雨のぬくもり
僕がいなくなれば、まつは幸せになれるんじゃないの?
そんな竹仁の疑問は形にならなかった。答えを聞くのがあまりにも怖い。
そう、竹仁は怖かった。まつが幸せになれないことが。まつは自分を幸せや不幸せという尺度で測ったりはしないだろうけれど、もしまつが普通に戻れる道があるのなら、喜んで自分の命も心も魂も差し出せる。それくらい竹仁にとってまつは全てなのだ。
そんな竹仁を勇貴は怒鳴る。
「やってみないとわからないとかいうけどな! こんなのやってみなくたっていいんだよ!!」
勇貴も雨でぐしょぐしょに濡れていた。
呆然とする竹仁を見て、勇貴はとても悔しかった。
きっと、勇貴の言葉は竹仁の心に届いていないし、染みていない。竹仁だけじゃない。勇貴の声は、言葉は、兄弟に届かない。百合音にもまつにも梅衣にも誰にも。だって勇貴は普通だから。普通であるために、彼らの異常性を理解できない。いくら寄り添って、理解しようとしたって、理解したつもりになったって、それは机上の空論、砂上の楼閣だ。
そのことが悔しくて悔しくて仕方ない。勇貴は咲希のように懐が深くない。だから、受け入れることができないのだ。自分が「できない」ということを突きつけられるほどに、自分の無力に苛まれる。
こんな些細な人々の無力が折り重なって、竹仁をこんな風に追いやった。自分はその大きな一人だ、と勇貴は自覚していた。
同じ部屋にいたのに、竹仁がこんなに追い込まれていることに気づけなかった。竹仁を追い込んだのは確実に自分の言葉だ。あれは竹仁が悪かった。でも、あの後、一緒にいたんだから、話をすればよかった。言い過ぎた、殴ってごめん、くらい言えたはずだ。何か思い詰めているのか、聞くことだって。一番気づける位置にいたのに、こんなことになるまで、何もしなかった。そんな自分が憎い。
「竹仁がいたらまつが幸せになれない? そんなの知らないよ!! 竹仁が幸せになっちゃいけない理由になんてならないよ!! なんで死のうとするんだよおおおお!!」
えぐえぐ、と勇貴は竹仁に泣きついた。竹仁を思い切り抱きしめた。あの文面からするに、まつ以外の人間に抱きしめられたって、竹仁は微塵も嬉しくないのだろうけれど。
せめて、竹仁がここから逃げてしまわないように。竹仁の心を傷つけた償いをしなければならない、と勇貴は竹仁を抱きすくめた。嗚咽しか零れてこない。
竹仁は呆然としていた。勇貴の叫びは嗚咽まみれで、よく耳を澄まさないと、何を言っているかわからない。けれど、それを聞いているわけではなかった。頭の中に、情報が入ってこない。
追い詰められすぎて、竹仁の心がパンクしていたのかもしれない。それでも、ただ一つ「死ぬな」という勇貴の声だけが頭の中で何度も何度も反芻された。
死んでも、まつが幸せになる保証なんて、どこにもない。死んだら、竹仁はまつが幸せになったかどうかを知ることができない。仮に幸せになったとして、まつの幸せの中に自分がいないことを知って、悲しくなるだけだろう。
「なんで……」
激しい雨音の中で、竹仁のその声を聞き取れたのは勇貴だけだった。
「なんで、僕に、そんなこと、教えるの。気づかなければよかった。そんなの、ずっとぐるぐる地獄だ。僕のせいでまつが幸せになれないかもしれない人生を、それでも僕に見届けろっていうの? ひどいよ、ひどい」
勇貴は竹仁から壊れたように零れる言葉の奔流に驚いた。竹仁の顔を見て、勇貴は少し驚いてから、そっと抱きしめ直す。
今度は赤子をあやすように、優しく。
「お前がまつを幸せにすればいいだろ、馬鹿」
どうしてそんな簡単なことがわからないんだよ馬鹿、と言葉が降ってきた。暖かい雨と共に。
「そんな簡単なことが、できればよかった」
ああ、不思議な感覚だ。
「でも、妹にこんな感情抱いて、その妹を幸せにできると思う? 勇貴兄」
「馬鹿だなあ、竹仁。恋愛感情だけが幸せの全てじゃないだろ。恋愛感情だけが、お前のまつを想う全てじゃないだろ。親愛だって、兄弟愛だってあるはずだ。恋愛感情が強いだけで」
悔しいなあ。
雨ってこんなに、あったかかったっけ。
竹仁は勇貴が学校でモテる理由がわかった気がした。
まつのこと以外を理解しようとするなんて、初めてだった。
「あっ、おいきみたち! そこで何してる!?」
大人がやってきて、勇貴がそちらに振り向く。竹仁は勇貴の腕をぎゅ、と握った。そのことに少し、勇貴は嬉しくなる。
竹仁が少し、自分のことを頼ってくれたような気がしたのだ。そんなことはあり得ないのだけれど。
「すみません、竹仁が見つかりました」
「雨野さんとこの勇貴くんかい!? 竹仁くんも、びしょ濡れじゃないか!」
「ささ、早く帰んないと」
「天気が荒れてるからねえ」
大人たちの言葉に、勇貴は微笑みを返す。
「でも、恵みの雨ですよ」
今日が雨で、よかった。




