過ぎたるは
「お兄さま、こちらにおいででしたか」
抑揚のない声がして、振り向くと、まつが部屋の入り口にぼうっと立っていた。
「まつ……」
竹仁は幽霊のようなその佇まいに、たまらない気持ちになる。
「まつ!」
「おに、さま?」
飛びつくように抱きつかれたまつはそのまま床に押し倒される。なかなかの光景なのだが、竹仁は梅衣がいるのを忘れているかのようにまつにすがった。涙は出ない。それがこんなに苦しいことだとは思わなかった。
まつの名前を呼ぶことしかできない。虚無を抱えた竹仁は、感情を表に出すのが、実は下手くそなだけだった。あたかも感情があるかのように振る舞ってきたから、偽じゃない感情の出し方がてんでわからないのだ。
まつは似て非なる。まつはそもそも感情がないのだ。竹仁のように偽ることがない。仮面を被ることがないそのままのまつで過ごしているため、下手も上手もない。
ただただ、絵面が良くなかった。
「なんか、ものすごい音がしたんだけど大丈夫!? って、何やってんの!?」
「たけぴとがまつぴを押し倒してるだぴ」
梅衣はまた妙な喋り方の人格に替わったらしく、駆けつけた勇貴にそう説明した。
いや、言われなくてもわかるくらい、竹仁がまつを押し倒している構図である。まあ、人格不安定、しかも今、ものすごくふわふわな喋り方の梅衣に勇貴が知りたい「何故」の部分の説明を求めるのは難しいことだろう。
勇貴は学校で女子にモテまくるので、そういう知識は同じ年頃の子どもよりあった。咲希と同じで真面目な性格であるため、誤って過ったことをしないように、という対策だ。
竹仁もまつも勇貴より年下である。しかも兄妹で、双子だ。男が女を押し倒すなんて、なんて不埒な、と勇貴は顔を真っ赤にした。
そう判断した勇貴の行動は早い。すぐさま竹仁を引き剥がしにかかった。竹仁は勇貴の声が聞こえていないようで、まつを放そうとしない。まつは無表情だが、勇貴はその顔色の悪さに焦る。竹仁に怒りが沸いた。
「こら、竹仁、まつを放せ! まつが苦しそうだろ!!」
「……へ」
勇貴の呼び掛けに、途端に竹仁の手から力が抜ける。まつがそのまま床に落ちそうなのを、勇貴は片腕で支えた。こういう女の子を気遣うさりげない仕草が勇貴のモテている理由であるが、本人は知らない。
呆けた様子の竹仁が、ぺたん、と座ったのを見て、勇貴は竹仁から手を放す。けほけほ、と力なく咳き込むまつの背中をさすった。
すると、そこへ梅衣が回って、勇貴にグッドサインを出す。
「背中ぽんぽんやるぴ。ゆうぴはたけぴとをひっぱたけ!」
これが咲希なら、「暴力に訴えるのは良くないよ」というのだが……
ばしん!!
勇貴は容赦がなかった。竹仁の頬が見事に真っ赤に腫れた。勇貴は体育の成績もいいし、力仕事が得意だ。咲希ほど極端に優しくもない。
ほどよい普通さが勇貴の美点と言えるだろう。特に雨野家においては。
「何がどうしてまつに乱暴するんだよ! しかもお前が!!」
「らん、ぼう……?」
「女の子を床に押し倒して、顔色がこんなに青白くなるまで押しつけて、これが乱暴じゃなくて何なのさ! お前は昔から姉ちゃんや俺には意地悪だけど、まつにだけは絶対に優しかったろ!?」
そう、勇貴は気づいていた。梅衣の中の人格ほど、具体的ではないが、竹仁がまつのことを大切にしていることに。
それが、押し倒して、まつだから「怖い思い」というのがないとはいえ、顔色を青ざめさせるまで体を押しつけるなんて、言語道断だ。ただでさえ、まつは体が弱いのに。しかも今日は学校で倒れたばかりだというのに。
そもそも、兄妹なのだから「そういうこと」はしてはいけない。それは、まだ小学校低学年に教えていいのか悩むが。勇貴には竹仁がまつに「そういうこと」をしようとしているように見えた。
「まつはなんでもない風にするし、何も言わないかもしれないけどさ、それはまつが苦しくないのと一緒じゃないよ」
「……まつ……」
「駄目! 竹仁しばらくまつに接近禁止!」
「そうぴそうぴ!」
梅衣が勇貴を囃す。いつもは竹仁に完封される側の勇貴が強気なのを面白がっている節がある。
そこまでになって、他の家族も居間の方からやってくる。夕飯時だったので揃っていたのだ。
「どうしたの、勇貴」
「姉ちゃんと母さんは梅衣とまつを見てて」
「勇貴、竹仁を殴ったのか?」
咲希だけがこちらに寄ってくる。梅衣は怪力な人格なのか、まつを担いで母たちの方へ走っていった。
「そうだよ。竹仁がまつにひどいことしてたから」
「でも、殴って怒鳴りつけるのは良くないぞ」
「近親相姦未遂でも?」
「きんしん……?」
そこからか、と勇貴は頭を抱えた。兄は勇貴と違って鈍感なのだ。そういう言葉に触れる機会なんて、一生なくてもいいのだが、さすがに家長が物知らずなのもいただけないだろう。
「えっとね、竹仁が下心でまつを押し倒してたの」
「下心かどうかなんて、竹仁にしかわからないだろう? それに、まつは妹だぞ?」
「家族なのにそういう感情抱いて、実行しちゃうのを近親相姦っていうの……っていうか、下心がなかったとしても、まつの顔色が青ざめるくらい体に負担のかかることしてたんだよ? さすがにこれは駄目ってちゃんと言わないと」
うわ、と勇貴は嫌なことに気づいた。竹仁はまつに無理矢理やっていたことになる。それは強姦というものに相当するのではないだろうか。
まあ、そこまで咲希に言う必要はない。
伝わりはしたのだろうが、咲希は首を横に振る。
「だとしても、やりすぎだよ、勇貴」
「なんで!?」
「だって竹仁、聞こえてるかわからない顔してる」
「あ」
そう竹仁は、この上なく、呆然として、あんぐり口を開けたまま、微動だにしなくなっていた。




