力になりたいと思った。
しかし悩めるバルドゥールの憂慮を払ったのはコーエンだ。
己と重ねた悩みを抱えたバルドゥールを前にしても。それでもリヒャードはやはり繊細な心の動きには疎く、丁寧に慮って導くことはできない。
リヒャードの出来ることは、ただそこにある、ということ。
国民に臣下、弟や妹が己に向ける憧憬と畏敬に相応しく振る舞うということ。それが王太子たるリヒャードの歯車としての役割。
それでいい。
リヒャードは己の役割に納得しているし、出来もせぬコーエンの真似をしようとは思わない。
リヒャードはコーエンほど器用ではないが、コーエンほど繊細でもない。図太さなら自信がある。
それはリヒャードがバチルダと共に過ごすうちに、バチルダの存在に支えられ、時にはバチルダを支え励まし。そうして自信を培ってきたからこそ。
(ああ……。バチルダに会いたい)
気が付くと空はすっかり薄暗く、てっぺんから垂れ込めるような深く昏い紫紺色が茜色の地平線に降りている。一番星の白い点が西の空にぽつんと記され、その宵の明星は間もなく視界から消え失せるだろう。
リヒャードは窓の前に立ち、しばし逡巡する。
バチルダは今、酷い悪阻の最中にあるという。おそらくリヒャードの訪れはバチルダの負担になる。
加えてリヒャードがこれからバチルダと娘の住まう離宮に向かうとなると、リヒャードを護衛する騎士がリヒャードに付き従うという任につかなくてはならない。
リヒャードが王宮に留まるのなら、護衛騎士は通常通り。超過勤務もない。
身重な妻の夫として。王太子として。
正しく振る舞うのならば、リヒャードは王宮に留まるべきだ。
リヒャードは固く目を瞑ると身を翻した。
スタンドに掛けておいた上掛けをさっと羽織る。
襟元を金細工に大粒のサファイアを埋め込んだブローチで留め、白い絹の手袋を外して、リヒャードが乗馬用に愛用している炭黒色のヌバックのグローブを嵌める。
「蒼の離宮に向かう」
リヒャードは一言告げ、厩舎へと足早に進んだ。




