chapter-3
日本よりも硬い水を顔で浴びる。顔を上げると、斜めにずれた丸渕の眼鏡が洗面台の照明を反射していた。家から持ってきたブラシで歯を磨いて、マリーおばさんに借りたマグカップで口をゆすぐ。ミントの味が少し残った口内には、一昨日の朝食時に出来た噛み傷が痛む。函館からロンドン、実に九千キロ近く故郷から離れたこの地で迎える朝だが、何かが劇的に変わるわけではなかった。今まで通り頭は重いし、視界はぼやけているし、朝日は眩しい。そんな、いつも通りの朝だ。一つ違うとすれば…。
「日本人は時間に厳しいと聞いたけれど、朝の支度は随分ゆっくりなのね。どうでもいいけど、早く退けてくれない?」
ホストファミリーのアンナさんの存在であった。わたしよりもいくつか歳下の、絵の具で描いたように鮮やかな赤毛がよく似合う、わたしよりも大人びた少女だ。声はわたしより少し高いが、わたしよりも落ち着いている。その落ち着いた針のような声で、彼女は昨晩からこうしてわたしの心臓をちくちくと刺してくるのであった。
「ご、ごめんなさい…。」
「っ…。そんなことで一々謝らないでよ、調子が狂うわ。ただでさえ、貴女の寝相が悪いせいで寝不足なのよ。」
わたしの謝罪を跳ね除け、彼女はあからさまにため息をばら撒く。わたしが借りている部屋は彼女の部屋の隣で、ベッドの配置はお互い壁を挟んだ形になっている。故に、少しの物音や声でも、静寂な夜だと響いてしまうのだ。昨晩はわたしがベッドに足をぶつけて音を立ててしまい、冷たい木の壁の向こうからさらに冷え切った舌打ちが飛んで来た。その時のわたしは、半分泣いていたかもしれない。
朝の支度を済ませると、リビングから素敵な匂いが漂ってきた。
「あら日陰おはよう。今日は西の大学に行くんだったわね?まあまあ、朝ご飯を作ったから食べて行ってちょうだい。この国は朝ご飯だけは美味しいのよ。」
マリーおばさんは早朝とは思えない笑顔で、食卓にフィッシュアンドチップスとコーンスープ、そして紅茶を並べた。
「叔母さん、またコーンスープがあるのに紅茶?」
さっきと同じ針のような声で、アンナさんはマリーおばさんに苦言を呈した。するとマリーおばさんは相変わらずハキハキとした声で…。
「これが英国スタイルなのよ。この良さがわからないなら、アンナも英国に留学してみたらどうかしら。それに、日本でも味噌汁とお茶が一緒に出ると聞いたわ。」
その声と笑顔にそぐわないキレキレの皮肉を言い、わたしの故郷も引き合いに出してアンナさんを黙らせた。なんと云うか、頭の回転が早い人だ。
朝食を済ませると、わたしは留学先の大学から送られてきたアカデミックガウンを着て、カバンを肩にかけた。留学先の大学とは、さっきマリーおばさんが言っていた"西の大学"のことである。正式名称はロンドンセスキペダレ大学だ。セスキペダレ大学では今どき珍しく、全生徒は指定されたアカデミックガウンを着る決まりになっている。交換留学生のわたしもそれは例外ではなく、予め自宅にガウンが郵送されていたのであった。
短く切り揃えた後ろ髪を手で整えていると、支度を終えたアンナさんが無言でドアへ向かった。
「あっ、わたしも…」
一緒に行く、と言い切る前に、わたしは声を萎ませてしまった。恐らくわたしは彼女に嫌われている。たとえ途中まででも、嫌いな人と一緒に歩くのは彼女にとって本意ではないだろう。そう思ったからだ。
「何してるの、いつまでドアを開けさせる気?ロンドンにはネズミが居るのよ。早く来てくれない?」
そんなわたしの落胆を、針のような声が蹴散らした。
「ご、ごめんなさい!」
「だから謝らないでってば。」
わたしは彼女が、わからない。