水樹と梅衣
父の死は雨野家に相当な衝撃をもたらした。
けれど、母――早苗はあまり衝撃を受けていなかったようだ。それを咲希は不思議に思った。
「まるで知っていたみたいですね」
そう声をかけてみた咲希の声に早苗が反応する。それから、少し躊躇ってから話した。
「咲希。以前、お父様とともに会いに行った手鞠さんのことは覚えていますか?」
「え? 手鞠さんって言うと、ソカナさんとアカネちゃんですか?」
「そうです。今回は、ソカナくんの話になりますね」
雨野家には分家がいくつもある。雨野逸夜が願ったっ通り、異常性は雨野の家の者にのみ降りかかるようにした。そのため、雨野逸夜の血を引く分家のものにも異常性を持つものが多くいる。そのうちの一つが手鞠家だ。
手鞠家は咲希からすると祖父の代にあたる世代の分家である。ソカナとアカネは異常性を抱えているという話は、咲希も父から聞いていたが、詳細は知らない。アカネが声帯に異常を抱えていて、喋れない、ということしか知らない。
ソカナの異常性とは何だろう、と咲希は早苗の話に耳を傾けた。
「手鞠ソカナくんには特殊な能力があるの。百合音のように。その能力の名は――絶対予知」
「絶対予知?」
早苗は一つうなずいてから、詳細を説明する。
「未来予知の能力ですが、ソカナくん能力は特に特殊です。予知能力は通常、悪い未来を避けるように促すためのものですが、ソカナくんのものは違います。ソカナくんのものは、絶対に変えられない確定した未来を予知するものです」
「変えられない予知……」
それと父の死に何の関係が、と思ってはっとする。
「まさか、父さんが死ぬのを、ソカナさんが予知していたんですか?」
「……ええ」
それを早苗が知っていたのなら、この落ち着きようも説明がつく。振り返ってみれば、死を前にした父もあまり動じた様子はなかったから、父も事前に知っていたのかもしれない。手鞠家とはそこそこに交流があり、特にソカナは梅衣と仲良くしてくれている。どんな場面で聞いていても不思議ではなかった。だが、そんな咲希の予想を早苗の次の言葉は超えた。
「このことは、梅衣が生まれてまもなくしてから、知っていたことです」
「それって」
梅衣が生まれたころ、咲希は九歳だった。その翌年、咲希は父から、一族の当主としての使命と市松模様の羽織を受け継いだ。みんなが言うように、十歳という年で家を背負うというのは、普通から考えたら早すぎる話である。
つまり、あの時咲希に継がせたのは――
「父さんは、死期を悟っていたから……?」
「そういうことです」
早苗は肯定した。それから、早苗も前もって聞いていたということを付け足した。
「あの人は、あんなに早くにあなたを一族を背負わせるつもりはなかった。けれど、そうしなければならなかった。死ぬまでに、あなたに使命について教えようとまだ十歳のあなたにその羽織を渡したのです」
咲希は羽織を握る。父の体温も、匂いも一切もう残っていない、すっかり咲希になじんだ羽織。それを父が羽織っていた姿をかすかに咲希は思い出す。
「父さん……」
そんなに前から、自分の死を知り、向き合っていた父の強さに、咲希はやるせない思いになって、目を瞑った。
「母さん、予知はそれだけでしたか?」
残酷な事実でも、受け入れようとして、咲希は尋ねる。
「梅衣と水樹について、予知がありました」
早苗の言葉に、覚悟はしていたが、僅かに動揺してしまう。恐る恐るどんな予知でしたか、と尋ねる。
「梅衣は、一人ではないこと、水樹には鬼が宿っていること、です」
「一人じゃない? 鬼?」
それ以上は聞いていない、と早苗は首を横に振った。
「これから、あの子達が成長すれば、徐々にわかっていくことでしょう」
それに、梅衣はそういう片鱗を見せているということだ。言葉を最近流暢に喋るようになったらしいのだが……どうも、性格が安定しないらしい。急に泣き出したかと思えば他人を貶し始め、ふっつり黙ったと思うと唐突に笑い出す。一人称も、私、わっち、おい、俺、僕など、一つに安定しない。聞いていても、何人もの人間がそこにいるように感じられるのだという。
いつまでも父の死を引きずっているわけにもいかず、咲希は中学校に馴染むよう努力した。慣れない制服を着て、けれど羽織だけは手放さずに、いつも身に着けていた。といっても、さすがに授業中は憚ったが。
元々の性格もあり、新しいクラスメイトも咲希と親しく接してくれた。
小学校のほうは宣言通り、勇貴が頑張ってくれている。竹仁はうまく取り繕い、イケメン、とクラスの女子にちやほやされる程度にはなった。松子はというと、そのミステリアスな雰囲気と元々の容姿の良さで、寡黙な大和撫子、とまあ、悪いイメージはつかなかったようだ。
水樹に鬼がついているという話も気がかりだったが、それより、梅衣が気になった。兄として接してみることにしたものの、早苗がいっていた通り、性格というか、人格が一つではないように感じられたのだ。
多重人格、なんて言葉は創作やテレビの向こうの話だと思っていた。けれど、実際に接してみると、戸惑いがいっぱいだ。
試しに百合音に梅衣を見てもらったところ、梅衣の中には声がいっぱいあるのだという。男の声、女の声、子供の声、大人の声、老人の声、とにかくたくさんの声が混ざって、同時に言葉を発しているから、考えが聞き取れない、とのことだった。
水樹も見てもらったが、まだ赤ん坊の水樹は自我が確立されておらず、百合音の能力は使えないということだった。
だが、水樹の一歳の誕生日、その詳細が明らかになった。
中学二年生になった咲希は水樹のために林檎をすりおろそうと、知り合いに林檎をもらった。
大した誕生日プレゼントを用意してやれないことが心苦しくて、咲希は中学を卒業したら、懇意にしてくれている和菓子屋に弟子入りして働こうと決めていた。進路の話になったときそう言ったところ、今時は高校くらい出ていないと、などと言われたが、父が死んで、家計が苦しいことを素直に話すと教師は黙った。
和菓子屋にもすでに話は通してあり、咲希くんが働いてくれるなら、と色よい返事をもらってある。
しかし、いいことばかりが続くものではない、ということを一年ぶりに実感する。
「ただいま~」
のんびりした咲希を家族が全員で出迎えた。よくわからないが、なぜか梅衣は机に文字通りかじりついていた。まあ、よくあることである。
「林檎もらってきたぞ。みんなで食べよう」
「え、そんなに?」
小さな段ボール箱を抱えて言う咲希に、百合音は己が目を疑った。咲希が笑って他にも色々もらってきたんだ、と説明する。雨野家の分家には、近くで農業を営んでいる人物もいる。家計が苦しいので、最近は値の張る野菜などを分けてもらえるのは非常に助かる。しかも咲希たちは大家族であるから尚更。
「咲希兄、また肉じゃがはいやだよ?」
からかう竹仁に咲希は苦笑する。
「兄ちゃんだって頑張って料理の品数は増やそうとしているんだぞ? 今日はかれーらいすっていうのを教わってきたからな」
「キタコレ!」
竹仁以上に勇貴が喜んだ。
「水樹には林檎な。って、水樹?」
見ると、水樹の目は爛々と輝く赤になっており、
「ぐあっ」
「水樹!」
「兄ちゃん!」
真っ赤な林檎を持っていた咲希の手に噛み付いた。慌てて百合音と勇貴が二人を引き離す。
「鬼じゃ」
透明な声が、空気を揺らした。それはさっきまで卓袱台にかじりついていた梅衣のものだった。梅衣は真っ直ぐ立ち上がり、水樹を指差し、再び言った。
「鬼じゃ」
梅衣は告げた。水樹はいずれ人を喰らう鬼だ、と。
何も言い返せないまま、平然と部屋を出て行く梅衣を見送った。




