第三話 妹の決意
「それは無理だ」
「無理ではありません。国王陛下もお許しくださって――」
「ならん。我が家が――いや、父が。王家と結びつくことで、これ以上の権力を得てなんとする?」
それまで射貫くような視線を向けてきた妹は、私の問いかけによって、さっと目をそらした。
「そうはおっしゃいますが、リヒャードのやり口は拙速に過ぎます。これでは保守派の反発は免れない。現に、先のクーデターが起きたではありませんか」
まるで己に言い聞かせるように、ゆっくりとかすれた声で、妹は言葉を紡いだ。
腹の前で両の手を握ったと思えば、開き、また握る。指を組み換え、幾度も幾度も。
「爪の痕が残るぞ」
徐々に痛々しいような力加減となり、見かねた私は、妹の絡み合う指を引き離そうと手を伸ばした。触れれば、指先は冷たく、そしてじっとりと汗に濡れていた。
妹は黙って私の為すがまま、手を離す。
「先のクーデターは、必要な犠牲であったとリヒャード殿下は捉えておられる」
「犠牲に、必要もなにもあるもんですか」
一度は私の手でほどかれた指。
妹は腕をぴったりと体の横につけ、拳を握りしめた。
「我が家が親しくしていた方々だって、それにお兄さまのご友人だって幾人も亡くなられたじゃないの。貴族として民を正しく導こうという高潔な志をお持ちの、お優しい方々ばかりだったわ」
「やむを得なかったのだ。リヒャード殿下の目指される世のために」
それまでうつむいていた妹が、顔を上げた。
片側だけ皮肉げに吊り上がる、口の端。
「お兄さまは本当に、リヒャードの犬ね。ご自身ではなんにもお考えにならず、ただリヒャードの言葉に頷き、繰り返すだけ」
妹の嘲りに満ちた挑発は、私にとってはむしろ、賛辞として響いた。むろん、妹にそのつもりがないことはわかっている。
「ああ、そうだ。私はリヒャード殿下の犬となり、駒としてあれることが、何より誇らしい」
妹が目を剥く。
「お兄さまはそれでも、我が家の嫡男なの! 我が一族の一員として、誇りはないの!」
「私の誇りとは、リヒャード殿下のために生きることを許されたことに終始する。生涯をかけて忠誠を誓える主に出会えた、この僥倖。それがすべてだ」
「貴族としての矜持は? 義務は? リヒャードのしようとしていることは、これまでの貴族制を真っ向から否定しようというものよ。
平民の多くが、無知で不信心。理想を抱かず、飢えれば一欠片のパンにすら魂を譲り渡してしまうほど、たやすく欲に負け、とても愚か。哀れな存在なのよ」
領地にて、領主である父が不在時、代官のもと、嘆願にくる民の様子を思い出したのだろう。
妹はくちびるを噛んだ。
『今年は不作でして。
ええ、旦那。
そうですそうです、昨年も。一昨年もでしたなぁ。
どうにもこうにも作物が育たねぇんで。
家族が食う分も採れねぇんで。
その上、税を納めろだなんて、村が干上がっちまう。
だから、ね。
お坊っちゃまにお嬢様。お代官様。
今年もお目溢しくだせぇ。
ああ、そうそう。
あの水車小屋もガタがきちまっていけねぇや。
もっと人を寄こしてくださらなきゃあ。
最近の若者は働かねぇから。昔の男衆は一人で二倍、三倍は働いたもんだけども。
うんうん、だから人員も時間ももっとくださらなきゃあ。
奴等の世話代も上乗せしてくだせぇ』
あれやこれやと理由をつけて、納税の軽減や延期を訴え、改築の援助を申し出た村の代表が、私服を肥やし、遊蕩にふけっていたことも記憶に新しい。
代表の訴えを裏打ちするように見えた、視察に赴く度、貧困に苦しんでいる様子の村人たち。
彼等によりよい生活を、と代表の願いを聞き入れてきた。
だが実態は。
そんな例はいくらでもある。
監査をすり抜け、働かずに贅を蓄え、己より立場の弱い者を虐げようとする者達。
不正を犯す者と、それを見抜き正す我等との果てなき戦い。
「慈悲を与えても、どこまでも強欲に求め続ける。足りるということを知らず、感謝を知らず。要求は増し続け、信念ではなく怠惰と贅沢を選ぶ。
わたし達貴族が必要な豊かさの限度を決め、施し、導いてやらねば、やがて自滅してしまう!」
父が我ら兄妹に繰り返し説いてきた言葉を、妹がなぞっていく。
自らの思考を放棄し、リヒャード殿下のお言葉を繰り返すだけであると、私を詰りながら。
興奮で真っ赤に染まった目や鼻、頬。
だがしかし、心のどこかに迷いがあるような、苦しそうな顔つきで、妹は叫ぶ。
「リヒャードが歩もうとしている道は、この国を破滅へと追いやる、悪魔の道よ! リヒャードは悪魔に誑かされているのかもしれないわ! お兄さまのなさりようは、リヒャードに暗愚に阿っているだけ。主を正すのが、わたし達臣下の役目。そして忠義ではないの」
「違う。それは忠義ではない」
「どうして! 王家を支えているのは、わたし達貴族よ!」
髪を振り乱し、妹は私の胸を拳で叩いた。
「そうだ。我等貴族は王室を支えながらも、発言のみ許される。議会での決定権がない。国王陛下お一人があらゆる決定権を持つことの危うさを、リヒャード殿下は嘆かれている。貴族制を否定するものではない」
現国王陛下はそれがため、たやすく甘言に流される。
そうして陛下を囲む佞臣がこの国をいいように操る。
庶民院の決議どころか、貴族院の決議ですら、なんら関与することがない。
陛下のお側で知識人たらんとするのは、私利私欲の者ばかり。
我が父を始めとして。
「そしてまた、私達貴族を支えているのは、民だ。
おまえの言う『無知で不信心』も、教育の行き届かぬがゆえ。彼等にも彼等の思想、主張がある。立場を違えて、意見を出し合う場を設けることができれば、新たな策も出よう。
リヒャード殿下が目指すのは、この国の破滅ではなく、その逆」
リヒャード殿下の目には、この国の将来が映っている。
今は水面下で静かにしている思想家たち。
絶対君主として君臨する国王陛下、王室のありように反発を抱く新旧それぞれの貴族。
知識を得た平民出自の富裕層。
独自で学び、政治体制に疑問を抱く、優秀な頭脳を持ち、指導力のある者たち。
そこから都合よく限定された情報に思想を広められた、貧困層出自の危うい者たち。
このまま議会を軽視し続けた先に待ち構えるものは、それこそ破滅だろうと。
「我等貴族だけでなく、人民すべてのために、リヒャード殿下は立ち上がろうとなさっている」
「違うわ。リヒャードは民のために立ち上がったんじゃない。ただの劣等感。そうよ。天才と名高い、一つ年下の弟王子、コーエン第二王子殿下より、兄である自分が優秀だと見せつけたいがばっかりに。正攻法では敵わないと奇抜な策に打って出た――」
「それ以上は、たとえ血を分けた妹だとしても許さん」
大きく目を見開くと、妹はそのまま私の胸に縋って崩れ落ちた。
「わかっているわ……! リヒャードが、ええ、そうよ……、成し遂げようとしていること。わかってる、わかっているのよ。今は多くの人々が反発しても、理解を得られなくても。お兄さまにわたし、二人ともがリヒャードの掲げようとする理想の深くを真実、理解できずとも。それでも、きっと後世に語り継がれるに違いない偉業だって。わかってる。だって」
頬には涙でへばりついた髪。
充血した双眸は涙に濡れていたものの、ギラギラと力強く私を睨めあげた。
「リヒャードが自身を判ずるより、ずっとわたしの方が。お兄さまとわたし。わたし達二人が、どれほどリヒャードを信じていることか! リヒャードほど王にふさわしい方は他にいないと。そうでしょう? お兄さま」
そう言って、不敵に笑う妹の姿に、私は安堵したのだ。
ああ、妹は叶わぬ恋に、ようやく結末を迎えさせたのだと。リヒャード殿下のご慈悲を受け入れる決意を固めたのだと。
我が家にたとえ粛清の手が伸びても、何があろうと約束を違えることなく、妹を守ってくださるグリューンドルフ公爵の庇護下に入ること。
今は五つとまだ幼い、グリューンドルフ公が嫡男、フルトブラント殿の奥方となることを。
「むろんだ」
妹の問いかけに、私は力強く頷いた。
これで妹はいずれ、立派に成人し、グリューンドルフ公爵となったフルトブラント殿とともに、私の主になるのだな、と思った。
グリューンドルフ公爵領騎士団に属する、一介の騎士となるであろう私の主夫妻に。
なにやらおかしなことだが、しかし不思議と胸が温かくなるようだなどと。そんな浮かれ切ったことを考えていた。
確かに妹はこのとき、決意したのだ。
私の想像する決意とは、まったく異なる決意を、妹は胸に抱いた。
私だけではない。
妹の決意がどのような思考を辿り、ついには定まったか。
リヒャード殿下ですら、予期できなかった。殿下とともにご計画を進められていた、グリューンドルフ公爵も、おそらく。
しかし、妹の決意を予期していた人物が、ただ一人だけいた。