三節 友達が帰ってきた
二度目の鎌倉高校襲撃を経て何が驚きかと言えば、学校が続いたことだろうか。
僕のすぐそばで発芽が始まったおかげで、今回の騒動はこの物語が始まってから一番早くに収束した。一時間もかかっていないはずだ。
犠牲者も出ていなかった。逃げ遅れた僕のクラスメイトが三人あの肉のお手玉に飲み込まれたものの、僕がすぐに穴を開けたから、そこから這い出ていたらしい。全員お手玉内部の粘液を飲み込みはしていたものの、特に人体へは害はない――粘液は蒸発してしまうので公的な調査は行われていない。これは神様が言っていたことだ――らしく、巻き込まれた三人も元気にしていた。
学校の破損も軽微で、窓ガラスの大量破損と校舎の一部が僅かに欠けた程度だった。変身した僕とトモちゃんが暴れた二階の一角が多少ボロくはなったが、使えなくなる程ではなかった。
この頃、鎌倉には大量の『移民』が集まっていたので、どこの学校も新たな学生の受け入れが不可能な状態になっていた。その影響もあってか、我らが鎌倉高校は、このままこの校舎を引き続き使っていくことを決めたらしかった。奇跡的に被害らしい被害が僕らの教室だけだったので、偶然空いていた教室に僕らは移動して授業を受けることになった。
トモちゃんは元気だった。二日程経過観察をしたいということで入院していたが、三日目には退院していたようだ。
事件から五日が過ぎた頃、トモちゃんは突然、いつものように学校にやって来た。トモちゃんは駆け寄るクラスメイト達とのやり取りを適当にあしらい、僕の後ろに位置する自分の席へ移動した。
「やっほー、芹沢くん、湊さん」
僕が楓と話をしていると、席に座ったトモちゃんが声をかけてきた。楓と話していた内容はあまりよく覚えていない。最近ご飯はちゃんと食べてるのか、とか母さんと連絡は取り合っているのか、みたいな、ちょっと説教臭いことだったことは間違いない。話の内容を覚えていなかったのは、自分でも単純だとは思うが楓と普通に話せたことで舞い上がっていたからだと思う。トモちゃんの件をきっかけに、これまでのような関係性に意図せず戻ることが出来たのだ。
「朋美、もう学校来て平気なの?」
楓がトモちゃんと手を繋いで言った。女子ってどうしてやたらと手を繋いだり、触れ合ったりしたがるのかな、と僕はボーッとしながら考えていた。
「うん、もう大丈夫。たはは、お騒がせしました……」
トモちゃんは照れたように、笑い声を漏らしながら首筋を指先で掻いた。
トモちゃんは退院した直後からマスコミに追いかけられ、家から出たくても出られなくなってしまっていたと、僕は楓から聞いていた。だが政府関係者がトモちゃんの周囲に出没し始めて、マスコミの露骨な追っかけ行為はなくなったらしい。
しかし連日お昼のワイドショーではこの事件のことが大きく取り上げられていた。何を考えていたのかは知らないが、コメンテーターや芸能人の中には、トモちゃんに……つまり発芽してしまった人間に責任を取らせるべきとまで言っている奴までいた。
しかし冷静に考えるまでもなく、そんなことは非常識で不謹慎だと世論やネットで叩かれすぐにこの手の意見は出なくなっていた。トモちゃん達『宿主』はただの被害者なのだ。
怪物の中に発芽した人間が入っていることは既に知れ渡っていたが、その人間の命が助かったのは今回が初めてだった。
トモちゃんの身体は最新の医療機器を揃えた病院で詳しく調べられた。しかしわかったことは彼女がとんでもなく健康体ということだけだった。人体に害のある物質は検知されなかったし、神様が埋めた種も見つからなかった。種に関して言えば、僕はこれを概念的な、物理的には存在しないものだと思っていたので、不思議なことではないと感じた。
こうして健康優良児であると太鼓判を押されたトモちゃんは、僕らの前に現れた。発芽する前と変わらず明るい表情を作ってはいたが、顔から疲労が滲み出ていた。
「いやー有名人は辛いね。こんなにテレビで取り上げられてるんだから、出演料とか印税? みたいなの貰えないもんかね」
トモちゃんが笑って言った。
「本でも書いたら? 奇跡の生還劇とか、そんな感じで」僕は肩をすくめてトモちゃんに言った。
「いいね! と言いたいとこだけど、何も覚えてないのよね。アレになる瞬間? はすっごく苦しかったけど、その後はもうぼんやり。気づいたらベッドで寝てたんだもの」
「そんな感じ……なんだ」
楓が言った。
「うん。だもんで、記者に追いかけられても、何も答えられないのよね。あいつらはあいつらで、覚えてないって言ってるのにずーっと追い回すし」
トモちゃんはうんざりしたようにため息をついた。家の前に四六時中マスコミが張っていたことを思い出し、その時の気分が蘇ったのかもしれなかった。
「そういえば聞いたんだけど、あたしのこと、あの黒い怪物が助けてくれたんでしょ? 凄いよね、病院まで連れて行ってくれるなんて」
一転して明るい表情になったトモちゃんが言った。楓が頷き、スマホをトモちゃんに見せた。
「もう見たかもだけど、病院の映像出回ってたよ。ほら」
「おおー、これ……あたし……か。何か、変な感じ。知らない人に自分が撮られてるなんて」トモちゃんがスマホの画面を見て言った。「やっぱり、この黒いのの中にも人が入ってるのかなぁ?」
「かもね。テレビでもよくそんな話してるし」
僕は、自分が話題に出ていることに対する動揺を押し殺しながら言った。
トモちゃんのニュースと関連して多く取り上げられるようになったのは、黒い怪物……『蜥蜴』についてのトピックだった。
鎌倉の地理に精通し人間を守ろうとする行動と、『蜥蜴』と同時に出現を始めた怪物に人が入っていることから、黒い怪物にも人が入っているんじゃないか、という論争が起きたのだ。
これまではそこまで熱心に議論されていなかったのだが、僕が病院まで直接出向いてトモちゃんを預けたことで、この論争に火をつけたことは間違いなかった。
「なーんかなー……」トモちゃんが呟いた。「さっき覚えてないって言ったばっかりなのに、こんなこと言うのは変な感じだけどさ。あたしがアレになってる時の……記憶? とか、感覚でさ、あの黒い奴、知ってる人な気がしたんだよね」
「し、知ってる人?」
僕は心臓が跳ね上がるのを感じながらも、平静を装って聞き返した。
「うん、なんとなくだけどね。薄ぼんやりと……そう、思うの」
「へぇー、案外この辺に住んでる人なのかもね」楓が言った。
「でもそうだとしたら、どうしてその人? は政府に教えたりしないんだろうね?」
トモちゃんがスクールバッグの中からタンブラーを取り出して言った。
「教えるって?」僕は興味本位で聞いてみた。
僕が自分のことを告白しなかった理由としては、やはり鎌倉……楓の側から離れたくないという気持ちが大きかったからだ。僕が鎌倉を離れたせいで楓に何かあったらと思うと、恐ろしくて堪らなかったのだ。
「えっと、自分が中身です! とか?」
トモちゃんは冗談めかして言うと、取り出したタンブラーに口を付けた。
「言いたくない理由とかあるんじゃない? 朋美みたいに身体を調べられるのが嫌だとか」
楓は笑いながら言うと、僕をチラッと見た。僕には楓が何を考えていたのか検討もつかず、首を傾げながら愛想笑いを返した。我ながら可愛くない仕草だっただろう。
「悠斗」
「何?」
僕は楓に呼ばれたと思い、聞き返した。
「何? って、何?」
楓が怪訝な顔をして僕を見つめた。楓の真横に神様がいるのを見つけ、僕は全てを悟った。神様の声と楓の声を勘違いしたのだ。迂闊だった。
「ごっ、ごめん、勘違い。呼ばれたかと思った」
僕は冷や汗をかきながら謝罪をした。楓は「そう……?」と呟きながら僅かに疑念の目を向けていたが、すぐにいつも通りの顔に戻っていた。
(神様、どうかしたの?)
僕は誤魔化し笑いを浮かべながら心の中で神様に尋ねた。楓の横で浮かんでいた神様が返事をした。
「まあいつものことだ。敵が出たぞ。あっちだ。およそ百四十キロメートル」
神様が教室の壁に向かって指を差して言った。神様の小さな指は西を示していた。僕には助けに行けない距離だった。
(わかった、ありがとう。自衛隊が上手くやることを祈るしかない)
「そうか」
神様は短く返し、そのまま辺りをぷかぷかと浮かび始めた。神様は敵が排除されると確信しない限り、僕が助けに行かない場合でも辺りで姿を見せ続けていた。
今回も同じように神様は教室に留まるつもりらしかった。他の人間には姿が見えないことはわかっていても、神様が裸で宙に浮いている光景は僕をそわそわさせた。いくら神様が裸でいることに慣れたと言っても、やはりそこは少女の姿。包み隠さずに白状するが、僕には少々刺激が強かったことも事実だ。
そんな落ち着かない授業も粛々と過ぎていき、気づけば放課後になっていた。神様はあれから三時間程で姿を消していた。丁度お昼の頃だったのでニュースをチェックしてみたが、神様が消えたことでわかっていたように、自衛隊は出現した敵を無事に排除していた。敵が出現したのは静岡県らしく、自衛隊の基地が近かったこともあって比較的早く到着出来たようだ。しかし敵の個体が手強く迅速な処理には失敗してしまったともニュースには書かれていた。
正確な被害者の数はまだ調査中のようだったが、今回も決して少なくはない犠牲者が出ただろうと僕は考えていた。そしてその予感通り、死者だけでも二十人以上を既に超えているとその日の放課後チェックしたニュースに記載があった。負傷者も数に入れると、三桁台にまで登るようだった。
敵を倒すことを放棄して、呑気に授業を受けていたことに罪悪感を覚えつつ、僕は楓と一緒に下校を始めた。
トモちゃんの一件以来、僕と楓の仲は小さな頃に戻ったような感覚さえあるような距離になっていた。一緒に学校から出て、バスに乗って帰り、家の前で別れる。この一連の流れに僕は幸せを噛み締めていた。
ここ数日でぐっと近づいた距離感に、僕はどこか安心していたのかもしれない。一人きりになってしまったとずっと思っていたのだ。
そうして気づけば、トモちゃんが学校に再び来るようになってから更に五日が経っていた。
この間に神奈川にもう一体敵が出現し、僕は気分が悪いと嘘を吐いて学校を早退し、これを倒しに行った。
平日に敵が出現した時のことを僕は深く考えていなかったと、この頃になって反省していた。学校にいる間に敵が現れる度、早退していたのでは怪しんで下さいと言っているようなものだ。楓のことを守ろうとしてとにかく付いていようとするあまり、こういった事柄への対策が抜け落ちていたのだ。
体育の授業は腕を怪我したとでも言っておけばどうとでもなるが、これだってずっと貫き通せる嘘じゃないのは明らかだった。僕の楓を守りつつ敵を倒してエンディングを迎えるという目論見は、最初の一歩から躓いていたのだ。
幸運なことに、神様に尋ねてみると次の発芽までは二週間近くかかるとの通告があった。この二週間の内に、敵の出現に対する身の振り方と、身体にできてしまったカサブタを誤魔化す方法を考えなくてはいけなかった。
僕は学校に行っても、隙さえあれば誤魔化す方法を考え続けた。思えばこれも馬鹿な行動だった。一番身近で僕のことをよく知っている人間が、四六時中上の空という様子の僕を見て疑わないはずがなかったのだ。
次の発芽予測まであと一週間という頃になり、家の前で楓が僕に声をかけてきた。
「ねえ悠斗。最近何か悩み事でもあるの?」
楓は若干疲れた顔をしながらも、僕に尋ねた。事件のこととかで、色々心労が溜まっていたのだと思う。
「え、な、何で?」
「何でって、様子が変だし」
「そ、そんなに?」
「うん。終業式の後みたい」楓が心配するような表情になった。「ねえ、この前約束したでしょ。もう二度と裏切らないし、頼ってくれるって。何かあるなら教えてよ」
楓の真っ直ぐな眼差しから、僕は目を逸らした。
正直に、言いたくて堪らなかった。僕が黒い怪物の中の人なんだって、打ち明けたかった。
でも、怖かった。打ち明けたら、きっと軽蔑されると思っていたのだ。いくら街の平和を守るとか言っても、僕が人を殺めてしまったという事実は覆らない。怪物になってしまった人を殺したし、無関係の人を巻き込んで殺した。状況が状況だったとしても、僕が殺したということに変わりはない。
それに状況というのなら、そもそも原因は僕だ。僕が主人公になりたいなんて神様に言わなければ、こんな馬鹿みたいな出来事はそもそも起きなかったのだ。
僕の中のヒーローになりたいという願望は、はっきり言って既に消え去っていた。僕の手では、一番大切な人さえ守れるか疑わしかった。これまでの戦闘だけでも、いつ楓が僕の手によって死んでいてもおかしくなかった。
この頃の僕は、ただただ逃げたくて仕方がなく思っていた。楓との縮まった距離に甘えていたのも、一種の逃避だったのかもしれない。
「何も……ないよ」
僕は楓から目を逸らさずに言った。楓は黙って僕を見つめ返し、しばらくそのままでいた。
楓の長いまつ毛を携えたくりっとした瞳は、何でもお見通しという風な空気を纏っていた。怖かった。怖かったが、ここで目を逸らしたら絶対に、もっと疑われると思い我慢を続けた。
「そう……。ならいいわ」
楓はそう言って手を振ると、自分の家に入っていった。声色から察するに、少なからず機嫌を損ねてしまったようだった。
そして神様が予告した日にち通り、次の敵が現れた。運良く現れたのは土曜日で、かつ神奈川県の中だった。この条件なら素早く事態を収められるだろうと、僕は”神様”に感謝していた。目の前にいる裸の少女ではなく、仏とかイエス様とか、八百万の神様とか、何かしらそういうものに、感謝を捧げた。
この時の僕は、ただ目の前の脅威を排除しようと視野が狭くなっていたのかもしれなかった。そして楓との仲がある程度修復されたことに、どこか油断めいたものもあったのかもしれない。
僕は全く気づかなかったのだ。
『蜥蜴』に変身しようと僕が物陰に入るその瞬間を、楓が見ていたことに。