第九話 祝福
風が吹くたびに木々が揺れ、青く香る。絶え間ない虫の鳴き声とせせらぎの涼やかな音色は、苦々しい思いをそそいでくれる。
「では今度は、贄の疑問に答えてもらおう」
「………ああ」
うつむき、こちらと視線を合わせぬリヒャードに内心ため息をつくも、意識して強い声色を整える。
「第二王子殿を王太子にさせるというのは、リヒャードの得心のためだけに過ぎぬのではないのか?」
「なに?」
それまで打ちひしがれていたような、しょぼくれた様子とうってかわり、強い力を目にみなぎらせ、睨み返してくる。生命力を感じさせる琥珀色の瞳に、にんまりと笑い返した。
「よくよく考えてみよ。第一王子であるリヒャードを差し置いて、第二王子殿を立太子させるなど、世の乱れとなるのでは?」
「私に瑕疵があればよい」
「故意に生じさせるとな?」
「ああ」
「そのために起こる争いには目をつむるのか?」
「そうならぬよう、策を立てる」
「どうやって? おぬしを擁護する派閥の貴族どもが黙っているとでも? また隷属させたその騎士はどうする? 彼を国から放つとすれば、死する他ないが」
あの者の隷従の首輪に、ルーン文字にてその呪いを刻んだのは、わらわだ。
彼の命を縛るはリヒャード王太子、並びにリヒャード国王。それ以外の主は想定されておらず、他の者の手に渡れば、速やかにその命は損なわれる。
聖人の呼称で想像される仕事は、祝福だろう。
だが実際は、祝福も呪術も区別されることなく、贄の身として、オーディン神の名のもと、粛々と命に恭順する。
「コーエンの能力が私より勝っていることを示せば、納得するだろう。能のある者こそが王たるべきだ。
父上も、そのように叔父上に王位を譲っておられれば、苦労はなされなかった。それ以上に周囲の者達こそ、叔父上の即位を願っていただろう」
現ゲルプ王国国王の手腕については、確かに帝国においても評価は低い。
そもそも、リヒャードが先ほど告白した、ご令嬢の凶行から繫がる保守派貴族の粛清など、本来国王が先陣をきるべき事案だ。未成年である王太子にその全権限を渡すなど、常軌を逸している。
だがそれ故に、立法君主制への風向きは、より強まったと言えよう。
リヒャードは後ろに控える護衛騎士に視線をやった。
「彼は私がそのまま引き受ける」
総じて考えの足らない、あまりに青臭く独りよがりな言葉に、今度こそ抑えきれずため息を漏らした。
「おぬしは思慮深いと思えば、突然頑是なき幼子のようなことを言うな」
「だからこそ、私より資質のあるコーエンが立太子されればよい」
すねたように口を尖らせるリヒャードの様が愛らしく、いけないと思いつつも笑い声がこぼれ落ちる。
リヒャードはわらわの哄笑に唇をかんだ。
「資質とな。リヒャードが長兄であることこそ、何より代えがたい、王太子としての資質だと思わぬか?」
「それはっ…!」
リヒャードは顔を歪め、反論しようと口を開くも、すぐに閉じた。
「それは、自身の努力で得た能力ではない、と?」
はっと目を見開いたリヒャードは、すぐに眉根を寄せると悔しそうにこちらを睨んでくる。
「そうだ」
第二王子殿の聖人候補となりうる能力もまた、努力で得たものではないのだが、そのあたりに考えが及ばないらしい。というよりも、リヒャードが第二王子殿の能力について把握できていないだけなのだろう。
これまで第二王子殿より知らされていなかったようだ。双子の第一王女殿は把握している様子であったが。
第二王子殿はおそらく、オーディン神の『導きの選択肢』が見える能を持つ。
彼自身の頭で考え選択しているというより、その能によって眼前に示された選択肢を、その場その場で蝙蝠のように飛び回っているだけだ。
王太子としての資質など、よっぽどリヒャードが優れているのだが、そう言ったところで、おそらくリヒャードは納得しまい。
「リヒャードが王太子教育に励み、己を律し、高みを目指すのは、なんのためだ?」
するとリヒャードはきょとんと目を丸くした。その愛らしい様が、少年らしい無垢で清らかな魂を余すところなく現している。
「王太子であるのだから、これは義務だ。優れた統治者となるべく、学び続けねばならない」
「そうじゃ。しかし優れた統治者となるのは、なぜだ? なぜそれを必要とする?」
言葉につまるリヒャードに、原点に還るよう促す。
「わらわは贄でしかなく、歯車にはなれぬ。この身はオーディン神に捧げられ、民には捧げられぬ。ゆえに、わらわはリヒャードが羨ましい。おぬしは民のために、歯車となることができる」
リヒャードはゆっくりと目を大きく見開いていき、ぽつりと呟いた。
「民のため、か」
「そうじゃ」
リヒャードはこちらをじっと見つめ、わらわの言葉を待ち受けている。その期待に応えようと、口を開いた。
「第二王子殿を立太子させたいとおぬしは言う。それはリヒャードが満足したいだけじゃ。
自身より優れた者こそが王太子であれなど。おぬしのその傲慢な思想こそが国を乱すというのに。
王族とは、国が良く回り、民が良く暮らすための歯車に過ぎぬ。歯車が自己を主張するでない。
国がリヒャードを王太子であれと望むなら、素直に受け入れよ」
驚愕に目を見開くリヒャードは、徐々にその衝撃をおさめ、わらわの言葉を思考の中へと行き渡らせていった。
「そうか…。私は奢っていたのだな」
「うむ。わらわにはそう見えた。しかし」
噛みしめるように頷くリヒャードの姿があまりに愛らしく、思わず口にしてしまった。
それは決して想いをのせて口にしてはならないと、聖人の掟で禁じられているもの。
女系皇族が生まれながらに与えられた聖人の力。それはかつて皇族がオーディン神と結んだ契約。
女系皇族であるが故の能にしかすぎず、人格など一切の考慮がない。今は眠りについているオーディン神の采配ですらない。
ゆえに掟を破れば、たやすく奪われる。
「リヒャードのその生真面目なところ、融通の利かなさ、思い込みの激しさもまた、愛しく思うぞ。それは誠実で真摯であるがゆえ」
わらわはゲルプ王国への献上品であるが、オーディン神の使徒であった。
「リヒャードはよい男じゃ」
頬に熱が集まる。
こちらを凝視して離れないリヒャードの瞳にもまた、熱が灯されたのを見て取った。
しかしもはや、わらわにはその瞳の奥底に渦巻く感情は見えなくなっていた。
そう、もはやわらわには、何も見えない。
聖女としての能力は失われた。オーディン神からの祝福は消え、それはリヒャードによる祝福がこの身にもたらされた証。
とめどなく溢れる歓喜と感謝と、それから恋慕。
聖女としての最後の祝福。
贄として身を捧げてきた聖女が、その任を解かれたとき、その恋い慕う相手へ。オーディン神から罪を赦され、幸福を約束される。
聖女の定めた相手への祝福を。
幾羽もの鳥がいっせいに飛び立ち、騒々しい羽音と、水面をかすめて飛び散る滴の激しさ。
鬱蒼とした木々の間から漏れる陽の光が霧靄の間を走り、光の筋に照らされた、苔の鮮やかな色に、水滴のきらめき。
鳥たちの体から抜け落ち、空を舞う白い羽根はくるりくるりと。
鏡のようにすべてをうつしだしていた水面は揺れ、さざめきたつ。
わらわは思い切り口を大きく開き、声をあげて笑った。