二節 花が咲いた
翌朝、目を開けると目の前に大きな灰色の瞳が僕の顔を覗いていた。神様が僕の顔を覗き込んでいたのだ。
「うわぁあ!?」
驚いて僕が飛び起きるのに合わせて、神様の身体がそのまま後ろへ宙をスライドした。
「やあ、おはよう悠斗」
何もなかったように、神様が浮かんだまま僕に声をかけてきた。神様の姿は昨日僕が想像したままの姿で、相変わらず生まれたままの格好だった。
「お、おはよう、神様……。っていうかやっぱり裸なんだ」
「なんだうるさいな……。私に服を着るという概念はないぞ」
神様が表情を変えずに空中で言った。
僕は心のどこかで、昨日の出来事は夢だったんじゃないかともほんの少しだけ考えていたが、神様の姿を家の中で見たことで、その考えはすっかり崩れ去ってしまった。
「昨日言った通り、準備が出来たから来たよ、悠斗」
神様が部屋の中を覗きながら言った。
「準備って、僕を主人公にするって話のこと?」
僕は開き直って神様を見ながら言った。
「それ以外に何があるって言うんだい。悠斗が寝てる間に、なるべく君の要望に応えたトクベツな力を与えておいたんだけど、どんな力か聞きたいかい?」
僕は頷いて、神様の言葉を待った。
「君には強い存在に変身する力を与えたんだ。悠斗が言っていた、強くて怖いもの、ドラゴンとか、ホラー映画に出て来そうな奴になれる。一度変身すれば、どんな人間だって一撫ですれば殺せるだろう。逆に、この世界の技術力じゃ、どれだけ攻撃されても死なない強靭な身体も手に入る」
「殺すって……」
少し物騒な言葉が聞こえてきて僕は声を挟んだ。神様は気にせず続けた。
「悠斗が無条件に強い力は嫌って言ってたから、変身する条件も付けたよ。ずばり自傷行為だ」
「自傷行為?」
神様が空中でくるくる回りながら答えた。
「そうだ。頭の中で何かを守りたい、と考えながら身体を傷つければいい」神様が僕の前で静止して一本指を立てた。「ただし! 身体を殴る、とかじゃ変身できないから気をつけ給え。変身した時に悠斗本体を覆う物体……装甲としておこうか。この装甲は、君の血液を憑り代にしているから、血を外に出さないと装甲を形成できないんだ。手っ取り早く変身するなら、刃物か何かでちょっと指でも切ってやればいい」
「なるほど……」僕は顎を撫でながら神様に尋ねた。「ところで、普通に生活しててこの能力を使う機会なんて、全く無いような気がするんだけど」
戦争でもしているならまだしも、この平和な日本で、ただの高校生がどんな人間でも殺せる力を持っていても役に立たないことは明らかだった。付け加えるなら、別に僕は虐められたりしていなかったし、かと言って喧嘩が好きなタイプでもなかった。たとえそうだとしても、ただの喧嘩でいちいち人を殺しているような奴は、どう考えても主人公じゃなくて悪役だろう。
「その点は心配ない。私はこの世界に介入して、君を主人公に仕立てた訳だが、ちゃんと物語のルールやお約束は把握しているつもりだよ」
神様が本棚から何冊か小説やコミックを取り出した。設定は異なるものの、全て勧善懲悪作品だった。
「あんまり干渉しても、君の物語にならないからね。私は最低限のことだけを話すことにしてるんだ。能力の使い方とか、そういうのは自分で学んで欲しいな。修行して強くなるのが王道なんだろ?」
神様が手から本を離すと、ひとりでに元の位置に収まった。
「でも、さすがに情報が少なすぎない? これじゃ何が何だか……」
僕は渋って言った。
「仕方ないな、じゃあもう一つ教えてあげよう。多分近い内に、何かしらの事件が起きるよ。そいつがどういうことをするのかはまだ私にもわからないが、悠斗の力が無いと、きっと被害はどんどん大きくなる」
「……何か仕込んだの?」
僕が神様に尋ねると、神様は意味深な表情を浮かべた。
「まあ、そんなとこだ。その時が来たら、また悠斗のとこに来るよ」神様が首を傾げて笑った。「私はさしずめ、君のナビゲーターだな。分かる範囲でなら、君をアドバイスしてあげるさ」
そう言って、神様は忽然と姿を消してしまった。
僕はしばらく神様がさっきまで居た空間を眺めていたが、少しして目覚まし時計が鳴ったので、すぐにスイッチを叩いて止めると学校に行く支度を始めた。
僕の家は閑静な住宅街に居を構えていた。3LDKの二階建て、至って普通の一軒家だ。車のガレージもあったが、車を捨てた我が家では、完全に物置と化していた。
父親は車好きだったのだが、僕が七つの頃に交通事故で死別してしまった。父が乗っていた日産のレクサスはグシャグシャに潰れ、事故の壮絶さを物語っていたことを覚えている。事故以来、母が車を買うことは無く、ガレージは自然と物置のように扱われていった。しかし、物置のようにはなっていたが、ガレージの中央には、車一台分のスペースが常に開けられていた。恐らく父のことを想って、母がそうしたのだと思う。
母はこの頃、大手の食品会社で企画の仕事をしていた。少し前に大阪への単身赴任が決まり、僕は夏休みを前に家で独りになるという夢の様な状況になっていた。だが、夢の様な時間を実際に味わうには、母が常日頃行っていた家事を片付ける必要があり、これが中々の曲者だった。料理は勿論、洗濯や掃除、日用品の買い物など、やらなくてはいけないことが目白押しで、僕はこの時、主婦の偉大さを身を以て体感していた。
シリアルをボウル皿に移して牛乳を注ぐと、僕はそれを口に掻き込み朝食とした。使った皿をシンクに置いて水に浸すと、自分の部屋に戻って制服に着替えた。筆記用具と制汗剤しか入っていないリュックを背負うと、戸締まりを確認して家を出た。
玄関前に置いておいたママチャリを手で押して、門をくぐると、丁度隣の家から出て来た楓に鉢合わせた。
「おはよ」
「おは、悠斗」
僕の挨拶に、楓が短く返した。
楓は僕の幼なじみで、何を隠そう僕の初恋の相手だった。お隣さんということもあって、生まれた時からずっと一緒だったのだが、小学五年生くらいになると、なんとなくお互い男女というものを意識し始めて、中学に上がる頃には自然と疎遠になっていた。一緒に遊んだりするようなことは無くなっていて、この頃の僕らは、顔を合わせれば挨拶はする、程度の仲になっていた。
「あんたって、朝結構早いわよね」
楓が僕に向かって言った。
楓は僕と違って、歩きとバスで学校に通っていた。一方の僕は自転車通学だ。夏と冬は辛いが、バスで行っても大して時間が変わらないので、自分が頑張れば頑張る程早く着く自転車のほうが好きだった。
「そうかな」
「うん、部活してない割には早いと思うわ」
「それは楓も同じじゃん」
「……それもそうね」
短いやり取りをして、少しだけ楓が笑った。僕と楓は仲が悪い訳じゃないが、こうやって二人きりで話すような機会もないので、この頃はあまり楓が笑うところを見ていなかったような気がする。
「じゃあ、僕行くから」
「あ、待って。バス停まで一緒に行こ」
僕がママチャリに跨がろうとすると、不意に楓に止められた。
「え、いいけど。なんで?」
「別に、深い理由なんて無いわよ。なんとなく。別にバス停まで歩いても間に合うでしょ?」
断る理由も無かったので、僕はママチャリを押しながら楓とバス停までは歩いて行くことにした。これと言って会話らしい会話もないままバス停まで到着してしまい、僕は少しだけ気まずさを感じていた。
「じゃあ、今度こそ……。また学校で」
「うん、またね」
いたたまれなくなったので、さっさとママチャリに乗って走り出した。学校に到着すると、いつもと同じ場所にママチャリを停めて、教室へ向かった。教室に着くと、僕は自分の席に座りながら今朝神様と話したことを思い出していた。
神様は僕に変身する力を与えた、と言っていた。変身能力と言われ、アメコミのヒーローや、仮面ライダーのような特撮ものが僕の頭に浮かんでいた。そこまで格好いいものではないかもしれないが、悪者を倒す正義のヒーローに変身するのだと思うと、やはり僕も男の子だったのか、興奮を隠せずワクワクしていた。
神様は何か事件が起きるとも言っていた。神様は物語のお約束を知っているとも言っていたし、僕のために敵を用意したつもりなのだと思う。
僕はこの時、敵が現れるということの意味をよく理解していなかったから、深く考えず、敵の到来に合わせて能力を使ってみようと呑気に考えていた。正直に告白すると、身体をナイフか何かで傷つけるのも怖かったので、その時が来るまで先延ばしにしたのだ。
その日は特に何も起こらず、テスト返却で午前中に授業が終わったのをいいことに、僕はすぐに家に帰ってまた空想を始めた。
次の日も同様だ。僕は自慢じゃないが、学業もスポーツも平均か、それよりもちょっと上くらいの成績だったから、追試や補習の心配はいらなかった。部活にも入っていなかったから、鼻歌交じりで短縮授業の平日を楽しんでいた。良くもなく悪くもない期末試験の答案をリュックに突っ込み、家に帰ってエアコンの効いた部屋で、ベッドに寝っ転がりながら新世界の構築を進めた。
僕が考えた世界は、ノートやパソコン、スマホなどの類には一切メモを残していなかった。自分でも不思議なのだが、考えた内容は全て抜け落ちること無く頭の中に残っていたのだ。これが神様が言っていた、世界を考える力の一端なのかもしれない。
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日付が変わり、七月十五日、金曜日になった。今日で晴れて二学期も終わり、これから僕は完全なる自由時間を家で過ごす予定を立てていた。宿題を最初の週に全てこなし、九月初めの始業式までのおよそ一ヶ月を世界構築に費やすのだ。
先週の土日でカップ麺も買い溜めしてあったので、家に引きこもる準備は完璧だった。不足分が出たとしても問題ない、Amaz○nの有料会員サービスにも加入済みだ。お急ぎ便を使えば当日か、遅くとも翌日の夕方までには物資は届くし、この頃には二時間以内の配達サービスも対象地域を拡大していて、我が家がある神奈川県鎌倉市もこのエリアに入っていた。
Amaz○nの企業戦略にまんまと引っ掛かっていることをひしひしと感じてはいたが、当時の僕はひと月以上の一人暮らし状態、更に夏休みに突入したことに浮かれ、趣味に没頭することしか考えていなかったのだ。
この日、再び神様が僕の目の前に現れるまでは。
神様が現れたのは僕がウキウキ気分で学校に自転車を停めている時だった。この日は異常に目が早く覚めてしまい、やることも無かったのでいつもより早く当校していた。
さっさと教室に行って、式が始まるまで空想するか、読みかけのファンタジー小説でも読んでいようかと思っていたのだ。
「おはよう悠斗」突然目の前に湧き出てきた神様が、辺りを見回して言った。「ここは学校か。丁度いいな」
「うわっ!突然目の前に出ないでよ! っていうか服! あと浮くの止めて! 誰かに見られたらどうすんの!?」
僕は慌てて神様の身体を隠しながら辺りに人が居ないか確認した。始業時間まで一時間以上あったおかげか、まだ誰も居なかった。ほっとしながら僕が息を吐いていると、神様が言った。
「ああ、私の声と姿は悠斗以外には認識できないから気にするな。この世界の物体に干渉することも可能だが、それも基本的にしないよ。……それより、敵が来るぞ」
「は? 敵……って、何の?」
僕は訳が分からず神様に聞き返した。
「君や、善良な市民の敵だよ。私が蒔いた種が芽吹きそうになったから、教えに来た」
「神様が蒔いた種って何……?」
嫌な予感が僕の頭を駆け巡り、神様に尋ねた。
「君と似たような変身能力さ。能力が育ちそうな土壌を持った人間に蒔いたんだよ。君と違って自発的にコントロールは出来ないけどね」
「どういうこと? 土壌ってなんだよ」
僕は物陰に向かって早歩きで移動しながら神様に質問した。神様が僕に付いて浮きながら言った。
「土壌っていうのは、心の欲望だ。私が蒔いた能力の種が、欲望に反応して育ち、臨界点を迎えると宿主の人間を乗っ取る。欲望に従って行動するモンスターの出来上がりだ」
「欲望って……それ危なくないの?」
校舎裏の奥まった場所に入りながら僕は言った。
「君達人間の尺度で考えるなら危ないな。宿主の命もそうだが、周囲の人間にも確実に被害が出るだろう」
神様が調子を変えず淡々と言った。僕は足を止め神様に詰め寄った。
「なんてことしてんだよ……! そんな……! 非人道的だ!」
「私に君達の価値観を押し付けられても困る。私は悠斗を主人公にしようとして動いただけだ。第一、君だって主人公になることを了承したじゃないか。物語のキャラクター、それも主人公になったんだから、君の周りで事件が起きるに決まってるだろ?」
神様が僕に詰め寄られただけ後ろに下がりながら言った。
この時の僕は、人の姿をした神様に、人間の心のようなものがあるのだと勘違いしていたのだ。神様には僕達人間の考える善悪など関係ない。神様は僕を主人公にするための舞台を整えただけなのだ。敵が同じ人間でも、神様にとってはただの駒だ。僕らがフィクションの物語で、適当な人を悪者にしたり、怪物にするのと同じような感覚だったのだろう。
「そう怖い顔をするな。被害を出したくないなら、君も変身して戦えばいいんだよ。そのための力なんだから」
神様が言った。
「……くそっ。わかった、やるよ、やるさ……」僕は神様に詰め寄るのを止めた。「その、最初の敵は学校に来るのか? どこに居るんだ?」
「ふむ……もう動き出したようだ。校庭に飛び出たぞ」
神様が目を瞑りながら答えた。僕はリュックをひっくり返して、落ちてきた筆箱から小さなカッターを取り出した。
「変身するのか、悠斗」
神様が僕を見下ろしながら言った。僕はカッターを手のひらにあてがいながら答えた。
「……やるよ。だって、そうしないと誰か死ぬかもしれないんだろ?」
「そうだね。……手順は覚えてるかい?」
「大丈夫、守りたいと考えながら、傷つける、だろ」
言いながら僕の呼吸は凄い勢いで早くなっていった。自分で自分を傷つけた経験なんか無かったのだから当然だろう。
少しして、僕は大きく深呼吸をした後に、手に当てたカッターを思いっきり引いた。思ったより痛くは無かったが、カッターで付けた傷よりも、傷口から溢れる血液の奇妙な動きの方に僕の目は釘付けになっていた。
明らかにカッターで付けた傷に見合わない量の血液が溢れだし、スライムのように形を変えながら僕の腕に纏わりついていった。すぐに全身が自分の血液に覆われたかと思うと、次第に僕の身体が溶けていくような感覚に陥り、気づけば身体を覆う血液が、自分の身体になっていた。肌に感じる感覚などが血液で出来た、装甲に移動したのだ。視界も高くなっていて、身体も全体的に大きくなっていた。
感覚で変身が終わったことを確信した僕は、すぐさま校庭に向かおうとしたが、全身の関節や、尻の辺りに違和感を感じて立ち止まった。普段生活している中では感じることのない、新しい部位に神経が通っているような感覚があったのだ。恐る恐る手を伸ばしてみると、尻尾のような何かがそこにあった。触った感触は爬虫類か何かの鱗を触ったようだった。
気になって近くの空き教室の窓に自分の姿を映してみると、そこには奇妙な生き物の姿が反射していた。
赤黒い何かに覆われた、三メートル強はありそうな、怪物としか形容できない生き物に僕はなっていた。頭の位置には目らしき穴が二つ開いているが、動物らしい光りは宿っておらず真っ暗だった。口も大きく裂け、牙のような何かが見え隠れしていた。
自分の手を見てみると、異常に長く伸びた細い腕をしており、指先は鋭く尖っていた。足も似たような感じで、胴体と頭の大きさは本来の僕と同じかちょっと大きいくらいなのに、四肢が長すぎて、直立していると出来の悪い巨人か何かのように見えた。
細長い尻尾のようなものもやはり生えていたようで、尻尾を合わせると、今度は痩せたトカゲが直立しているような感じに思えてきた。装甲全体に鱗か、甲殻類のトゲのような何かがくっついている。一見して硬そうな雰囲気だが、指で装甲を押してみると、軟体質というか、固くも柔らかくもない感触をしていた。トゲや爪などのパーツは固く、それ以外は柔らかくなっているようだった。正直言って、この姿は格好良さの欠片もなく、気持ち悪いだけだと僕は思った。
なんにせよ変身はできたらしいことを確認すると、僕は再び校庭に向かって移動を始めた。神様も一緒に浮かびながら付いて来たので、何かアドバイスを貰おうと思ったのだが、声帯に当たる器官がこの身体には無いのか、獣の呻き声のような音しか出せなかった。
校庭の方から叫び声が聞こえてきた。登校してきた生徒が、敵に遭遇したようだ。
もう少し早く走れないかと思っていると、初めて神様に会った時、強い力で想像するものはドラゴンとか、と答えたことを思い出した。僕は直感的に身体を前に倒すと、四つの足を使って走り始めた。なぜか走り方が分かっていたようで、直立して走るよりもずっと早く駆けることができた。この姿は僕が想像するドラゴンとは大分かけ離れていたが、その時の僕にはそんなことを考える余裕はなかった。
僕は長い足を使いながら地面を這って校庭に飛び出ると、すぐに現状の確認に努めた。
昇降口の辺りに四メートル程の何かが居た。それは大きな食虫植物か何かのような見た目をしていたが、全体の質感はまるで肉の塊だった。口腔内のような赤系統の色をした肉の花が、長い触手を伸ばして生徒を捕まえようとしていた。既に被害は出始めていたようで、地面と触手に、誰かの血と肉がこびり付いていた。嗅覚が鋭くなっているのか、二十メートルは離れていたと思うが、血の臭いが漂ってきた。
僕は気持ち悪いと頭の中では考えたつもりだったが、この身体には胃が無いのか、胃液がせり上がってくるような居心地の悪さは感じなかった。おかげですぐに冷静さを取り戻し、再び地面を蹴って肉の花へ向かって突撃を始めることが出来た。
逃げ惑う生徒の一部が僕に気づいて叫び声を上げた。無理も無いだろう。僕も見た目だけで言えば完全にモンスタ-だったのだから。
生徒を避けながら、僕は肉の花に飛び付いた。触手を根本から引き千切ろうとすると、肉の花が僕に抵抗して、生徒を捕まえようと放っていた触手を僕に向けて繰り出した。触手が身体に当たる感触と衝撃を確かに感じたが、僕の装甲には傷一つ付けられず、逆に何本かの触手は身体のトゲに刺さって赤い体液を流していた。
触手は全くの脅威じゃないことを認識した僕は、すぐさま攻撃を再開し、触手を根本から引き抜き始めた。地面に落ちた触手がピクピク震えながら、すぐに活動を停止していった。すると肉の花が、僕の首目掛けて噛みつき始めた。流石に危ないかと思ったのだが、肉の花の小さな牙は僕の身体を貫くことは無く、僕の軟体質な装甲を一時的に押し込むだけに終わった。
肉の花がなおも噛みつきながら、新しい触手を生やし、僕の身体に絡みついてきた。構わず肉の花を裂いてやろうと思ったが、身体が上手く動かせなかった。どうやら複数の触手に同時に掴まれると、この身体でも動きが邪魔されてしまうようだ。仕方なく触手を一本引き抜き、更にもう一本と順に引き抜いていったが、三本抜いた辺りで最初の一本がまた生えてきてしまった。
このままでは埒が明かないと思った僕は、姿勢を変え、肉の花を押し倒した。足を使って、逃げようとする花を押さえながら、片手で触手を引き剥がし、もう片方の手で茎を掴んで安定させた。
準備を終えると、僕は口を大きく開け、肉の花に喰らいついた。牙が突き刺さり、肉の花が叫び声のような音をどこかから発した。戦いを呆然と見ていた生徒と教師、そして野次馬があまりの衝撃に耳を塞いだ。僕は構わず肉を引き裂いて吐き出し、噛み付いて出来た穴にもう一度牙を埋めた。
僕が無我夢中で肉の花に牙を立てていると、花の動きが緩慢になってきたことに気づいた。触手の拘束力も弱くなってきたので、噛み付くのを中断して触手を全て同時に引き抜いてやった。新しい触手が生える前に、肉の花の中心、先程僕が喰い付いた穴に両手の爪を突き刺し、左右に腕を開いて、花を切り裂いた。
どうしてそう思ったのかはわからなかったが、僕にはそこに居るという確信があった。
切り裂いた肉の花の中に、謎の粘液にまみれた男性が入っていた。体育教師の高木光也だった。地肌の一部と肉の花がへその緒のようなもので繋がっていた。
この身体のままでは細かい動きが難しかったので、死なないことを祈りつつ高木先生の身体を掴んで引き抜いた。僅かな抵抗を感じたが、すぐに緒が切れて抵抗感が消えた。僕は引きぬいた高木先生をどうしたらいいのかわからず、とりあえず地面に降ろしておくことにした。
そのまま肉の花の様子を見ていると、徐々に溶けていくように小さくなっていった。真っ赤な体液を撒き散らしながらしぼんでいき、遂にはその姿が見えなくなると、辺りに千切れ落ちた触手も溶けていった。
頭を上げて周りを見回すと、周囲を囲んでいた人達が叫び声を上げながら散っていった。僕は立ち上がり学校の外へ飛び出した。宙を飛びながら僕と一緒に動いている神様に心の中で問いかけた。
(神様、これどうやったら元の姿に戻れるの!?)
「ああ、そういえば言ってなかったな。心の中で強く、人間に戻りたいと願えば戻れるよ」
神様から戻り方を聞いた僕は、近くの林の中に飛び込むと、周囲に人が居ないことを確認して地面にうずくまった。心の中でとにかく戻りたいと念じ続けていると、身体を覆う装甲が次第に縮んでいき、気づくと元の体に戻っていた。逆再生をするように、装甲がスライム状になっていき、今度はサラサラの血液に戻るとカッターで傷つけた場所に入っていった。傷口はそのままのようで、切り傷から普通の血が少し流れてきた。僕は手で傷を押さえながら立ち上がった。
僕は人に見られないように遠回りをしながら、学校の裏手に周り、塀をよじ登って中に入った。ひっくり返したリュックを見つけると、中身を元に戻して背中に背負い、何食わぬ顔で駐輪場の辺りから校庭に戻った。
校庭はまだパニックになっていて、救急車やパトカーが何台も学内に入ってきた。倒れたままだった生徒と高木先生を担架に乗せ、パトカーが病院に向かって走りだした。その光景を呆然と見ていると、神様が僕に声をかけてきた。
「お疲れ様、悠斗。また次が来たら呼びに来るよ」
返事をする間もなく神様はどこかに消えてしまった。
僕は膝をついて地面にへたり込んだ。校庭では忙しなく救急隊や先生が動き回っていて、昇降口に目をやると、階段を赤く染めた体液が、煙のようなものを上げていた。無事だった生徒も立ち尽くしていたり、泣き叫んでいた。
僕は目を逸らして雲一つない空を見た。この光景を、僕が生み出したのだと信じたくなかったのだ。