四節 客が来た
敵を倒し家に戻ると、僕は抱えていた左腕から手を離しそれを改めて見た。
僕の左腕はあのカサブタに完全に侵食され、その全てが赤黒い装甲で覆われたものになってしまっていた。つまり、左腕が『蜥蜴』と同じものになってしまったのだ。
長さ自体はかろうじて人間の腕と同じくらいの長さを保ってくれていたが、細く鋭い指は完全に変身した姿のそれであった。
自分でも驚くことに、この時の僕は冷静に自分の腕を眺めていた。そして一つの仮説を立てた。
変身する回数や時間、様々な要因によって侵食が早まるのではないかというものだ。
「神様」
僕は誰も居ない空間に向かって呼びかけた。瞬く間に神様が目の前に浮かび上がり、首を傾げて言った。
「何だい悠斗?」
「この腕も、代償の一つなんだね?」
僕は『蜥蜴』そっくりに変貌してしまった腕を持ち上げて言った。
「その通り。強大な力に徐々に侵され姿を変える。定番といえば定番だろう」
神様が言っているのは、物語のお約束ということだろう。
「君はいずれ人間に戻れなくなる。それでも、自分を犠牲にして戦い続けるかい?」
「何を訊くかと思えば今更そんなことか。戦うに決まってるじゃないか」
僕は呆れ返りながら言った。
「そうかい。他に聞きたいことはあるかい?」
神様に尋ねられ、僕は首を横に振った。神様は「そうか」と一言呟くと、幻だったかのように消えてしまった。
僕はため息をついて、腕をしげしげと眺めた。
この腕では、もう学校には通えないことは明白だった。すなわち、もう楓には会えないということでもあった。母にも会えないだろう。
泣きたくて堪らない気持ちになってしまったが、涙は出なかった。
くさくさしててもしょうがないと思い、僕は普段通りの生活がどこまでこの状態でできるかやってみることにした。つまり、左腕がどの程度の精度で動かせるのかの実験を始めたのだ。
結論から言えば、やれないこともないが厳しいというのが僕の評価だった。
どういう理屈でこうなっているのか、というのは神様がやったことなので考えても無駄だ。とにかく人知を超えた何かによって『蜥蜴』の腕とすり替わってしまった訳だが、力の具合も『蜥蜴』のそれと同じようだった。
普段の人間の腕のつもりで物を持とうとすると、一瞬で握り潰してしまうのだ。何かを食べようと食器を持った側から割れていく様は、呆れを通り越して最早清々しかった。ものの十分で粉々になった皿の山が出来上がってしまった程だ。
破壊した食器やらを片手でどうにか片付けようと必死になっていると、チャイムが鳴り響来客が現れたことを知らせた。
僕は自分の変わり果てた左腕を見て、居留守を使うことを決めた。万が一これが見られたら、とんでもない騒ぎになるだろう。楓を守るどころの話ではなくなってしまうかもしれなかった。
ところが来訪者はチャイムを再び鳴らし、粘り始めた。
チャイムを鳴らす感覚が段々狭まり、次第に僕の中である予感が浮かび上がった。楓が来たのだ。この連打に近い指捌きと粘り方は、楓としか思えなかった。
僕の決意は硬く、やはり居留守を決め込むことにしていた。
腕が変貌してしまった以上、学校にも行けないし楓にも会えなくなったが、余計な混乱を招く必要もないはずだと考えたのだ。
僕はじっとリビングのソファに腰掛け、諦めて帰っていくのを待っていた。
数十回のチャイム攻撃に耐え忍ぶと、ついに諦めたのかチャイムの音が止んだ。
ホッと一安心したのも束の間、玄関の方からガチャガチャと鍵のシリンダーが動く音が響き始めた。
僕が慌てて立ち上がりリビングを出るのと、楓が家の中に侵入するのは同時だった。
怒りの形相を浮かべて楓が現れた。しかしすぐにその表情は驚愕のものへと変わった。僕は楓の視線が変貌した左腕に注がれていることに気づき、慌てて背中に隠した。
「…………何? それ」
「な、何でもないよ」
僕は内心何でもないは”ないな”と思いつつも、赤黒い腕を隠そうと壁を背につけた。
「というか、どうやって入ったんだよ。ふ、不法侵入だぞ」
「あら、合鍵持ってるんだから合法よ」
楓が僕の家の鍵を見せて言った。終業式の後に家に来てくれた時、そういえば家の鍵を渡したことを僕は思い出していた。どうやらそのまま持っていたようだ。
「誤魔化すのは止めて見せなさい」
楓が僕の鼻先に顔を近づけて、壁に手をついた。この頃はいい加減もういいんじゃないかという雰囲気が流れていた『壁ドン』という状態である。秘密がバレる瀬戸際だというのに、楓の整った顔に接近され僕の胸は鼓動を早めていた。
だが悲しいことに、長いまつ毛に覆われた楓の視線は僕の顔ではなく、背中に隠したそれをもう一度見ようと下の方に注がれていた。
「む、無理」
「……そっちがそういうつもりなら、私にも考えがあるわよ」楓が『壁ドン』をしたまま言った。「悠斗、あんたさっきまでどこに出かけてたの?」
「どこだって……いいだろ」
僕は背中に嫌な汗が滲むのを感じながら、なるべく普段通りの口調になるよう気をつけながら答えた。
「じゃあ私が言ってあげようか? あんた、怪物が出たとこに行ったでしょ」
「何言ってるかわからない。怪物って何のことさ」
僕は諦めの感情を覚えつつも、抵抗を続けた。
「私見たのよ。悠斗が家を飛び出して、茂みの中に入っていくところ」
楓が見ていたことに気づかなかったなんて、迂闊だったとしか言えないだろう。僕は自分の愚かさを嘆きながら、楓に先を促した。
「そ、それで?」
「悠斗が、自分の身体を傷つけて――」
「わかったもういい」
僕は楓の言葉を遮った。楓が不満そうに一瞬眉毛を潜めたが、すぐに元の怒った顔に戻った。
「はっきり言ってよ。悠斗が、あの黒い奴の中の人なんでしょ?」
楓が僕の左腕を引っ張り出して言った。装甲越しでも人肌は感じるんだなと、僕はこの場ではどうでもいいことを考えていた。
「…………だったら?」
僕は楓に尋ねた。きっと、軽蔑されるんだろうなとこの時の僕は思っていた。
「別に」楓が僕の目を見て言った。「別に、何もないわよ。……いや、言いたいことが二つあるわね」
ほら来た、と僕は心の中で言った。殺人鬼と罵られる覚悟はとうに出来ていた。
「まず一つ目。あんたは朋美や、街の人を助けてくれた。感謝してるわ」
「え? あ、うん……」
思わぬ感謝の言葉に、僕はたじろぎ変な声を出してしまった。
「それと二つ目。そんな大事なこと黙ってたなんて信じられない。私、あんたが嫌いよ」
楓が僕の左腕を掴んだまま言い切った。
楓に拒絶され、僕の世界は急速に色を失っていった。目の前が真っ暗になるとはこういうことを言うんだなと、納得していた。楓の顔が見れなかった。だが楓は手を離してくれなかった。無理に動かせば楓の身体が千切れてしまうことはわかっていたので、僕は力を入れないようにしながらその場で立ち尽くした。
「僕だって……やりたくてやってる訳じゃない……」
勝手に僕の口が動いた。視界の端が滲んでいるのを僕は感じていた。涙が出てしまったのだと思う。
楓は黙って僕を見ていた。
一度言葉に発してしまうと、思っていたことがまるでダムが崩壊したように溢れ出てしまった。
「怖かった。目の前で沢山人が死んだし、でも僕がやらないともっと沢山死ぬし。やらなくちゃいけないってわかってても、怖かった。でも僕が悪いから、楓やトモちゃん、皆を守らなくちゃいけないから、頑張ったんだ……。でも、僕だけじゃどうしようもなくて、日本どころか、世界中を巻き込んじゃって……、辛いんだよ……。なんで僕なんだよ!? 僕はただ、いつも通り頭の中の世界にいられればよかっただけなのに! いつも通り過ごして、テストを受けて、家に帰って、テレビを見て笑ったり本を読んだり、そういう普通の生活がしたいだけなのに……! 僕はただの高校生なんだよ! そりゃ人よりちょっと妄想の度が過ぎるかもしれないけど! 友達だって全然いないけど! でも僕はそれだけの人間だ! 勇気もないし! 責任だって取れやしない!! でもやれって言われて! やらなくちゃ楓が死んじゃうから! やるしかなかった! でも……怖かったんだ……!」
僕は楓の腕を右手で握った。服が引っ張られて伸びてしまったが、楓は気にした素振りを見せずそのまま僕を見つめていた。
涙で顔がぐちゃぐちゃになっていることを感じながら、僕は胸の内を話し続けた。
「僕のせいで人が死んだ……。楓にわかる? 圧倒的な暴力の前に、紙くずみたいに吹き飛んでく人の姿を黙って見るしかない僕の気持ち……。なんだよ岐阜とか! 行ける訳ないじゃないか! 車も無ければ金も無いんだ! 神様は連れて行ってくれないし変身したって間に合わない! 自衛隊が命を賭けて戦うのを見るだけ!」
僕は楓の胸に顔を押し付けた。
「事情を知ってるのに! 自分勝手な理由で話さずにいた! 信じてもらえないって勝手に納得させて! 独りで終わらせようとした! それでどうなったと思う!? 解決するどころか、日に日に身体がおかしくなる!!」
僕は左腕を握っていた楓の手をどかすと、着ていたTシャツを破り捨てた。
「見てよこれ! もう上半身半分以上がこれだ!」僕は右腕で左半身を侵食していた装甲を叩いた。思いっ切り叩いたのに、全く痛くなかった。「このまま正解がわからないまま戦い続けたら、僕はきっと僕じゃなくなるんだ! 全身を装甲に覆われて! 誰も僕を僕とは思わなくなる!! ご飯は!? 睡眠は!? どうしたらいいの!? 何もわからない! わからないことばっかりだ!! 神様は何も教えてくれない!! どうしたら終わるんだよ!!」
僕は大声を上げ、行き場のない怒りを床を蹴ることで発散させた。涙で顔は見れたものじゃなかったことがなんとなくわかっていたのか、僕は右腕で顔を覆った。
「……言いたいことはそれで終わり?」
楓が僕に尋ねた。僕は泣きじゃくりながら、どうにか言葉を返した。
「わかんない、自分で、何言ったのかも、覚えてない……」
「そ」楓は僕の頭を撫でつけるように軽く叩き、僕をソファに座らせた。「ちょっと待ってて。今ご飯作ったげるから」
楓はそう言い残して、僕の家の冷蔵庫を物色し始めた。
「え? な、なんで……」
「だって、その腕じゃちゃんとしたものなんか作れないでしょ?」楓が皿の山を見て言った。「もう! またろくなものが入ってない……。困ってるなら言いなさいって言ったわよね? ご飯くらい作ってあげるって言ったの、覚えてないの?」
「お、覚えてたけど……喧嘩みたいになっちゃってたし……」
僕は涙を拭いながら言った。
「ああ、そういえばそうだった。忘れてたわ。まいいわ。とにかくありあわせのもので何か作るから、それで、落ち着いたらちゃんと話して。もう見ちゃったんだし、隠さなくてもいいでしょ」
楓は早口で言い切ると、キッチン漁りを再開した。
こういう風に『お節介モード』に入った楓を止められないことはわかっていたので、僕は何も言わず楓が忙しそうに動き回るのを眺めていた。一気にまくし立てたおかげで、少しだけ気分が楽になっていた。誰にも話せない孤独さや、短期間で人の死に触れすぎたせいで、自分で思っていた以上に疲弊していたらしかった。
しばらくして、楓がフライパンで何かを焼き始めた。香ばしい匂いが漂ってきて胃を刺激し、僕は人生二度目の楓の手料理を今か今かと待ちわびていた。
楓が料理の仕上げにかかっていると、不意にチャイムの音が居間に響いた。
「あ、ごめん、悠斗出てくれる――って出れないわねそれじゃ」
楓は僕の腕を見て眉を少しだけ下げると、火を止めてパタパタと玄関の方へ早歩きで向かった。僕は姿を見られないよう注意しつつ、玄関の様子を窺おうと試みた。
楓が扉越しに来客の応対をしている声が聞こえてきた。我が家には家の中の電話機とインターホンが繋がっているような今時当たり前の設備がなかったので、ドア越しに直接やり取りをしなくてはならなかったのだ。
「すみません、どなたでしょうか?」
「こちら、芹沢……悠斗くんのお宅で間違いないでしょうか?」
楓の質問に答えず、扉の奥にいた男が尋ねた。その対応に楓は機嫌を損ねたのか、腕を組んで仁王立ちになった。
「どなたですかって、私が、訊いてるんですけど」
「あなたは悠斗さんのお母様ですか? それともお友達? 彼に姉や妹はいなかったはず」
「あんた何なの? 名乗りもしない人に私が話すと思う?」
イライラが頂点に達したのか、ぞんざいな言葉遣いになって楓が言った。明らかに怒っているらしく、つま先で床を軽く叩いていた。
「……防衛省から参りました猪熊と申します。芹沢悠斗くんとお話がしたいと思っておりまして」
僅かな間を置いて、猪熊が言葉を発した。
「――黒い怪獣について、です」




