2.初めましてこんにちはサヨウナラ
水溜まりは全て避けて歩いてきたはずなのに、ローファーの底には歩くと音がするほど水が浸み込んでいたし、制服のズボンの裾は絞れそうなほど濡れていた。もちろん靴下もびっしょり濡れていて、フローリングの床には僕の足跡がくっきりできた。最短距離で脱衣所まで行き、ずぶ濡れの衣類を脱衣かごに放り投げる。
まったくとんだ休み明けだ。雨水で冷え切ったつま先にフローリングがとどめを刺す。
やっと自分の部屋につき、なんとなく付けたテレビから、夕方のニュースが流れてきた。
ちょうど天気予報のタイミングだったらしく、最寄り駅の交差点とは比べ物にならないほど人が行き交う交差点の映像が流れる。色とりどりの傘が、様々な方向に流れていく。
そのうちにスタジオ内の映像に切り替わり、お天気お兄さんとお姉さんの会話が始まった。
「まだ梅雨入り前なのにこの雨は困りましたねー」
「首都圏は一日中降っていましたからね」
「S区のスクランブル交差点もこの通り。まだまだ雨は止まないでしょう」
改めて…さっきの一連のアレはなんだったんだ。
幽霊…は、まだいい。祖母が亡くなってから約十年間、何度となく遭遇してきた。視え始めた頃はかなり怖かったが、今はもう人間との区別が付いて、視て見ないフリも得意になった。…さっきは失敗したが。
しかし、あんな人…じゃなかった、死神に遭ったのは初めてだった。リタと名乗った彼女は、馬鹿でかい鎌以外は普通の女の子だった。僕のふわっとした死神の知識だと、ガイコツが大きな鎌を持って命を狩り取るイメージだったが、あれじゃあまるで人間みたいじゃないか。驚いた。
「まあ、もう二度と会わないだろう」
お互いのために、かどうかは知らないが、僕はもう二度と会いたくない。そもそも幽霊だってもう二度と視たくないのに。
あの時の自分の体温が少しだけ名残惜しかったけど、幽霊含む面倒事はもう御免だ。自分の願いも込めて、一人きりの部屋で呟いた。
瞬間、ひやりと首筋が冷えた。
雨に濡れて体温が奪われたことが原因ではないことはすぐに分かった。首筋から始まり、じわじわと、しかし確実に悪寒は僕の身体を侵していく。
風もないのにカーテンの端が揺れている。
今日二度目かよ。悪態を付くと同時に如何にしてこの状況を打破するか、僕は意識を集中させていた。万が一にもあの揺れているカーテンに視線を向けてはいけない。僕の視線と「何か」がカチリと合わさった瞬間、嫌なことになるのは火を見るよりも明らかだ。
暑くはないはずなのに、僕の額から右頬にゆっくりと汗が伝う。
家まできたのは初めてだった。今日の男の子みたい屋外で遭遇するのが大半で、例え家の近くまで付いてきてしまっていても無視していれば無事に帰宅できていたのに。
ひやり。
何かがつま先に触れた気がした。恐怖のあまり、僕は視線を下すことができない。
「二度と、会いたくなかったんだけど」
ついさっき聞いた声が頭上でした気がして、僕は天井を見た。
彼女が、僕の顔を覗き込んでいた。体勢は重力をまるで無視していたが、柔らかい栗毛だけは重力に従ってサラサラと地面に向かって流れている。鼻先に毛先が触れそうだ。
「アナタ、やっぱりバカね」
無駄のない動きで天井から下りると、彼女は僕の右足に手を伸ばした。ぐっと引っ張ってそれを引き剥がすと、僕の顔の前にぐっと近付ける。
「こんなの、加点されない雑魚中の雑魚なんだけど」
加点?何のことだ?
今度は物凄い勢いで床に叩きつけ、そのピンヒールで踏み潰した。
ぐりぐりぐり。
それから真っ黒の煙が出てくる。ちょっと焦げ臭い。
「おい、室内なんだから靴脱げよ」
なんて台詞を言い返す頃には、それはきれいさっぱり消えて無くなっていた。
「忠告してあげたじゃない!」
青い目がキッと僕を睨む。言うまでもなく、靴を脱ぐ気配はない。
「アナタただの人間なんでしょ?なんでコレに関わるのよ!」
「いや、自ら進んで関わってるわけでは…」
「これ、アナタの家でしょ?家にまで侵入を許すなんて…」
はあ、と盛大に溜め息を付く。もうやってらんない、なんなのよ。ブツブツと悪態と付いている。100%僕に対してだろう。
「碌に防御結界張ってるわけでもないし…視える人間は珍しいから、引き寄せちゃうのかしら…」
「あの、」
「でもこの人間は例え引き寄せてしまっても、憑依されたり捕食されたりしてないから、これとはまた何か違った理由があるのかも…?」
「ちょっと、」
「でも、見た目や能力値はごく一般的な人間よ。何がここまで…?」
「おい!」
やっと顔を上げて僕を見た。さっきまでブツブツ言いながら眉間に皺が寄っていたが、今は絶滅危惧種をまじまじと見ているかのような表情になっている。
「ちょっと、調べさせてもらえる?」
「は?うわっ」
彼女の白い手が僕の両頬を包む。冷たい掌と対照的に、僕の血液が顔に集中して温度が一気に上昇していく。そんなことはお構いなしに、彼女は親指を立てて下瞼の裏側を見たり、両耳を引っ張ったりし始めた。
じっと、目を覗き込まれる。
瞬きを忘れそうになるほど、透き通った青い瞳だった。
僕はその瞳から視線を外せないけど、彼女は僕の顔のパーツを無遠慮にじっと見ている。目、鼻、唇、顎。
「やっぱり、普通の人間だわ」
唇の両端をきゅっと上げて、自信に満ちた笑みを浮かべている。僕は彼女にバレないように深呼吸を何回かすると、口を開いた。
「さっきから、なんなんだよ」
声量は思ったより小さかったし、声も少し震えていて恥ずかしかったが、僕はそのまま続ける。
「僕にもちゃんと分かるように説明してほしい」
「そうよね、分かった。とりあえず座っていい?」
どうぞ、と言うより前に、彼女はベットの端に腰を下ろす。僕もそれに倣って向かいの勉強机の椅子に座った。
「交差点でも話したけど、私は死神なの」
そう言って僕の目の前に右手を差し出すと、その一瞬後には大きな鎌が握られていた。小柄な彼女には到底不釣り合いな、不気味な武器。
「人間の言葉で言うと、地縛霊とか、幽霊とか、そういうものを然るべき場所に導く、それが私の仕事。ここでは便宜上、幽霊と呼ぶわ。幽霊には色んな値でランクが付いているの。高ランクの幽霊を導くほど加点されて、給料も上がって出世していくのよ。ここまでは分かる?」
「な、なんとか」
「さっきアナタにくっ付いていたのは、肉体から離れてから時間が経ちすぎてもう自分がなんだったか分からなくなってしまっている、低ランクの幽霊ね。ここで始末しないと後々面倒なことになるけど、あまりにも小さ過ぎて加点対象にもならない。だから導かずに始末したの」
彼女は右足の靴底を見た。目立った汚れも傷もなく、奇麗なままなのを確認すると、更に話を続ける。
「交差点にいたタイプは、さっきのよりは自我があったから導いたわ。ちょっと怪しい部分もあったけど」
「怪しい?」
「そう。導いても意味があるかどうかってこと。まあ、この辺は実践を交えながら詳しく説明するとして」
ん?実践?
彼女の言葉を頭で理解して疑問を声に出す前に、そっと手を握られた。細くて繊細な手が、僕の武骨な手をまるでガラス細工みたいに丁寧に包み込んでいる。
「アナタ、何故か分からないけど幽霊を引き寄せる体質みたいだから、私に付き合ってくれないかしら?」
ぐっと、顔の距離が近付く。彼女の台詞は疑問符で終わっていたが、僕に決定権はないらしい。
「もちろん、タダでとは言わないわ。この家に防御結界も張るし、幽霊と遭遇したら私が助ける」
この青い目は反則だ。じっと見つめられると思考能力が著しく鈍る。
「私が絶対に、アナタを守るわ」
大きな鎌とか、幽霊とか、防御結界とか、加点とか、出世とか。
聞きたいことはたくさんあったはずなのに、僕の頭の中はもう真っ白で、イエスの選択肢しかなかった。
「ところでアナタ。名前は?」
「け、ケイ」
あどけない笑顔と彼女の台詞に促され、つっかえながらも名乗る。今まで意識したことなんてなかったのに、気を付けていないと息をすることすら忘れそうだ。
「そう、ケイって言うの。よろしくね、ケイ」