chapter-1
早朝の函館に港から昨晩の潮が薫る。雀たちの世間話が雲ひとつない晴天に響く。時と場所同じくして、子ども丸々一人分ぐらい重い荷物を転がし、春風に背中を押されてわたしは歩みを進める。わたしの名は岩戸日陰。これから海と空を渡り、遠い遠い国へ向かう岩戸日陰である。あの気も体も弱かった女の子は成長し、今新天地に旅立とうとしている。背中には針金が通り、足は碇の如く地面を掴んでいる。今のわたしに孤独は怖くない。隣に幼い頃からの親友が立っているからである。だからもう、行き先を見失ったりしない。わたしの歩く先が…わたしの、歩く先が…。歩く先が…。
「…様!…お客様!」
乗務員の声に目を覚まし、まだ光に慣れない瞼をどうにか開くと、誰も居ない機内があった。
「わたし寝て…。ご、ごめんなさい…!本当に申し訳ありません!」
顔を真っ赤にしつつ荷物を慌てて纏め、すれ違う人全員に謝りながら飛行機の出口に急いだ。不安で昨夜は眠れなかったせいで、座席に着くや否や爆睡してしまっていたらしい。わたしは函館から札幌までの電車でも、札幌から千歳までのバスでさえも危うく寝過しかけていた。お陰で寝不足は解消されたのだが、良しと出来るほど私は前向きではない。…ところで、変な夢を見た。変と言っても、ほとんどが今朝自宅を出た時の光景と同じだったのだが…少し変だった。第一に、わたしが変に自信満々なのだ。確かにわたしは病院の先生や家族のお陰で病弱ではなくなったが、気は相変わらず小さいままだし、人が怖いのに寂しがりと云う困った性格なのもそのままだ。成長どころか、ほとんど何も変わっていない。変わったといえば、髪を短く切りそろえたぐらいである。第二に、夢の中のわたしの隣にはあの子…名前は忘れてしまったが、幼少期に仲の良かった女の子が居た。夢だからと言ってしまえばそれまでだが、妙に再現度が高く、後味も微妙なのだ。
何はともあれ、これからしばらくわたしは、故郷から遠く離れたこの都市…ロンドンで新しい生活をしなければならない。大学の先生に勧められた留学だが、結果的に決めたのはわたしだ。後ろを向いてばかりは居られない。ヒースロー空港を曇天が覆う。突き刺すような冷たい北風の残り屑に行く手を阻まれつつも、わたしは葉書に記されたホストファミリーの待つ家へとぼとぼと歩き始めた。