第八話 聖人
「ふっ……ふふふ! ふっはは! ははははは!」
「……なにがおかしい」
「い、いや。すまないな……! しかし、はっはは! これは愉快!」
涙のにじむ目尻をぬぐうと、憎悪を宿らせた剣呑な眼差しに出会った。
「すまない。おぬしを軽んじるつもりはなかった。じゃが、わらわはおぬしの真っ直ぐで柔らかな心根を傷つけたな」
「……かまわん」
「ではリヒャードを意図せず傷つけたわらわは、皇女並びに王太子妃失格であるか?」
リヒャードは息を呑むも、ぷいと視線をそらせた。
「それは話が違う」
「そうか? わらわは同じに思うがな。まぁ、リヒャードが違うと言うならば、違うのだろう」
不貞腐れたような様子に、常には見せない年相応の少年の横顔が覗く。その刹那の詩的な麗しさに、少しばかり良心が傷んだ。
リヒャードは、第二王子殿が人心掌握に長けていると言った。しかし彼のはそれではない。
「わらわは贄にはなれども歯車にはなれぬ。初めてリヒャードと顔を合わせた日に申した。おぬしが覚えておるかは知らぬが」
「覚えている」
たった今、他人に心を明け渡して傷をつけられたばかりだというのに、愚直で純真なリヒャードはわらわを気遣うようにこちらに労りの眼差しをくれる。
かのご令嬢は気の毒なことだ。
リヒャードがこれほどまで真っ直ぐに、不器用ながら他者に寄り添おうという気質であると、それを見出すのに、最後の最後で諦めてしまったのだから。
このゲルプ王国において、リヒャードのその温かく優しい心根を知るのは、おそらくリヒャードの弟妹以外においては、そのご令嬢しかいなかっただろうに。
「そうか。ならば贄の疑問を聞き届けてくれるか」
「問われれば答えよう。しかし私にも疑問がある」
「なんじゃ?」
「贄とは、我が国が帝国にとってその程度の価値しかないということなのか」
「おや。リヒャードはそれほど卑屈だったか?」
「あなたの言う贄の示すところが、私にはわからぬ」
眉根を寄せ、沈痛に耐える青白い顔は、見ているこちらの方に罪悪感を抱かせるには十分なほどの痛ましさがある。
いくばくかのためらいすら覚えてしまう。
「おぬしが悲観するようなことは、何もないのじゃがな」
肩をすくませてみるも、リヒャードの請うような眼差しは変わらない。
「我ら女系皇族は、生まれながらに主神オーディンに捧げられる贄の身。ゆえにこの身は民に捧げられず、帝国の歯車とはなりえない。ただそれだけのこと」
「帝国の女系皇族が聖人と称されることは知っているが……」
「形骸化された位階だと考えていたか?」
気まずげに視線をそらすリヒャードに、イタズラ心がわき出てくる。
「まぁ、リヒャードの身近な者は、聖人候補でありながらも王族としてのみ扱われているのじゃから、贄としてのあり様がわからずとも仕方があるまい」
ことさら口の端をつり上げて見せると、リヒャードは目を剝いた。
「聖人候補? 私の身近な者で、かつ王族だと?」
「心当たりはあるだろう」
からかうように、目を細めて見せた。するとリヒャードは息を呑む。
「そ、れは……」
「なに、聖人としての能力があるというだけのこと。王族でありたければ、ここゲルプ王国ではそれでよいのではないか?」
帝国では許されぬが。
「ならば」
リヒャードはぐっと強く口を引き結ぶ。
「なおのこと、コーエンが王太子にふさわしい」