雨野兄弟
「今代の雨野は、混沌を背負うこととなろう」
そういうお告げが出た。雨野家が祀る小さな小さな祠からは、当主にしか聞こえないお告げが来るのだそう。当主の証は、水色と藍色の市松模様の羽織。これを見ないと祠の神様は声を伝えてくれないのだという。
まだその身の丈には大きい羽織を羽織った咲希が初めて聞いたのが、混沌を知らせるお告げだった。その声は愁いを帯びた女性の声だった。母の声とは違う、涼やかな声。
「父さん、これは……」
先の父は黙っていた。羽織を着ていない彼にはもう、祠の神の声は聞こえないのだ。
「咲希、お前が新しい当主だ。神のお告げを受け止め、一族を、家族を、守っていけ」
その小さな体には重いであろう宿命を咲希が背負わなければならないことを、父は知っていた。だからこそ、咲希に羽織を授けた……というのもあるが。
父は、怖かったのだ。妻と紡いできた自分の子供を、守り切れる自信がなかったのだ。
「弱い私を許してくれ、咲希」
「父さんは弱くなんかありません。今までだって、俺たち家族を守ってきてくれたじゃありませんか」
咲希は優しい。その優しさに甘えてしまいたくなる時もある。実際今だって、咲希の言葉に寄りかかってしまう自分がいる。一家を支えなければならないのに、咲希に宿命を、市松の羽織を渡してしまった。
「咲希、お前は優しい。だから、今後、辛い思いをたくさんしていくこととなるだろう。それでも……折れるなよ、どうか」
「はい」
咲希の青灰色の瞳がまっすぐに刺さって、父は目を合わせていられなかった。
まだ幼い息子には過酷となるであろう道を歩ませ、自分は逃げてしまうのか、と不甲斐なく思ったが、咲希が全く気にしていないのが、胸に刺さった。
「神様のお告げが聞こえるの? 兄ちゃんすごい!!」
祠に行った話を語って聞かせたら、勇貴がすごいすごいと称えてきた。勇貴はいつもこんな感じで、咲希によくなついている。他の兄弟はそうでもないのだが。
「神様って本当にいるのかしら」
咲希の二歳下の妹である百合音は半信半疑といった感じだ。
そうなるのも仕方ない。
「まあ、兄ちゃんが嘘をつく必要ってないんじゃない? 特に僕たちに対してはさ」
そう声をかけてくるのは竹仁。いつものようにつかみどころのない四歳とはとても思えない笑みを浮かべている。その顔を見て、百合音は嫌そうに顔をしかめた。それもそうだろう。百合音は性質上、竹仁を苦手としている。心が読めるという能力を持っているのだ。心がないのに笑顔を浮かべている竹仁なんて理解できない。
咲希には百合音の感覚も、竹仁の感覚も咲希にはわからない。咲希は何の異常性も抱えずに生まれてきたから、わからないのだ。ただ、弟妹達のことは信じている。心を読める百合音も、心がないけれど笑っている竹仁のことも、理解しようとしている。もちろん、異常性はないけれど、自分を慕ってくれている勇貴のことだって。咲希にとってはみんな家族で、兄弟だ。どんな人間であろうと、差別したりするつもりはない。
「ゆり姉が心読めちゃうんだし?」
「百合音を嘘発見器みたいに言うのはよせ」
咲希が竹仁に注意すると、はーい、とあまり心のこもっていない返事が返ってきた。百合音が眉根を寄せている。はあ、と少し溜め息をついた。竹仁はこういうところがあるのだ。人を困らせたり、嫌がらせたりするような言動が多い。百合音いわく、本当に困らせたいとか思っているわけではなく、何も思っていないからこそ、倫理も道徳も関係なく、事実をそのまま口にできる、らしい。
虚無に囚われている、という言い方を百合音はした。百合音は最初、竹仁の心を読めないと戸惑っていたが、違うのだ。竹仁には心がないから読めない。心の中で、何かを思うということができないのだ。心の中に何にもない。それが竹仁だと理解した時、百合音は竹仁を恐ろしく感じたという。どんな人間よりも、心がないというだけで、心を読める百合音には恐ろしかった。
もちろん、咲希はそんなことで差別をするつもりはないし、竹仁のことも守ろうと思う。竹仁は少々、人を困らせる言動が多いから注意はするが。
咲希は、ふと、ちら、ともう一人のことを見た。もう一人は静かに、ピクリとも動かず、竹仁のそばに佇んでいる。その様相は、見事なまでの大和撫子で、長い黒髪が黒曜石のように美しく、目は翡翠のような光を湛えている。その表情を一言で言い表すなら、無、であろう。
彼女の名は、松子。松子と書いてしょうこと読む。松子は竹仁とは双子で、いつもへらへら笑っている竹仁とは似ても似つかぬ無表情が常。それは、竹仁と同じく、心の中に何もない――虚無だからこその事。竹仁と違い、その何も思っていない様子を隠そうともしていないところが松子の特徴だろう。何も思わないが故に、自分から発言することはほとんどない。
それはそれで百合音が心を痛めるのだが。百合音も厄介な性分に生まれたものだなあ、と思う。
可哀想でも何でもない、竹仁も松子も普通の一人の人間だ。咲希はそうだと確信している。
だが、世間様がそう思ってくれるかどうかはまた別な話で、咲希は異常性を持つことがどれだけ現代において不便か、というのを身近で見てきた。咲希も百合音も学校に通っている。しかし、百合音は、その心を読める能力のせいで気味悪がられ、いじめのような被害にまで遭うことがあった。昔はどんな能力を持っていても、人間は天からの授かりものだとか言って褒めてくれたのに、科学が台頭して、科学的ではないことに人々が否定的になってしまった現代では、雨野家などの異常性を持つ人間は差別されるしかなかった。
昔より異常性を抱える人間を受け入れなくなった時代、雨野家は生きるのが難しくなってきていた。だからこそ思い悩んだ父は、咲希に願いを託したといえる。
咲希はそれを責めたりしない。むしろ自分にできることがそれだというなら、喜んで羽織を着よう。そう思い、咲希は羽織を着なおした。
「母さん」
まだ一年しか生きていない妹の梅衣を世話する母のもとに咲希は向かった。梅衣は真っ赤な髪と金色の目を持つ、見てくれからして変わった子だった。まだ喋ることができないので、どんな異常性を抱えているかもわからない。
きっと、神様のお告げの通りなら、この子も混沌の中にいるのだろうな、と咲希は梅衣を憐れむと、母に羽織を羽織った自分の姿を見せた。母が市松模様の羽織の意味を知らないわけがない。は、と息を飲み、それから咲希のことをまじまじと見つめた。
「……そう、今度はあなたが背負うのね」
母は表情に影を射した。咲希が背負う宿命の重さを、母は理解していた。
母に悲しい思いをさせたくない一心で、咲希は意志の強い声で、母に告げる。
「俺が家族を、兄弟を守ります。だから母さんは安心してください」
「何があろうと、その意思は変わりませんか?」
「はい」
迷いのない咲希の答えに、母はふ、と微笑んだ。
「ならばあなたの思うように生きなさい。生きて、この子たちを導いてあげて。この生きづらい世の中にも、絶望しないように」
「もちろんです」
たった齢十と思っていた我が子だが、子は親が思うより強いらしい。母は先が選んだ道を受け入れた。
「長く険しく、辛い道のりです。でも、諦めないでくださいね」
「はい」
咲希に微笑みながら、母は笑った。
母と父は知っていた。
これから先は自分たちですら経験したことのないような、険しい道のりを歩んでいかなければならないことを。
その最初の一歩目には、父と母の死が待っていることを。