『攪拌する自己認識の思想』
『攪拌する自己認識の思想』
㈠
小説も、人間も、一つの物理現象だと規定すると、どれだけこの二つを、自己認識できているかという問題が、浮上する。自分は自分である。これは一理あるが、自分がどの様な自分か、という問題は、大層難しい問題である、つまり、自分は、自分が思っている様な自分ではないという命題が出来上がる。
㈡
小説に置いても、これはこの様な小説です、という自己解釈がある。しかし、読解者のほとんどが、これはこの様に読まれる、と規定すると、どちらが正しいのか分からなくなる。凡そ、人間にも当てはまるが、A=A、ではなく、A=Bである、といった命題が浮上し、物事は攪拌されるのである。
㈢
攪拌する自己認識の思想において、どれだけ自己が自己を規定しようと、本来の自己との差異は、生まれるものである。小説においても、然りである。こういう思想は、物事を進める時に、認識しているとしていないで、随分効果が変容するものである。攪拌し続けて、物事に臨みたいものである。