三節 甘えたかった
結局その日予定されていた終業式は中止になった。突然現れた二体の怪物によって巻き起こされた被害は大きく、学生と教師が十人犠牲になった他、重軽傷の怪我人が大量に出た。あの肉の花から出て来た高木先生も、病院内で息を引き取った。
新聞でもこの騒動は一面に取り上げられ、連日学校の周りにはテレビの取材が入っていたらしかった。学校は夏休みの諸注意をウェブサイトに公開したが、連日の報道の影響でアクセスが集中し、学校のサーバーがパンクしていたせいで、肝心の学生はほとんどが見ていなかったようだ。
当然僕の母も連絡を寄越したが、僕は心配無いから帰らなくても大丈夫と言い張った。母をこちらに戻して、万が一があったらと考えたら、そうするしかなかったと思ったのだ。
僕はあの日以来、三日以上一歩も家から出ていなかった。腹が減った時とトイレに行く時以外はずっとベッドの上で膝を抱えて、事態を呑気に捉えていた自分を嫌悪して塞ぎ込んでいた。
偶然枕元に置いてあったスマホが目に入り拾い上げた。母と連絡をしてから一切見ていなかったスマホには、メールと電話の着信通知が大量に残っていて、全て楓からのものだった。楓は終業式の日から毎日連絡し続けてくれていたようで、そのどれもが僕の身を案じる内容だった。楓から心配してもらえたことが嬉しかったのか、僕は少しだけ心が軽くなったような気がした。
楓から送られたメールを見たり留守電を聞いていると、玄関のチャイムが鳴らされた。終業式から誰も訪ねて来ていなかったし、どうでもいいかと思って再びスマホに目を落とした。
しかし、二度三度と繰り返しチャイムが鳴ったかと思うと、怒涛の勢いでチャイムが連打され始めた。堪らず僕は重い足取りで玄関まで赴き、ドアのチェーンロックを掛けたまま扉を半開きにした。空いた隙間から楓の顔がぬっと出て来た。
「居るならさっさと出てきなさいよ、悠斗の癖に心配させるなんて生意気よ」
僕は無言で扉を閉めようとしたが、楓の手が割り込んできたので中断した。
「ちょ、なんで閉めようとするのよ。……っていうか悠斗大丈夫なの? 髪ボサボサだし、なんか顔色悪いよ。……あとちょっと臭い」
楓から臭いと言われたことで、僕は初めて風呂にもずっと入っていなかったことを思い出した。
「ごめん……、風呂入るの忘れてた……」
「えぇ? 忘れてたって……」
楓は呆れたような声色になって言った。
「とにかくカギ開けなさい」
「え、なんで……?」
「いいから。開けなさい。『命令』よ」
楓は有無を言わせぬ様子で僕に言った。
幼い時、まだ僕が楓と一緒に遊んでいた頃は、楓はよく僕に命令をして色んな場所に連れ回したものだった。こうやって命令をされるのは何年ぶりのことだっただろうか。
久しぶりのことに戸惑いはしたが、命令する楓に逆らうことは許されないことだけは、長いこと楓と遊んでいなかったこの頃の僕でも、よく覚えていた。
仕方なく僕は、一度扉を閉めるとチェーンロックを外した。音を聞いていたのか、楓はすぐさま扉を開き中に入り込んできた。靴を乱雑に脱ぎ捨てると、ズカズカと中に入っていってしまった。
僕は楓が脱ぎ捨てていった靴を綺麗に揃えると、楓を追って居間に入った。居間に侵入した楓は冷蔵庫の中を何やら吟味している様子だった。
「信じらんない、飲み物しか入ってないじゃん。悠斗、ご飯どうしてんの? おばさん今出張中でしょ?」
「……カップ麺、食べてる」
正直答えるのも煩わしかったが、ここで嘘を吐くと碌なことにならないのは分かっていたので、僕は自分の食生活を白状した。
「あんたねぇ……。ちょっと出るから、鍵寄越しなさい」
楓に言われ、僕は仕方なく引き出しから合鍵を取り出して楓に手渡した。
「私が出てる間にまたチェーン掛けたら許さないからね。鍵だけかけて、私が戻るまでにお風呂入って……お湯溜まってないか、シャワーでいいから浴びときなさい。いいわね? 『命令』よ」
早口でまくし立てると、楓はさっさと家を出て行ってしまった。一人残された僕は、楓の『命令』に逆らう気力も無かったので、のろのろとシャワーを浴びるため浴室へと足を向けた。
頭からお湯を被ると、打ち付けられる水の感触と暖かさに、僕は幾分か後ろ向きだった気分もマシになった気がした。物理的に身体が暖まったことで、血の流れが良くなったことも影響していたのかもしれない。
シャワーを終え浴室を出ると、着替えを用意し忘れていた上に、タオルも脱衣所に常備してある分は使いきってしまっていたことに僕は気がついた。
このままでは楓が戻ってきた時に何を言われるか分かったものじゃなかったので、僕はびしょ濡れのまま自室に戻り、適当に予備のタオルを引っ掴んで身体を拭いた。下着とジーンズを履いたが、体の水分が拭き切れていなくて、肌に張り付くような不快感を感じた。ため息をついて部屋の中に立ち尽くしていると、玄関の方から鍵を開ける音が聞こえてきた。楓が戻って来たようだった。
濡れた廊下を見たのか、楓が僕の部屋に飛び込んできた。楓は僕の姿を見て目を丸くして、すぐに悲しそうな表情になった。
「悠斗、なにしてんの……?」
「……あ、ごめん、タオル、全部洗濯してて。こっちに取りに来てたんだけど」
僕は床に転がっていたバスタオルを指差した。
「悠斗、ホントにどうしちゃったの? 終業式の前に会った時は、もっと……元気だったじゃん」
「……そうだね。うん……、ごめん……」
「謝らないでよ……。とにかく、ちょっと待ってて」
楓は走って部屋を出たかと思うと、脱衣所からドライヤーを取って戻って来た。僕を椅子に座らせると、ドライヤーを温風に設定して僕の頭を乾かし始めた。楓の指が頭に優しく触れる感触が気持よくて、僕はしばらくの間されるがままになっていた。楓がドライヤーのスイッチを落とすと、クローゼットを漁って適当なTシャツを取り出した。
「とりあえずこれ着て。ほら」
楓に催促されて、僕はシャツを受け取り頭から被った。楓から心配されるという貴重な状況に、僕はどこか甘えたがっていたのかもしれなかった。
「よし。お風呂も入ったし、後はご飯ね」
そう言って楓は僕の手を取り、居間へと向かった。居間に置かれたダイニングテーブルには袋がいくつか置かれていた。
「ちょっと座って待ってて」
「う、うん……」
楓に言われ僕は椅子に座った。楓は袋を取ってキッチンに向かうと、袋の中から鶏肉と玉ねぎ、それと卵を取り出した。シンクに積まれていたカップ麺の空き容器を適当に退かして、準備を整えると、棚から包丁やまな板を取り出し調理を始めた。
僕は言われた通り座って待っていたが、疲れが溜まっていたのか、気づくとテーブルに突っ伏して寝ていたらしかった。鼻腔の中にいい匂いが漂ってきて、僕は意識を覚醒させた。すぐに目の前に丼が一つ置かれた。親子丼が温かそうな湯気を上げていた。
「体調的にちょっと重いかも。とりあえず、残してもいいから食べなさい。少しはちゃんとしたもの食べないと本当に倒れちゃうわよ」
楓が向かいの席に座りながら言った。僕は目の前に置かれた箸を手に取り、親子丼に口を付けた。一口目は胃がびっくりして受け付けなかったのか、吐きそうになってしまったが、二口目からはそんなこともなく、僕は次々とご飯を口に運んでいった。
丼が空になるのを見計らって、楓がお茶を淹れてくれた。僕が親子丼に夢中になっている間に茶葉を探し回ったらしく、キッチンの周りが少しだけ散らかっていた。
僕は湯のみを手に取り熱い緑茶を啜った。シャワーと違い、身体の芯から暖められるような気がした。
「――それで、あの日……やっぱり何かあったの?」
楓が切り出してきた。僕は、やはりこの話題か、と少しだけうんざりした気持ちになっていた。
「……そりゃ、あったさ。色々、酷かったでしょ? あれ見て……ちょっと参っちゃったんだ。……それだけだよ」
僕は少ししゃがれた声で言った。
神様のことや変身能力のことを話しても、信じてもらえる訳がないと思い、僕は曖昧に濁してしまった。楓に軽蔑されるのが嫌だったのかもしれない。
楓は黙って僕のことを見ていた。じっと見られて汗をかいてしまったのは、やはり正直に話さなかったことが、罪悪感のような形で反映されたのだろうか。
「……とにかく、あんまり心配させないで。あんな……化物が二匹も出て来て、普通じゃないんだからさ。せめて、メッセージくらい、ちゃんと見てよ」
「ごめん、気をつける……。あ、あと、ご飯ありがとう、美味しかった」
「お粗末様。片付けは自分で出来るよね?」
楓は立ち上がって言った。
「うん……。大丈夫」
「じゃ、後はよろしくね。あたし家に戻るわ」
玄関に向かって歩こうとした楓が、立ち止まって僕の方を振り返った。
「悠斗、何か困ってるならちゃんと言いなさいよ? ご飯くらいだったらまた作ってあげてもいいから」
「……わかった。ありがとう、楓」
「あと……、あー……その……ごめん! やっぱ、なんでもない」
珍しく歯切れの悪い言い方をしたと思ったら、楓は途中で言うのを諦めてしまった。
「かえって気になるんだけど」
「いいでしょ別に。じゃね、悠斗」
見送る暇さえ与えず楓は嵐のように去っていってしまった。
ただこの時、僕は自分を心配してご飯まで作ってくれた楓を見て、少しだけ気分が晴れていたことに気づいた。そして同時に、僕がこのまま塞ぎ込み続けたら、楓の命も危ういことに気がついたのだ。
その日の晩、僕は楓に言われたにも関わらず、夕食をカップ麺で済ませるという情けないことをしてから、自室に戻りベッドに腰掛けた。ここ数日と違い、しっかりと電気は点けておいたので、楓も恐らく心配はしないだろうと思っていた。
「……神様、聞こえる? ちょっと話がしたいんだけど」
僕はこれからのことを考えるために、神様ともう一度話をする必要があると思っていた。最善の方法はわかりきっていた。神様に相談して、僕が主人公になったというこの物語をすぐさま中止してもらうのだ。
「やあ悠斗、何か用かい?」
僕が瞬きをしたその一瞬の間に、神様は僕の目の前に浮かんでいた。相変わらず唐突な出現で、しかもこれまで同様裸の状態だったが、少しだけ慣れてきた自分がいた。ここまで堂々とされると目を逸らそうという気さえ起きなかった。
「相談があるんだ。……この物語、中止出来ないかな。僕は別に主人公にならなくていい。これまで通り神様が望む、世界を作る人間であれば幸せなんだよ。だから……お願いだ、種を植えた人を解放して、もう、この前みたいなことは起きないようにして欲しい」
「それは無理だな」
神様は即座に僕の訴えを払い除けた。
「どうして!?」
「私がそうしたいからだ。一度始めた物語を止めることは私の……そうだな、流儀とでも言おうか――私の流儀に反する。それに私自身、色々と初めての体験でね。純粋に興味があるんだ。悠斗がどういう風に物語を進め、結末を見届けるのか。……そういう意味では、今の悠斗の振る舞いは最悪だな。一度始めたことには責任を持ち給えよ。これは君が望んだから始まった物語だ、それを無かったことにしようだなんて許されると思うかい?」
僕は内心、やはりか、と思っていた。終業式の時にも感じたが、神様は僕達人間とは考え方が少しズレている。僕らの価値観で話していても、神様はそれを持っていないから、いくら説得しても無駄なのだ。
万が一神様がこの物語を止めてくれるとしたら、恐らく全人類が明日にでも滅ぶくらいの危機が迫らないと無理だろう。
それ程までに話が大きければ、僕らの住むこの世界は元々神様が楽をするために作ったものなのだから、物語を止めてくれるかもしれない。ただ、僕に用意された現状の『舞台設定』では、物語の中断が不可能なのは火を見るよりも明らかだった。
「話はそれだけかい?」
神様がベッドの前でふわふわと浮きながら言った。
「いや、まだある」
交渉が失敗することは想定済みだったので、僕は予め用意していた次の質問に移った。
「敵について、教えて欲しい。数とか、いつどこに現れるか、とか」
「ふむ……。数については君次第、とだけ言っておこう」
「どういうこと?」
意味が分からず僕は尋ねた。
「私は既に三百人以上の人間に『種』を植えているんだが……」
「ちょっと待ってよ!? 三百人以上!?」
あまりに大きな数字に僕は思わず口を挟んだ。
「そうだ。と言っても、種が芽吹くために必要な欲望の大きさは人それぞれだから、全員がすぐに発芽する訳じゃない。寿命を終えるまでずっと発芽しない人間もいるだろう」
「寿命を終えるまでってことは、発芽する前に死ねば、その人はもう化物にはならないの?」
「ならない。極端な話だが、宿主を特定して変身する前に殺せれば、悠斗が気にしている他の人間への被害は出ないな」
「種が植えられているかを見分ける手段は?」
僕の質問に、神様は呆れた顔になった。
「それはない。もちろん私には分かるが、君には教えない。私が教えるのは、敵が現れたかどうかと、そいつの大まかな場所だけだ。これはあくまでも君の物語、ということを忘れちゃいけないよ、悠斗。私は最低限の助言しかしない。積極的な介入をすることはあり得ないんだ。君ができることをして、君だけの物語を作るんだ。さっきも言ったが、私の興味は今、悠斗という人間が、どんな物語を作るか、というところにあるんだよ」
「……僕へのお礼っていう話じゃなかったのか?」
「それももちろんあるよ。だから最初に、物語の主人公になりたいかって聞いたじゃないか。物語の主人公になるべく、この状況を作ったことこそが、君に対する私からの礼だよ。フィクションのような力を与えた、敵も作った。世界の創造主が一個人のために普通こんなことするかい?」
神様は空中を回りながら僕に言った。
「……敵の数は僕次第って言ったよね。それってどういうことなの?」
僕は苛つく気持ちを抑えながら神様に尋ねた。
「君がある条件をクリアした時、私は全ての種を排除するつもりでいるんだ。物語の終着点の一つだと考えてくれてもいい。どんな条件かは、もちろん話さないよ」
神様に先手を打たれてしまった。
「つまり……、大きく分けると僕は二つの手段が取れるのかな。一、三百以上の全ての敵を倒す。二、神様が考えている条件をクリアして、種を除去してもらう。合ってる?」
言っていて気づいたが、敵を倒しきる前に僕が死んでしまったらどうなるのだろうか。しかし僕は自分が死ぬことを考えたくなくて、それを思考から追い出した。
僕の質問に、神様は空中で逆さまになりながら首を横に振った。
「合ってるが、足りない。君が取れるのは四つだよ、悠斗」
「四つ?」
「ああ。二つはさっき悠斗が言ったとおり。三つ目は、敵が出ても何もしないで放置し続けること。四つ目は、敵が現れる前に付近の人間を片っ端から殺していくことだ。ああ、言ってなかったかもしれないが安心してくれ。種を植えたのはこの近くの人間だけだよ。海外なんかの遠い場所に敵はいない」
神様に言われて、僕は初めてこの二つの選択肢に気づいた。だが、気づいても意味が無かった。どちらの選択肢も尋常じゃない量の死人が出てしまう。僕にはそんな狂った手を取ることは出来なかった。
「他に質問はあるかい?」
神様が僕に尋ねた。僕はやや悩んでから口を開いた。
「……楓に種は埋まってる?」
「楓……ああ、隣に住んでいる君の幼馴染だったか。……ふむ、仕方ない。特別サービスで教えてあげよう」
そう言って神様は少しだけ目を瞑ると、すぐに首を横に振った。
「その子には埋めてないね。私が設定した、種が育つような欲望を持っていなかったらしい」
僕はほっとして息を吐いた。現状母を除いて一番近い人間を殺すような事態にならなかったことに、心から安堵していた。だが、ここで終わってはいけなかった。楓を無事に生き残らせるには、これから現れる敵を、周囲に被害が出ないよう可能な限り迅速に倒す必要があった。
「最後にもう一つだけ教えてほしい」
僕は顔を上げて神様を真っ直ぐ見つめた。神様は反転して顔の向きを僕と合わせると、目線を合わせて聞き返した。
「なんだい?」
「次の敵はいつ現れる? 大体でいい。それまでに、僕は自分の能力で何が出来るか、調べたいんだ。そして、次の敵が出たら……なるべく被害を出さずに、収束させたい」
神様は少しの間僕を見つめると、仕方がないという風な様子で一度目を瞑った。少しして口を開いた。
「次の発芽は……このペースでいくと、多分一週間ちょっとだろう」
「ありがとう。助かる」
「どういたしまして」
僕が礼を言うと、神様は気にした様子を見せずに目の前から忽然と姿を消してしまった。これ以上は話さない、という意思表示のつもりなのだろう。
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その日から九日間、僕は人気のない深夜に自転車で山を一つ越えた先の工場地帯に向かうと、外れにあった廃工場に忍び込むようになった。新しい身体の操縦練習をするためだ。
初めは守る対象が近くに居ないのに変身できるのか悩んだが、守るための練習なのだから、と言い聞かせて手に傷を作ってみたら、あっさりと変身できてしまった。もしかしたら、化物になりたい、という意識の方が重要だったのかもしれない。
この九日間の練習で僕は、変身した姿――僕はこれを敵と区別するために、『蜥蜴』と呼ぶことにした――に関して、操作技術以外にもいくつか特徴と言えるものを見つけることに成功した。
まず『蜥蜴』の運動性能の高さである。細い手足になぜそれ程の力があるのかは分からなかったが、十五メートルはあると思われる壁も、容易に跳び越えることが出来てしまった。この時は試さなかったが、装甲の硬さも合わせて、厚い鉄板すら容易に貫けるような力が手足に備えられているようだった。
終業式の日に僕が直感的にやった、地面を這って移動する体勢を取ると脚力を最大限に発揮できるようで、高速で移動することも可能なようだった。僕は九日間で身体の動かし方を特訓し、全力を出して這えば電車並みの速度まで加速できる程になっていた。
次に、『蜥蜴』と化した僕に生まれた新しい部位の尻尾の利用法も模索した。どうやらこの尻尾、神経のようなものが通っているらしく、少し練習すれば第三の腕のように自由に動かせるようになった。手と違って細かい動作は出来ないが、何かに巻き付けて潰したり、固定するのに使えそうに思えた。
尻尾も手足と同様かなりの怪力を出せるようで、試しに持ってみたドラム缶は、大して力を入れたつもりじゃなかったにも関わらず、ぺちゃんこに潰れてしまった。使い所をしっかりと見極めることが出来れば、敵との戦いでも使えるだろう。
更に続いて、視力と聴覚、そして嗅覚だ。そのどれもが人間の時とは比べ物にならない程鋭敏になっていた。ただし聴覚と嗅覚に関しては少々調整の必要があるようで、聞きたくないものや嗅ぎたくないものを意図的にシャットアウトすることが必須だった。試しに犬の糞を拾って置いておいたのだが、鼻が曲がってその日は練習どころでは無くなってしまった。
最後に装甲について。終業式の時の体験で分かってはいたが、かなりの強度があるようだ。神様は人類の兵器で『蜥蜴』を傷つけることはできないと言っていたが、あながち冗談でもなさそうだった。
部位によって硬度が変わっていて、身体の一部に生えた棘のようなパーツを除けば、全体的に軟体質になっていた。この柔らかい肌で衝撃を殺しているのだろうかと僕は思ったが、すぐに神様が与えた力だし科学的な考察は無意味だろうと気づいた。
身体を覆う棘は対照的にかなり硬くなっているようだ。終業式に高木先生が変身した肉の花が『蜥蜴』に巻き付いた際、触手や茎が棘に刺さっていたことからも予測できた。
見た目が気味の悪いトカゲのようであること以外は、神様が言っていた通り、主人公らしい強い能力のようだった。ファンタジーの世界に出てくる、古典的なドラゴンの姿になっていたらよかったのに、と僕は特訓をしながら何度も考えてしまった。
九日目の特訓を終え、僕は家路についていた。ママチャリを立ち漕ぎで走らせながら、工場地帯を抜けて住宅地に入っていった。家の近くに来る頃には、朝日が昇りかけていて、閑静な住宅街は白み始めていた。
家に差し掛かる最後の曲がり角を通った瞬間、僕は信じられないものを見て、思わず自転車を停めてしまった。急ブレーキを掛けたせいで大きく音を立ててしまい、僕の家の前で仁王立ちしていた人物が、僕の存在に気づいた。楓だった。大股で近寄る姿には鬼気迫るものがあり、僕の思考からは一瞬で『にげる』コマンドが消え失せてしまっていた。
「悠斗! あんたどこほっつき歩いてたの!」
楓は僕の側まで駆け寄ると、怒鳴るようにして詰め寄った。
「あ、歩いてないよ。自転車だから」
「屁理屈言わないで!」
「ご、ごめんなさい」
僕の微かな抵抗は、楓の怒りを増幅させただけだった。
「今、どういう状況か分かってんの!?」
正確にこの状況を知っている人物は本当は僕だけなんだ、とは言わなかった。かえって楓を怒らせるだけだと思ったからだ。
「お願いだから、大人しくしててよ……」
楓は僕のことを余程心配してくれていたのか、嗚咽を漏らしてしゃがみ込んでしまった。
「ご、ごめん……。でも、理由があったんだよ。本当に」
「あたしに黙って、深夜に何度も出掛ける理由って、何よ……」
「……それは……ごめん、言わない。言っても信じてもらえないと思うから、言えない」
僕がそう言うと、楓は立ち上がった。悲しそうな表情で僕を一度見て言った。
「もう……知らない…。あたしは…悠斗のこと、信じてたのに……。なんで何も話してくれないの!?」
吐き捨てるように言うと、楓は走って自分の家の中に入っていってしまった。
「……何だよ……。何なんだよ……」
少しの間立ち尽くしてから僕は独り呟き、自転車を押して家に向かった。そうして門をくぐって自転車を立て掛けた時、目の前に神様が現れた。
「やあ、悠斗。時間だよ」
「敵が出たのか!?」
「その通り。今芽吹いてる最中だ。……家の中だね。宿主は寝ていたようだ」
「案内しろ!」
僕は鞄の中から小さなナイフを取り出しながら怒鳴った。
「言われなくても」
神様が先導するように空中を移動し始めた。
僕は神様を追いかけながら、周りに人が居ないことを確認して、ナイフを左手に突き刺した。
僕は『蜥蜴』に変身し、次の敵――二匹目、それとも二人目と言うべきなのだろうか。どちらが正解なのかは分からなかった――が出現した場所に向かって、早朝の住宅街を走り抜けた。
「あそこだ」
神様が路地の一角に指を指しながら言った。木造の小さな二階建てアパートの屋根を突き破り、細長くて巨大な腕のようなものが何本も蠢いている。高木先生が入っていた肉の花の触手に似ているが、こちらは関節に当たる部分があるらしく、『触手』ではなく『腕』と形容するほうがそれらしい見た目をしていた。
アパート周辺の住民が異変に気づき、外に飛び出してきた。腕から逃れようとしていた住民が僕に気づき、ある者は卒倒し、またある者は恐怖にかられ絶叫した。それを聞いた他の住民が窓を開けて僕を見つけ、こちらも叫び声を上げた。
僕は這い回る体勢から直立体勢に戻り、アパートに向かって歩き出した。この狭い住宅地では這って進むより、手を自由にして動いたほうがいいと判断したのだ。
路地に出ていた住民達が、僕から逃れようと塀を乗り越えてくれたおかげで、偶然にも道が開き僕の進路が出来上がった。僕は速度を上げて駆けると、『腕』目掛けて跳躍した。アパートの屋上に着地しようとしたが、木造の古い屋根では『蜥蜴』と化した僕を支えることが出来ず、屋根を突き抜けてしまった。
僕は思わず悪態をついたが、言葉の代わりに喉の奥から唸り声が上がった。人間の時のように喋れないのはこの姿の最大の難点かもしれなかった。恐らく、他の人間に協力を頼めないよう神様がそういう風に作ったのだろう。
首から上だけ屋根の上に出るというお粗末な状態に僕は陥っていた。内心でアパートの管理者に謝りながら、僕は身体を捻って屋根を破壊しようとした。しかしその瞬間、下半身を何者かに掴まれ、僕の身体はアパートの中へと引き込まれた。
尻もちをついたような体勢になってアパートの中に入ると、僕の目の前に大量の腕が現れた。アパートの壁や床は一面腕に覆われていた。人間サイズの腕から巨人のような腕など様々な種類があり、その内の何本かが僕を掴んでいた。
僕を掴んだ腕が勢い良く動き始め、僕はアパートの壁を突き破って外に投げ出された。隣家の壁をも突き破り、一つ隣の路地に飛び出してしまった。道路に叩きつけられ、無意識に僕はもう一度唸り声を上げた。
装甲に傷は全く付いていなかったが、僕はいいようにやられてしまったことに腹を立てていた。勢い良く立ち上がると、アパート目掛けて地面を蹴って跳び上がった。今度は屋根から突き出ている腕を伝って、根本の本体を直接叩くつもりだった。
結果から言えば、その考えは合っていたらしい。
腕に飛び付いて部屋の中を覗き見ると、大きな腕を生やした何かが居た。肉のさなぎを中心に、腕から新しい腕が生え、部屋中を満たしていた。
僕は腕から飛び降りると、腕の生えた肉のさなぎに向かって爪を突き立てようとした。しかし、肉のさなぎは大量の腕を犠牲にしながらも僕の爪を防御し、残った腕で僕の身体を包み込むようにして持ち上げると、驚くべき跳躍を見せ屋根を突き破った。
様子を窺っていたらしい住民の叫び声が木霊した。いつの間にか警察の車両やマスコミの報道ヘリなどがアパートの周りに集まっていた。戦闘の邪魔でしかなかったが、巻き込むわけにもいかなかった。僕は少し力を入れて拘束を解くと、肉のさなぎにもう一度爪を立て始めた。
大量の腕が僕を振り解こうと、身体を鷲掴みにしてきた。腕による妨害に僕が堪らず唸り声を上げると、遠巻きに見ていた警官とマスコミたちが悲鳴を上げて距離を取った。
肉のさなぎはもう一度僕を持ち上げると、今度は身動きが簡単に取れないように四肢を一本ずつ拘束してきた。どうやら、敵の怪物にも知能というものが存在していたらしい。
肉のさなぎは残った腕で蜘蛛のようになりながら、僕を家の壁に叩きつけながら前進を始めた。塀どころか家まで破壊しながら猛スピードで走り続けたが、『蜥蜴』になった僕にとっては痛くも痒くもない攻撃だった。ただ、建造物への被害と、逃げ遅れた住民を巻き込む可能性が非常に高かった。ある意味では、僕にとって非常に有効な攻撃だとも言えただろう。
僕は唯一拘束されないでいた尻尾を動かし、思いっきり力を込めて肉のさなぎを貫いた。先端の硬い棘が肉のさなぎの中に埋まった。どこから声が発せられているのかはわからなかったが、肉のさなぎは異常に甲高い叫び声を轟かせ、バランスを崩して地面を転がった。僕も地面に投げ出されたが、すぐに体勢を立て直し肉のさなぎに飛びかかった。
尻尾で貫いた穴に両手を突き刺し、前にした時と同じように左右に開いて肉のさなぎを割ってやった。切れ目から大量の体液が吹き出し、周囲を茶色く汚していった。巻き込まれた住民が体液にまみれながら慌てて駈け出した。
肉のさなぎの中に、女性が取り込まれていたのを僕は見つけた。女性を握り潰さないよう細心の注意を払いながら、女性と同化していた肉の繊維から引き抜いた。
僕が女性を足元に落とすのと同時に、肉のさなぎと、そいつから生えていた大量の腕が煙を吐き出しながら溶けていった。どうにか二体目の敵も倒せたようだった。
僕はゆっくりと立ち上がった。住宅地で戦闘を始めてしまったのは失敗だったと評価するしかなかった。家やアパートを大量に破壊してしまったし、僕と肉のさなぎが何人も轢き殺したであろうことは間違いなかったからだ。消防車とパトカー、それに救急車のサイレンの音がひっきりなしに鳴り響いている。マスコミのヘリが集まってきて、上空を旋回していた。僕のこの姿が、全国ネットでお茶の間に配信されていたのだ。
ここから逃げなくてはならなかった。
僕は警察やマスコミに追われる存在だ。絶対に人の目につかない場所に隠れ、変身を解かなくてはならない。ただ、それさえこなせれば逃げるのは簡単だった。『蜥蜴』から僕に結びつくものは何もないのだから、人間の姿にバレずに戻り、何食わぬ顔をして家に帰ればいいのだ。
僕は家を踏み潰さないようジャンプする力を調節しながら、路地をいくつも飛び越えて住宅地からの脱出を図った。上空から見張られた状態では変身を解除できないので、僕は裏山を目指すことにした。山の中に入りさえすれば、木が隠れ蓑になってくれるだろうと考えたのだ。
僕はグルグルと迂回しながら裏山を目指し、林の中に飛び込んだ。木々の間を縫うように進み、窪みを見つけると中に飛び込んで変身を解除した。
肩で息をしながら周囲を見渡し、山を下った。周囲に警官やマスコミが潜んでいないか確認しつつ、僕は住宅地の中に戻って行った。気づけば、日はすっかり高く登っていて、神様もどこかに消えていた。
僕は疲れて重くなった足をひきずるようにしながら自宅へと舞い戻った。家の近くに来ると、僕は念のため楓が待ち構えていないか、角から顔を慎重に覗かせて確認した。家の前には誰もいなかった。
家の中に入ると、リビングに向かった。テレビのニュースを確認するためにリモコンを取る時に、左の手のひらに小さな黒い点が付いているのを僕は見つけた。
「……なんだ……これ?」
僕は呟きながら左手を開いて見た。『蜥蜴』に変身するためにつけた傷口に、赤黒いカサブタのようなものが出来ていた。
まるで『蜥蜴』の外皮、装甲のようなカサブタだった。