chapter-7
使い古した単語帳を棚に戻し、机の電気を消して壁際のベッドに身を投げ込む。白い枕に後頭部を沈み込ませながら、思い出すのは数時間前の怯えと、ランナーズハイに似た高揚感だ。足がステージの感覚を覚えている。手には、まだぬるく重い汗が残っている。喉は…。
「あー…。」
あの時とは違って、か細く芯のない声。それは暗く静かな部屋にも響くことなく、ただわたしに咳をさせるだけであった。
「ぐふっ…ぐっ…。」
うつ伏せの状態で咳をしたことで喉を痛め、そのまま頭を壁にぶつけてしまう。さっきの声とは違い、その音は静寂な空間を破壊して響いた。
「…うるさいんだけど。」
薄い壁の向こうから聞こえる、針のような声。
「ご、ごめんなさい…。起こしちゃったかな…?」
「別に。」
「そっか…よかった。」
再び戻る、無音な世界。目を閉じて暫く頭の中を空にしてみるが、身体が布団へ上手く溶け込まない感覚がする。今日はなんだか、眠れない。
「あの、さ…。」
深く考えないまま、わたしは冷気を帯びた壁に小さな声で語りかけた。隙間風みたいに、小さな声で。
「…なに。」
はっきりと聞こえる、アンナさんの針のような鋭い…でも、少し穏やかな声。壁で隔てられていてと、隣に居ることが実感出来る、優しい声だ。その声に緊張をほぐされて。
「慣れないことが、思いの外上手くできて…それをもう少し続けて欲しいって言われたら…どうすればいいのかな。」
柄にもなく、おかしな質問をしてしまった。それも、上手く距離を掴めていない、会って数日のホストファミリーに対して。
「…知らない。私なら、面倒なことはしない。出来るからって、やらなきゃいけないわけではないじゃない。でも…。」
投げやり気味でありながらも、芯のある声で答えるアンナさん。その後数秒間、湿っぽい沈黙が続く。そして…。
「さっきの貴女、気持ち悪い顔してたわよ。どんな愉快なパーティーがあったのか知らないけれど、その変顔朝までには戻しておいてくれない?」
壁の向こうから、布団を一気に被る音が響いた。