竹仁の抱える妄執
「まつ、大丈夫?」
居間にて、梅衣がまつを横たえたため、百合音がその顔を覗き込む。
まつの顔色は悪かった。ただでさえ真白い肌が、少し青ざめている。よく見たら、脂汗もかいているではないか。百合音はまつが「何も思わない」ということをよく知っている。だから、まつは感情で顔色を失ったり、冷や汗をかいたりしない。つまり、今、まつの顔が青ざめているのも、脂汗が浮かんでいるのも、生理的な現象なのだ。
百合音はぎゅ、と唇を噛んだ。勇貴が怒っている様子だったのにも、納得がいく。まつがこんなになるまで、竹仁が追い込んだのだ。どういう動機か、百合音にはわからない。けれど、それを百合音に悟らせないために、勇貴は百合音を下がらせたのだろう。そのことから、ろくな動機でないことは察せられた。
勇貴は勇貴で、家族思いの優しい子だ。兄弟の中で数少ない普通の子だけれど、咲希とは優しさの方向性が違う。
咲希は寛容、全肯定、他者の善性を信じきった優しさの表し方をする。それはかなり偏りのある優しさだけれど、咲希はそれを上手く扱えているからあまり気にならない。
一方、勇貴は自分の倫理観を持っていて、それからはみ出た行いを叱って正す優しさがある。まあ、今回竹仁に怒鳴っていたように、怒りの感情が先に出ることもあるが。咲希が怒らないところをちゃんと咎める勇貴のそれもまた優しさである。
全部を肯定して受け入れるのと、甘やかすのでは話が違う。ただ、咲希は怒るのがどうも苦手らしい。だから、勇貴がいてよかった、と百合音は思う。咲希だけでは偏りのある育ち方をしてしまいそうだ。
竹仁は全てが無というわけではないのだろう。だから人の真似をして、普通の人の中に溶け込むことができる。普通に溶け込める程度の無じゃない部分があるのなら、言葉のかけ方で竹仁を真っ直ぐに育てていくことができるはずだ。
百合音にはそれができない。竹仁のことが苦手なのもある。その上、竹仁は百合音が竹仁を苦手なことを知った上でわざと嫌になるような振る舞い方をしてくるから、どうにもできないのだ。
「たけぴと、まつぴに乱暴したぴ。ゆうぴが怒るのは当然ぴ!」
どうやら「ぴ」が語尾らしい梅衣がそんなことを言う。乱暴、とぼかされているが、乱暴という言葉自体良いものではないのに、近年は一種の隠語として通じるようになった。「性的暴行」の直接的ではない言い方。
まさかね、と百合音はその考えを捨てようとして、はっとする。
百合音に嫌がらせをする竹仁。まるで百合音に嫌われることを望んでいるみたいだ。「何も思わないはずなのに」? ……合わなかったパズルのピースの正しいものを見つけられた気がした。
百合音の憶測でしかないが、竹仁は「好き」という感情だけは知っているのだ。それは愛ではなく、恋の意味合いの。
ぞぞぞ、と背筋を悪寒が這う。竹仁が恋愛感情を向ける相手なんて、百合音には一人しか思い当たらない。
「まつ……」
「おねえ、さま……」
まつが睫毛を震わせて、うっすらと目を開ける。その奥の深い緑はいつも通り、揺らぐことはない。
何も声は聞こえない。けれど、百合音はぞわりとした。まつが発した「お姉さま」という百合音を呼ぶ言葉。その奥から竹仁の……考えすぎかもしれないが、怨念を感じた気がするのだ。
雨野家は七人兄弟で、そのうち女は三人だ。女兄弟の一番上が百合音、真ん中がまつ、末が梅衣。百合音はまつにとって唯一の姉だ。
もし、竹仁の恋心としての考えが「自分だけがまつの唯一でありたい」というものだったとしたら? 竹仁が「わざと」百合音に突っかかるのが、百合音に嫌われたいからではなく、百合音のことが嫌いだからなら?
血の繋がった兄弟に恋愛感情を抱くなんて、法律で婚姻が禁止される程度にはあり得てはいけないことだ。同性愛以上に忌み嫌われている側面もある。百合音も、人並みに嫌悪感を覚える。竹仁がそうだと思い至ったとき、吐き気を覚えたくらいには。
好きの反対は無関心、と誰かが言った。それはある意味正しくて、ある意味間違っているのだろう。そのどっち付かずな矛盾を内包し、体現しているのが竹仁という異常者だ。
好きじゃないから、誰が何をしようと、徹底的に無関心でいられる。けれど、好きな相手に関わるやつは嫌いなのだ。まつの唯一である百合音が嫌いなのだ。だから、嫌いということを示しているのだ。
これは百合音の妄想である。妄想であるが、ただの妄想で片付けるには恐ろしく、生々しかった。
もし、この妄想が本当なのだとしたら、私は今後、どんな顔して竹仁を見ればいいの?
百合音はただでさえ恐ろしかったものが、更に恐ろしくなるのを感じて、顔色をなくしていく。誰かに肩を突き飛ばされた。
怖い、怖い、痛い、痛い、赤い、赤い……赤? 血?
「百合音!」
母の声にはっと我に返る。遅れて、じくじくと肩が痛んだ。
「百合音、止血を!」
「おかあ、さん?」
「……ハズシタカ」
梅衣のどす黒く低い声が聞こえる。それは声だけで周囲を震撼させる圧倒的存在。
金色の目をぎらぎらとさせたそれはにたり、と笑う。
「ダガ、オンナバカリデクイデガアリソウダ。イマイマシイオニガリモイナイ。クオウクオウ、ヒキキッ」
右手から血を滴らせたそれは、鬼だった。




