1.初めましてこんにちはサヨウナラ
その日もいつもと変わらない一日になるはずだった。
ゴールデンウィークが明けたばかりで、まだ生徒の半分は夢心地だった。高校生ともなれば自分の自由になるお金や時間が中学生の時より格段に増え、やれ友達と旅行だ、やれアルバイト六連勤だ、部活の合宿だなどという忙しい自慢の台詞が、長雨の湿気と共に全身に絡みつくように教室内に充満している。
僕は旅行どころか住んでいるY市すら出ていないし、アルバイトももちろんしていない。お察しの通り、帰宅部だ。
こんな省エネ系男子の僕が、忙しい自慢大会を催しているアクティブ系グループに友人がいるはずもない。窓に吸い付く雨粒をぼんやり眺めながら会話を聞いていると、視界に突然知った顔が映りこんできた。
「ケイ、おはよう」
赤石ユズル。にっこり笑った顔の裏に何を隠しているのか考えてしまうのはコイツとの付き合いが無駄に長い証拠か。憎めないお調子者。最後に会った時より髪が短くなっている気がする。これから夏に向かって上がり続ける気温に備えているのだろうか。
「おはよう」
「ケイ、これお土産」
はい、と手渡されたのは片手に収まるほどの小さな箱だった。サイズはちょうど、婚約指輪が入る程度。なぜこの例えがすぐ出てくるかというと、連休中に溜まっていた海外刑事ドラマを一気に見たからだ。刑事ドラマといえども男と女、そこにはラブロマンスがあり、ドロドロの離婚劇があり…話を戻そう。
もちろんユズルから受け取った箱は婚約指輪ではないし、その証拠に箱には何文字かのアルファベット(恐らく、お店の名前だろう)と、裏面に小さくクッキー、チョコレートと書いてある。
「連休中にね、ニューヨークに行ってきたんだ」
この一言で分かるとおり、ユズルは絵に描いた金持ちだ。ゴールデンウィークという最も航空券が高い時に家族で旅行に行き、いかにもアメリカ!という感じのチョコレートやファッジではなく、スマートなチョコレートクッキーをお土産にくれる。
「最も航空券が高いのは年末年始だと思うけどね」
「ゴールデンウィークもそんなに変わらんだろ」
「どうだろう? それより、お土産話を聞いてくれよ」
「ニューヨークか…」
ちょうど見ていた海外ドラマもニューヨークが舞台だった。大都会ニューヨーク。犯罪が蔓延り、忙しなく歩く人々は後ろの人が銃で撃たれても気にしない。
「いや、気にするでしょ。ニューヨークをなんだと思ってるんだ」
「犯罪者の宝庫」
「ドラマの見過ぎだよ。さてはシーズン7まで一気に見たな?!」
「ばれたか…」
「ニューヨークはそんなに危険な街じゃなかったよ。少なくとも家族で一週間ほど遊びに行く分ではね。もちろんスリには気をつけてたけど」
海外ドラマとのギャップに首を捻りつつも、僕はテレビ画面に映されたニューヨークの街並みを思い出していた。百階建て以上のビルが立ち並び、空は東京よりずっと狭い。
「ブルックリン橋は行ったのか?」
「もちろん、観光名所だからね」
「あとは…ブロードウェイのミュージカルとか?」
「よくぞ聞いてくれました!」
舞台俳優さながらに華麗に一回転すると、大げさにお辞儀をして話し始めた。そうだ、ユズルは金持ちでアクティブで、非常に影響を受けやすい。
「妹がいたから、英語があんまり分からなくても楽しめる超王道中の王道を観たんだけどね、もう本当に素晴らしかった! 日本でもミュージカルは同じタイトルのものを何度か観たことあったんだけど、役者が変わるだけでこうも変わるかと驚きの連続で―――」
「はい、みんな席着けー」
最高のタイミングで担任が入室し、二年五組が始まって約一ヶ月、初めて担任に感謝した。この続きはまた後で、とウインクするユズルを強引に席に着かせる。
椅子が床に擦れる音が段々落ち着いて、忘れていた雨音が聞こえるようになると、担任は事務連絡を始めた。
いつもと変わらない、平日の始まり。毎日の繰り返し。睡魔と闘いながら淡々と授業をこなしていく。昼の弁当は、健康志向に火が付いた母のおかげで野菜中心だったが、それ以外はいつも通りの一日だった。
「じゃあな、ユズル。また明日」
「うん、また明日」
クラスメイトと会話が弾むユズルを尻目に、僕はカバンを持って教室を後にした。朝から降り続ける雨は止みそうにない。まだ登校時の雨で濡れている傘を開くと、僕は昇降口から歩き出した。
いつもと違う風景は、最寄り駅の大きな交差点から始まった。
片側二車線の大きな交差点。水溜りの上を走行する車。飛び散る水飛沫。うんざりしながら傘を差し、青信号を待ち望む人々。
僕も手前の小さな駅ビルの入り口で、交差点の信号が変わるのを待っていた。この時間は学生が大半で、制服を着た中高生や、ランドセルを背負った小学生が半分以上を占めている。
その中で一人、傘も差さずに俯いている小学生がいた。黄色い帽子に黄色いランドセルカバー。色とりどりのランドセルが流行る中、その小学生のランドセルは黒だった。男の子だろうか。
両腕で顔を覆い、雨にじっと耐えているようにも、泣いているようにも見える。傘はどうしたんだろう。朝、登校時間から降っていたはずだ。そもそも、ランドセルに黄色いカバーといえば一年生の証拠。僕が小学生の頃は登校班で低学年は高学年とグループになって帰宅していたはずだが…何かあったんだろうか。
いくら省エネ系男子の僕でも、なんだか訳ありの子供を見かけたら素通りはできない。さすがに。信号はまだ赤だったが、雨の中その少年に近付いた。
が、なんと声を掛けたらいいか。詰まってしまった。
そう、自分の小学生時代を振り返ると「知らない人に付いて行ってはいけない」と口をすっぱくして教えられたものだ。この小学生からすると僕は立派な「知らない人」で、警戒対象。しかし彼のすぐ隣まで歩み寄ってしまっている。うーん、困った。どうしよう。
「お兄さん?」
うんうん唸っていると、なんと彼の方から僕に話しかけてきた。視線を落とす。自分の半分ほどしかない身長。前髪の隙間から覗く大きな瞳。
真っ黒な瞳と、目が合った。
「お兄さん、ボクが視えるの?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。そういえばこの少年は土砂降りの中傘を差していないのに全く濡れていなかったし、傍を通る通行人は誰も彼に声を掛けなかった。そう、まるで存在に気付いていないかのように。
目が合った瞬間からもう、体が動かない。
「ボクのこと、心配してくれたの? 優しいね」
まるで子供らしくない笑顔で、じっとりと僕を見る。耳まで裂けていそうな口から、気味悪いほど赤い舌が覗いていた。
「せっかくだから、ちょっと借りてもいい?」
何を、と聞く声は口から出なかった。掠れた息だけが漏れる。頭のてっぺんからつま先まで急速に冷えていく感覚。傘を持つ右手は力が入っているはずなのに、感覚がない。
これはやばい。久々に。
見たくない光景のはずなのに、瞼を閉じることも許されなかった。ゆっくりと少年の小さな右手が僕の首筋に伸びてくる。氷の様に冷たい右手だった。
「バカじゃないの」
そう、声が聞こえた気がした。
瞬間、降り注ぐ雨音も、車のクラクションの音も、スマートフォンに怒る女子高生の声も、飛び散る水溜りの飛沫に悲鳴を上げる声も、全く聞こえなくなった。
「何アナタ。人間?」
なんだその質問は。声のした方から、小気味良いヒールの音が聞こえてくる。コツコツコツ。残念ながら顔をそちらに向けることはできない。まだ体は動かない。
「動かないでね。…動けないと思うけど」
声の主が、くすっと笑った気がした。
「うあぁああああああああ!!」
人の、少年の叫び声だと認識するのに数秒かかった。認識した時にはもう、瞬きをしていた。
体が動くようになってから辺りを見回したが、相変わらず無音だったし、よく見てみれば誰も、何も動いていなかった。
「ちょっと、アナタ。質問に答えなさいよ」
振り向くと、青い大きな瞳が僕をじっと睨み付けていた。その大きな目の上で綺麗に切り揃えられた栗色の前髪のせいで眉毛は見えないが、眉間に皺が寄り、つり上がっていることは容易に想像できる。真っ白な肌に薄桃色の唇が、この状況でひどく可愛らしく見えた。
「し、質問?」
「人間かって聞いたでしょう」
真っ白なヒョロヒョロの腕で、彼女の身長以上ある大きな鎌を持っている。そして最悪なことに、刃先は真っ直ぐこちらに向いている。
「に、…人間です」
「じゃあなんでアレが視えたの」
アレ、というのはさっきの少年だろう。あの少年は、僕の十七年間の人生経験からすると…
「幽霊?」
「そう。幽霊。生きてないモノ。人間は普通視えないでしょう」
まるで僕が普通の人間じゃないみたいな言い方だな。失礼な。省エネ系ごく一般的な男子高校生だ。
栗色の毛先は完璧に内巻きに整えられていて、彼女の頭部の動きに合わせてふわふわ揺れている。
「なんで」
鎌の刃先が頬に触れそうなぐらい近付く。僕は思わずひっと息を呑んだ。
「そ、祖母の死がキッカケで視えるように…」
「…そう」
猫目の彼女はなんだか納得できない様子で、鎌を持っていない左手を口元に当てて何やら考え込んでいる。
「視えるだけ?」
「あ、あとは、話したり…」
「操ったり、呼び起こしたりは?」
「そんなことやったことない」
操る?呼び起こす?一体何のことだ。そんな恐ろしいこと、考えたことすらない。
「そう。じゃあ、まあいいか」
彼女はやっと、その物騒な鎌を下ろした。その一瞬後、彼女の右手からはもう鎌は消えていた。
なんなんだこれは。現実なのか?
いくら幽霊が視えるからと言って、こんな人間(人間と呼んでいいのか謎だが)に遭遇したのは初めてだ。
「初めまして。こんにちは。私はリタ。死神よ」
青い目を細めて、リタは言った。さっきまでの刺すような表情が柔らかく緩み、僕の体温が少しだけ上昇する。
「そしてサヨウナラ。お互いの為にもう二度と会わないことを祈るわ」
リタは笑顔を貼り付けたまま、ぐっと僕に近付いた。鼻と鼻が触れてしまいそうな距離まで。彼女の吐息が僕の唇にかかる。もう体は自由に動くはずなのに、僕は息すらできない。
「アナタ、視えるだけで何も出来なさそうだから一つだけ忠告しておくわ。もし視えてしまっても、むやみやたらに近付いたり話しかけたりしない方が身の為よ」
彼女が喋る動きに合わせて淡いピンク色の唇が動く。やっとの思いで視線を逸らし、瞬きをすると、リタは消えていた。
信号はいつの間にか青信号になり、それを待ち望んでいた人々が歩き出す。
僕の心臓はまだ、静まらない。