跋文 ある奴隷騎士の誓約
「恋とは厄介なものだな」
暖炉の薪を火搔き棒でつつき、リヒャード殿下は呟いた。
燭台の蝋燭を消して回り、彼は隣に繋がった寝室へ、私は部屋を辞そうかとしたときだった。柱時計の針は深夜を示し、窓をたたく吹雪はますます強く、激しくなっていた。
「薪の火は長く燃える」
リヒャード殿下が真っ赤に燃える熾火を転がす。
「今すぐに消火せんと炉内に水をかければ、大火傷を負うだろう」
室内の明かりがほとんど消え去った中、リヒャード殿下の背中はひどく小さく見えた。年相応の少年そのものだった。初めての恋に悩む、繊細な一人の少年だった。
「バチルダ皇女殿下を信じていらっしゃるのではないのですか」
リヒャード殿下の口ぶりを思い返して言った。彼は「魔女だとは思わない」と強く断言していた。
「ああ。バチルダが魔女だとは思わん。彼女が企みを為したとは、考えていない。だが、帝国の思惑が完全にないかといえば」
リヒャード殿下は口をつぐんだ。静かに息を吸うと、彼はまた続けた。
「おまえの話を聞き、想像した。おまえがバチルダを害そうなどとすれば、私は冷静でいられるのか、わからないだろうと思った」
熾火の近くに転がる、燃えつきた灰が火掻き棒で取り除かれる。
「そんな感情が起こったことに、驚いた」
「友が恋人を殺す。悲恋を得意とする流行り作家が、好んで書きそうな題材ですね」
勢いよくリヒャード殿下が振り返った。
暖炉の明かり以外にない、暗い室内で、彼の琥珀色の瞳が光った。大きく見開かれていた。
「友と……」
「ええ。友が、恋人を殺す。乙女達の読む悲恋の物語で、そのような話は溢れ返っていますよ。妹はよく、悲恋の小説を読んでは私に勧めてきました。いずれ娶るだろう奥方のために、鍛錬だけでなく、乙女心も解すべきだと」
リヒャード殿下は「そうか」とつぶやいた。
彼が私の言った、友という言葉に反応したことはわかっていた。
頼りなさげな少年の背中に、あなた様は私の生涯の友であると言いかけた。だが妹の泣き顔が頭をよぎった。
「あなた様が妹について、何をお考えなのかを伺いたいのです」
暗闇で表情の見えないリヒャード殿下の、怪訝そうな様子を感じ取り、言葉を付け足した。
「あなた様は恋を知った。では、あの子の恋心については? 叶わぬ恋の結果、あのような行動に出たあの子が、何を思っていたのか」
意地の悪い問いかけだった。
だが今夜を逃しては、二度と尋ねる気にはならないだろう。飲みすぎた酒の後押しということではなく、今夜だけだった。
明日以降はまた、私は寡黙にリヒャード殿下に仕えるのだ。踏み込みすぎ、馴れ馴れしく疎ましい隣人を振る舞うほど、傲慢ではない。臣下であり、友であるからこそ、分別はあった。
リヒャード殿下は両手で顔を覆った。
「彼女の心は、今もわからない。だが、彼女が絶望の淵に立っていたのだろう、とは思うのだ」
彼の声はくぐもっていた。
「己自身の存在、その正しさを証明する拠り所である出自を失う未来が見え。その上、彼女が不安の中、よすがにしようとした私が、彼女の望む形では寄り添わず。おそらく彼女には、私が彼女を厄介払いしたようにでも見えたのだろう。そして――」
不意に言葉を切ったリヒャード殿下は、両手をおろし顔を上げた。
彼の顔は暗闇に溶け、判然としない。瞳には、かすかな光が当たっていた。
「おまえはどう思う?」
問いかけるリヒャード殿下の声は、心もとないように、小さくかすれていた。激しく吹きすさぶ風の音が、窓を隔てて悲鳴をあげていた。
私は答えた。
「わかりません」
妹が何を思い、何のために行動を起こしたのか。
真実は妹にしかわからない。
だが遺された私達は、ここにはいないあの子を偲び、悼み。思いを巡らせるしかないのだ。
愚かな兄妹だった。
そして兄妹揃って、この国の第一王子殿下に心底惚れ込んでいた。
この御方に生涯、忠誠を尽くそうと、出会って間もなく心に決めた。そしてほとんど思考することなく闇雲に、殿下のお言葉に従った。
殿下の駒となれることが、私の誇りであった。私は愚かであった。
そして妹もまた、兄である私に勝るとも劣らず、愚かであった。
妹は、思考を止めた私とは真逆に、愚考を巡らせた故に自滅していった。殿下のご慈悲、心の最も柔らかなところを道連れに。
妹は殿下に、決して消えることのない烙印を刻み込み、殿下のお心の一部と心中した。
我ら兄妹にお見せくださった、悪戯で無邪気な笑顔。
人々はリヒャード殿下の少年らしいお顔はもちろん、聡くお優しいが故の苦悩など、欠片も知りもせず、冷酷非道、血塗れた王太子などと口さがなく陰口を叩いた。
そしてまた私も、愚かな人々同様、リヒャード殿下を激しく憎んだ。
憎しみの消えることはないだろう。また同時に、生涯をかけて、忠誠と友情がこの胸より消えることもない。
今や失われた我が家の紋章。オーディン神の軍馬、八つ脚の神獣スレイプニィールにかけて、誓う。
ゲルプ王国王太子、リヒャード・プリンツ・フォン・ゲルプ=ジツィーリエンの忠実な僕であることを。血盟の友であることを。
彼が王として君臨した後も、変わらず私は、玉座に座る彼をこの目で見ていく。
命尽きるまで。
(第二章 「愚かな兄妹」 了)




