一節 夏休みが終わった
『宿主』が全国各地に広がり、敵の発生が日本全土――二件だけ海外での発生もあったようだ――で散発的に起こるようになった結果、国民は揃って一つの行動を取るようになっていた。即ち、鎌倉及びその周辺への移住だった。
僕の学校の夏休みが終わる八月末日になると、多くの人間が鎌倉近辺への移住を終え、鎌倉は一連の事件が始まる前以上の賑わいを見せていた。鎌倉への移住が進んだ理由は、単刀直入に言えば僕の存在があったからだ。夏休み初日から数えて、日本に現れた敵の数は十四体で、その内僕が対処したのは五体だった。つまり、およそ一月で現れた敵の半分以上は鎌倉以外の土地に出現し、その全てを自衛隊が対処した。逆に鎌倉近辺に出現した五体は全て僕が倒した。自衛隊が対処した九体に比べ、僕が対応した五体の被害は格段に少なかったことが、鎌倉への移住が進んだ大きな理由だ。
ある程度は予期されていたことだが、『蜥蜴』の存在については、人類に対して少なくとも敵対はしていないという結論が世論を占めていた。これは僕が基本的に街の被害を最小限にするよう意識しつつ、迅速に敵を排除した結果だろう。
鎌倉へ移住する人間の多くが、日本のどこに現れるかわからない怪物に怯えて暮らすなら、せめて自衛隊よりも強い怪物が現れる鎌倉で暮らしたいと考えていたし、八月の終わりまでには、日本政府及びマスコミの連中は黒い怪物――『蜥蜴』のことだ――は鎌倉近辺にしか出現しないと結論づけていたから、それも影響していただろう。
鎌倉駅近辺の土地価格は一気に高騰し、売り出し中だった土地は全て飛ぶように売れてしまった。いつまで続くかわからない怪物騒ぎから、少しでも遠く離れるために僕が現れる土地に住もうと考えたのだ。
僕と楓の生まれ住んだ土地が徐々に変わっていくのと同時に、僕の身体にも変化が現れていた。
僕の左手は、手首を越えた辺りまで、あの黒いカサブタに覆われてしまっていた。
どうもこのカサブタ、僕が変身する度に傷口から拡がっていたらしく、練習も含めて夏休み中に何度も変身を続けていたらカサブタの範囲が大きくなっていた。
いくら刃物で削ろうと試みても、カサブタには傷一つ付かなかった。勿論手で剥がそうともしてみたが、僕の腕とかなり強い結びつきが発生しているらしく、取ろうとすると酷く痛んだ。生活する上での支障は特になかったので一旦カサブタを剥がすことは諦めたが、これからは敵が出ない限り変身しないことを僕は決めた。
恐らくこれも神様が与えた能力の代償の一部だと予測したのだ。このまま変身を繰り返すことで、カサブタの範囲が拡がるとどうなるのかわからない以上、無闇に変身を繰り返すことは得策とは言えなかった。それに夏休みの間で大分『蜥蜴』の操縦に慣れることが出来たから、本番だけの変身でも十分戦えると判断したことも、変身の頻度を下げた理由の一つだった。
普段出かける――そもそも出かける用事もあまりないのだが――時は左腕に包帯を巻き、念のため長袖の服を着て出歩いた。運が良かったのは、僕が変身する時に付けていた傷の大部分は手首周辺だったことだ。手のひらや指先にはカサブタがそれほどできていなかったので、手袋を付ける必要は無かった。
パンツのポケットにでも手を突っ込んでおけば、十分左腕全体を隠し通すことができたのだ。夏場の暑い気候の中長袖を着ているというだけでも相当目立つのに、これで手袋まで嵌めていたら注目されることは間違いなかっただろう。
夏休みの間に、僕は手持ちの予算で買えるだけの食品を買い込んだ。カップ麺中心になってしまったのは、楓に対して非常に申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまったが、こうせざるを得なかった。これから先も戦闘が続くであろうということを考えると、腕のカサブタが拡大していくことも容易に想像がついた。カサブタが拡大していったら、外には出られないと僕は考えたのだ。
そして夏休みが終わりを迎えた。
僕の通っている高校も当初は休校になる予定だったのだが、日本全国に『宿主』が分散し、敵が出現するようになったことで撤回された。政府からの発表で、怪物は神出鬼没で出現場所・時間の予測が全く出来ないため対策の取りようがない、普段通りの生活をして下さいというような要請が直接出されたからだ。
対策ができない脅威に対して、人間はあまりにも無力だった。政府発表を受けて、人が集まるようなイベント事の多くは中止になったが、逆に言えばそれぐらいしか出来なかったということになる。それに経済的な観点からも、脅威に対して過剰に怯えることで失業者が大量に出ることを憂慮し、政府も徐々に強く言えなくなっていた。
また、既に政府は例の『発芽』の映像を元に、条件は不明だが人間が化物に変化することも発表していた。誰もが疑心暗鬼になりながらも、自分だけは違うと信じて、生活を続けた。政府は国民の海外への渡航を禁止し、それに併せてアメリカや中国、それにロシアといった強国が、渡航制限を設けつつも、財政支援と、火力支援の約束を結んだ。
ただし、日本国内に外国人部隊を入れることは避けたかったらしく、自衛隊が使用する兵器や銃器の配備、そして被害が出た際の救助活動の受け入れ程度に留まった。現状出現していた全ての敵に、人類の兵器が有効だったことも影響していただろう。自衛隊だけで倒せない敵ではないと考えたのだ。
夏休みが明けた最初の日、つまり始業式の日、楓は僕の家にはやってこなかった。二度目の戦闘で喧嘩をしてから一度も家には来ていなかったから自然なことだったかもしれない。ただ意外なことに、この日の朝『遅刻しないように』という短いメッセージが僕のスマホに届いていた。何よりも嬉しかった。
僕は久しぶりに楓の顔が見たくなり、学校に行くことを決意した。楓の側についていたいという気持ちも大きかった。僕が家に引き篭って敵の出現を待つより、可能な限り楓と一緒にいて敵の出現に対してすぐに行動が取れるようにしたかったのだ。
学校に行くのを決めたは良いが、腕のカサブタを見られる訳にはいかなかったので、不自然であろうことは承知で包帯を巻くことにした。夏休みの間に外に出た時と同じだったが、それよりもキツく、厚く、絶対に隙間が空かないよう慎重に腕を覆った。大分不格好になってしまったが、怪我をしたという言い訳をするのにはおあつらえ向きだったかもしれない。
僕は家を出る前に、神様と話すことに決めた。次の出現時期を聞きたかったのだ。
「神様、ちょっと話をしない?」
「なんだ悠斗? 学校とやらに行くんじゃないのか?」
僕が声をかけると、何の予兆も見せずに神様が目の前に浮かんでいた。始めて会った時からずっとこの調子だから慣れたつもりではあったのだが、人間の当然の反応として、突然目の前に現れられると多少なりとも鼓動に影響するのは仕方のないことだろう。
「次の敵はいつ出る?」
僕は出掛ける用意を整えながら尋ねた。
「次は……四日か五日の内に芽吹くと思うよ」
神様が答えた。夏休みの間に気づいたが、この神様の予報も確実なものではない。四日か五日というのはあくまでも今のペースで成長したら、ということだからだ。種が欲望を吸い取って成長する以上、その速度にはムラが出るらしかった。四日か五日という予報でも、もしかしたら一日で芽吹くかもしれないし、逆に一週間以上音沙汰ない時もあるという訳だ。
僕にとってこの予報の的中率は、神様が少しだけ僕と近い存在のように感じられた。世界を創る神様でも、僕ら人間の心の機微は正確に読めないということがわかったからだ。いつ、どんな時に人が心を動かすか、そういう当たり前だと思っていた自由が、本当の意味で自由だと知った。僕達人間は神様を手助けするために作られた存在ではあるが、確かに自由な意思を持っているのだ。
「そか。ありがとう」
「どういたしまして」
僕がお礼を言うと、神様は再び姿を消してしまった。
筆記用具ぐらいしか入っていないスカスカのリュックを背中に背負うと、自転車に跨がり学校へ向かった。楓と鉢合わせることを少しだけ期待したが、それは叶わなかった。
学校に到着すると、僕はいつも通り駐輪場に自転車を止め教室へ移動した。少しだけ出たのが遅かったせいで、僕の到着はホームルームギリギリだった。教室の扉を開き、自分の椅子に座った。楓が一瞬僕を見たが、すぐに目を逸らしてしまった。
席につくと、僕は一つの違和感に気づいた。クラスの人数は変わっていないのだが、何人か見たことのない人間が居て、代わりに何人かクラスメイトが居なくなっていたのだ。
気になった僕は、後ろの席に座っていた加藤朋美、通称トモちゃんの方を振り返った。トモちゃんはスマホを弄っていたが、僕に気づき顔を上げた。
「おはようトモちゃん」
「……おはよう芹沢くん。どうかした?」
トモちゃんが尋ねた。
「あのさ、知らない人が数人増えてる気がするんだ。それに何人かいない奴もいるし。何か知らない?」
「ああ……、あんた知らないんだ?」トモちゃんは憐れむような視線を僕にやってから、口を開いた。「いなくなったのは死んだかなんかでもう鎌倉にいない子よ。増えたのはそいつらの代わりにこの辺に引っ越してきた新しいクラスメイト。数が多いから、『転校生を紹介します!』みたいなのはやらないんじゃないかって、噂」
「死んだ……?」
「例の怪物騒ぎよ。っていうか、芹沢くんこそ平気なの? その腕、巻き込まれたんじゃないの?」
トモちゃんが僕の左腕を指して言った。
「あ、ああ、これね、大丈夫だから心配しないで。ほら、お医者さんって、ちょっと過剰に騒ぐような嫌いがあるでしょ?」
「そうね。まあ大丈夫ならいいんだけど」トモちゃんが少しだけ笑みを見せて言った。だがすぐに何かに気づいたように目を丸くした。「あれ? 湊さん、こっち見てる」
「え?」
僕はトモちゃんに言われ、楓の席を見た。楓と一瞬目が合ったが、楓は何度か俯いたり左右を見たりということを短く繰り返してから、サッと顔を逸らし何も書かれていない黒板を見つめ出した。
「……あんた湊さんと何かあったの? 確か幼馴染だったよね」
「あー……ちょっと、喧嘩しちゃって」
トモちゃんに尋ねられ、僕はあの日のことを思い出しながら答えた。僕の顔を見て、トモちゃんがため息をついた。
「芹沢くん、顔ヤバイよ。なんかもう、死を通り越して逆に生き返りそうなくらいヤバイよ」
「意味分かんないよ」
「そんぐらいヤバイ顔してるってこと。何があったのか知らないしあんま余計なこと言いたくないけど、早めに仲直りしときなさいよ。正直、いつ死んでもおかしくないような状況なんだからさ」トモちゃんが僅かに暗い顔になった。「学校行ってる場合じゃないとは思うんだけどね。他に何もできないし、どこ行っても安心出来ないし。だったらまだ鎌倉にいた方がマシってだけ。やー、暗くなるわー……」
「はは……、そうだね」
僕は乾いた笑い声を出して相槌を打った。トモちゃんが釣られるように笑い息を吐いた。
「まとにかく、そんな訳だから早めに仲直りしな。ぶっちゃけ、好きなんでしょ、湊さんのこと」
「そ、そんなこと……」
「ないって言い切れる?」僕が言い淀むと、トモちゃんはグイッと顔を近づけてきた。「いい? 早く仲直りするの。さっきも言ったけど、どうなるかわかんないんだから、気持ちは伝えられる内に伝えた方がいいよ」
トモちゃんに言われ、僕はなんとなく楓の席をもう一度見た。楓ともう一度目が合ったが、すぐに楓はそっぽを向いてしまった。
「…………まあ努力するよ。気持ちを伝えるとかは関係なく、楓が死ぬなんてことはないけどね」
僕は明後日の方向をひたすら凝視している楓を見つめたまま言った。
「ひゅーっ、お熱いねぇ。湊さんの騎士って訳だ」
トモちゃんが囃し立てた。
「そんなんじゃないよ」
僕は笑いながら、ひらひら手を振り、姿勢を正した。
僕は怪物だ。騎士なんていう格式高い存在にはなれっこない。僕は黒板に残るチョークの跡を見つめながら、そんな風に考えていた。