お得意様
白雀の裏口から工場に入る。そこでは店主の紅鷹が、今季の新作を制作していた。
「遅くなりました!! 申し訳ございません!!」
咲希は声を張り上げ、開口一番に謝る。父から紅鷹の仕事に対する真摯な面はよく聞いていた。自ら弟子入りを志願しておきながら、仕事の時間に遅れるとは何事か、と怒鳴られても仕方ない。咲希はそう思っていたのだが。
「作業中だ。騒がしくするな。さっさと作務衣に着替えて来んか」
「は、はい」
すると、奥から弓枝がやってきて、くすくすと笑う。
「咲希くん、表まで聞こえていますよ。お客さまがびっくりなさっておいででしたわ」
「わわっ、すみません」
「いえいえ、元気があってよろしいわ。あら、やんちゃでもしたのかしら?」
弓枝が近づいてきて、腫れた頬に触れる。
ぴり、と痛んだが、顔に出ないように努力する。けれど、痛いものは痛いことに変わらず、思わず目を瞑ってしまった。
「手当てしなくちゃね」
「いえ、これは……」
「旦那さんがやったと思われちゃったら嫌ですもの」
それは方便だろうというのは咲希にもわかっていたが、このまま客に見られるのもよくないだろうという弓枝の判断は正しい。大人しくついていって、少々大袈裟に見えるくらいのガーゼをぺたぺたと貼られた。
「喧嘩でもしたの?」
「いえ。俺にもよくわからないんですけど……俺、よく思われてないみたいで」
苦笑いするしかない。人の気持ちを汲むことができていないということだ。挙げ句の果てに女の子に助けられるとは、今思うとなんとみっともないことだろう。
だが、やり返すことが正解だとも思わなかった。報復は更なる報復を呼ぶだけだ。連鎖させないために、咲希は手を上げなかった。……偽善だろうか。
「咲希くんは優しいからね。私の旦那さんが認めた人だもの」
「え? でも俺はまだ正式に弟子入りしたわけでもないぺーぺーで……」
「でなかったら頭ごなしに怒鳴られてるわよ」
「作業に集中してたんじゃないんですか? 今日は毎月のお得意様が来る日でしょう?」
「そういうことをちゃんと覚えられる辺り、咲希くんはお利口だわ」
お利口、と言われると、子ども扱いされているようでむず痒い気持ちになるのだが、事実子どもなので何も言い返せない。
手当てが終わると、咲希は作務衣に着替え、表の掃除を始めた。ここいらは治安が悪いわけではないが、煙草の吸殻が落ちていることがある。ポイ捨ては感心できないが、四の五の言う前に片付けるのが先だ。
それに、煙草は火の気にもなる。ちゃんと消えていることを確認して処分しないと火事になる。というわけで、吸殻は花火の片付けよろしく、水の入ったバケツに入れる。ぐりぐりと踏み潰すだけでは消えないこともあるのだ。勿論咲希は吸ったことはないが、以前、水につけたときにじゅっとなったことがある。そういうのが火事に繋がるのだ、と実感した瞬間だ。怖いものの例えとして「地震、雷、火事、親父」と言われることは多い。つまり怖いものの上から三番目が火事ということだ。気をつけよう。
煙草で思い出したのだが、そういえば、小明のお付きだという二人の片方、明坂という人は確か咥え煙草をしていたが、学校の敷地内に落としていないだろうか……火は点いていないようだったが、学校で煙草なんて落ちているだけで騒ぎになるだろう。
小明は咲希には身分を明かしたが、自主的に明かしたいわけでもなさそうだから、噂という状態を保っているのだ。下手なことはすまい。
表の掃除が終わり、店内に戻る。弓枝が店内を訪れていた観光客らしき人物とにこやかに話していた。もう五十はとうに過ぎているのに、年齢を感じさせない見た目と物腰をしている。
ふと、いつか自分の母──早苗もあのように年を取るのだろうか、と考えた。今はまだ、三十路だが、自分が成人して、働いて家を支えられるようになったら、母はあのように笑ってくれるだろうか。
先のことはわからない。羽織を破かれたあれ以来、ソカナにも会っていない。まあ、わからなくてもいいだろう、と咲希は考える。
ソカナの力はソカナの心の負担となっているから。その荷を増やす必要はない。ただ、梅衣は何故だかソカナに会いたがっていた。
年が離れていて、互いに複雑な身の上なのだが、何か通じるものでもあるのだろうか。兄妹のような雰囲気を漂わせる二人である。
……などと考えながら、焼菓子を店頭に並べていると、見知った人物が入ってきた。何ならついさっき会ったようなものだ。
「いらっしゃいませ……えと、三枝さん?」
「おお、君、さっきぶりだねぇ。旦那さんはいるかい? 長曽根と言えばわかる」
「少々お待ちくださ……」
「おお、来たか。今日は咲実か、久しぶりだな」
「旦那さんこそ、ご壮健のようで何より」
「ちょうど仕上がったところだ。お前だけは気味が悪いくらいにぴったりの時間で来るな」
「気味が悪いだなんて人聞きの悪い。約束を守るとおっしゃってください」
ぽんぽんぽんぽん会話が進んでいくのを、咲希は目を点にして眺めていた。その様子に気づいた紅鷹が咲希に問う。
「なんだ、知り合いか?」
「お嬢の同級生ですよ」
「はあ、小明お嬢もこいつと同い年だったか」
紅鷹は三枝を示し、宣言した。
「こやつのとこの長曽根がうちの一番のお得意様だ。覚えておけ」




