00.瞬く星々
天地開闢を為した神墜つ。
大地割け、彼ぞ創りし現世の芯へ混沌繋がる淵開く。
溢るる厄災、死への誘い、暗き世来たり。
幽けき者ども、簒奪、暴虐、破壊に囚わる。
加え輪廻の輪抜けし青き屍、更なる厄災齎せり。
――著者不明『立国史』より抜粋
≪運命の導き≫
(この世界は……低劣で、醜悪だ)
惨劇の夜。
赤黒く染まった大地を照らす仄青き月明かり。風は凪いで、虫の声すらも聞こえぬ静寂の中、残り火の爆ぜる音だけが騒がしかった。
絞られるような心臓の痛みに背を丸めた。喉元を熱い塊が込み上げ、視界がゆらゆらと揺れる。
少年のその腕に擁かれるは、この世でただ一人だった愛しき少女。夥しい血を胸部から流し、冷たく眠る亡骸。
痛みに歪められたその顔を、胸が張り裂けるような気持ちで見つめた。怒り、悲しみ、恐れ、戸惑い……様々な感情が綯交ぜになって襲い掛かる。可愛らしいその笑顔を、もう、見ることはないのだ。
穏やかに神の下へ帰れるように、と願いを込めて瞼を閉ざし、その場に優しく横たえる。
そして、少年は奮い立った。
燃えるような紅の瞳からは、一筋の涙が流れ落ちていた。拭うこともせずに、彼はその目に焼き付ける。
毎日がお祭りのように、みんなで踊り、騒いだその村は、その跡形もない。
気が狂いそうになる。唇を噛み締めた。
優しかった隣人たち。嬲られ、壊され、刻まれた、哀れな躯たち。命は悉く絶えていた。どこを見ても惨たらしい死の影がちらつく。
粗末だが愛おしい、彼らの作り上げた家々は倒れ、炭と灰の残骸と成り果てた。思い出したかのように薄ぼんやりと燻り、夜空に黒い煙が立ち上っていく。
地獄の底の景色を見ているようだった。ここには、死と、悪意の気配だけがある。
(ペリュイ、約束を守るよ。僕が、変えてやる)
拳を握りしめ、少女に誓う。
涙も、震えも、止まらない。自分の無力がただ、恨めしかった。
≪強者の庇護≫
(ああ、この方こそ、私の神さま)
吐き気を催す臭気。ゴミのように転がる生物。群がる虫の群れ。
この世のありとあらゆる汚いものを押し込めたその場所に降り立つのは、白緑の竜。最もこの場に似合わぬ美しさと力を持ち、此処に在ってもその魂は高潔で清廉だ。
死の影が迫る少女とその片割れは、ただそれを見ていた。
彼らにとってその竜は、日常の風景に紛れ込んだちょっとした違和感でしかなかった。綺麗な者が汚れたゴミクズと関わることなど、あろうはずがないのだから。
ああ、久しぶりに良いものを見たな、と少しだけ感慨に耽る、それだけのことのはず、だった。
けれど竜は、あろうことか、二人の前に進み出る。
驚く暇もなかった。
薄暗い路地に横たわる少女へその手は伸ばされた。慌てた片割れが止める間もなく、それから慈悲の光が降り注ぐ。それはまるで天の光。
明らかに悪かった少女の顔色はみるみると生気を取り戻し、その頬に薄っすらと朱が差すまでに回復した。
満足した竜は光を止めると、握手を求めるように少女へ差し出した。
その手を取ることに、躊躇などなかった。
信じられない気持ちで少女は竜と繋がれた自らの手を眺める。汚泥に塗れた彼女の目には、目前に立つその貴き竜がどうしようもなく眩い。
路地裏に潜む、腐肉を喰らう溝鼠のような下賤の者たち。そこに紛れ、生きるために善も悪もなく、他人から奪い、奪われる生活を送ってきた。
彼に触れていると、自らの汚れが浄化されていくような、そんな心持ちになった。
隣では少女の片割れが不安そうに彼女を見ていた。竜がこちらに害をなす者でないか、まだ疑っているのだろう。生きるためなら何でもやる。それがこの場所の流儀なのだから。
気高き竜は鷹揚に笑った。強者の余裕らしきものが感じられるその様に、騒めいた心が宥められる。
何故助けたのかと話を聞いてみると、情報を得るための対価だ、と至極真面目な顔をして竜は言った。何の情報かと聞けば、道に迷ったのだと言う。
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
(これからは、この方に報いるため生きよう)
少女は決意し、その身を起こす。
笑い声を上げる二人の頬を、絶えることなく温かな涙が流れて落ちた。
≪聖女の激情≫
(全員、殺してやる。心を持たない化け物どもめ)
赤々と燃える森の中を、怒りに燃える山犬の女は疾走する。
彼女の強靭な脚力をもってしても、炎から逃れるのは困難であるように思えた。衣服は既に燃え落ち、全身を包む豊かな薄墨色と濃藍の毛並みが、ちりちりと音を立てて焼け焦げていく。
数瞬、考えを巡らせ、空中を淡く漂う火の粉とはまた違った光の粒子、神の力の残滓を吸い込んだ。数秒息を止めたかと思うと、力を込めて思い切り吐き出す。
するとそれは白い靄となって体を包んだ。熱気が弱まる。けれど彼女は、その大きな口から長い舌を垂らし困憊していた。
神の力の残滓を扱ったことで体力が底を尽きかけているのだ。こうなることは分かっていたが、やらざるを得なかった。でなければ今頃焼け死んでいたことだろう。
体を熱風から守るその靄も長いことは保持できない。如何にして早く炎から抜け出るか、ここからは自分の意志のみが頼りだ。
悲鳴を上げ、今にも崩れ落ちそうな体を叱咤し、駆けた。怒りだけが彼女を突き動かす。
死に物狂いで進む彼女の眼前に、避けようもなく大きな渦巻く炎がその口を広げた。靄が薄くなっていく。
ああ、もう、ここまでか、と悔しさに歯噛みしながらも覚悟を決め、目と口を閉じて突っ込む。瞼を焼く白い光を見た瞬間、熱を通り越して、凄まじい激痛が走った。全身が燃える悍ましい感覚に心が挫けそうになる。
助けて。こんなところで、死にたくない。
心の底から生を渇望した。そしてその執念のままに、炎をかき分け進んでいく。
痛い。苦しい。けれど、ここで死ぬことは許されない。
肉の焼ける臭いが鼻をついた、その時、突然彼女を取り巻いていた焦熱の風が止む。
何が起きているのか、自分がどうなったのかも分からぬまま、限界を迎えた体はその場に崩れ落ちた。
(化け物ども。この借りは、倍以上にして返してやる)
薄れていく意識の中、呪詛の言葉を吐いた。
炎に消えゆく森と共に、彼女の日常もまた、消え去ったのだった。
≪死者の目覚め≫
(そろそろ、かしら)
霞みがかったように白くけぶる室内は、香水と薬の甘ったるい臭いで満たされていた。薄桃色の照明がひどく倒錯的な雰囲気を醸し出している。
皺の寄ったベッドの上で独り、あるかなきかの薄布を纏って横たわる少女。艶めかしいと言うには肉付きが悪すぎた。
がりがりに痩せ、こけた頬。ひび割れた陶器のように傷んだ肌。目は落ちくぼみ、ギョロギョロとして恐ろしい。荒れた髪が老婆めいて、元々の年齢より何倍も老けて見える。
彼女は枕元から古びたガラクタの鏡を取り出した。ただ一つ持つことを許された私物を眺め、鼻歌を歌う。
鏡に映るのは死人のような、奴隷の姿だった。
けれどそこに、森に生き、家族に愛され、恵まれていたかつての幻想を、彼女は見ている。心の中で輝き続ける思い出の日々を。
幸せを当然のものとして享受していたあの時。誰もが笑顔で、苦痛とは無縁だった。
ふいに刺すように傷んだ足首を労わるように撫で擦る。そこには大きく痛々しい傷跡があった。
ここに来る前、奴隷商に売られたばかりの頃、少女はまだ希望を捨てていなかった。何度も逃亡を画策し、結果として、動けなくするため足の腱を切られたのだ。
そして泣き叫ぶ彼女に調教と称して行われたのは、彼らの加虐心と暗い欲望を満たすだけの行為。その時、彼女は一度死んだ。
何も感じず、何も考えない人形のように、淡々と日々を過ごす。抗うことはせず、流されるままに。従順な人形は扱いやすいらしく、それらしく動いていれば目をつけられることもなかった。
鏡を見つめる。そこに映るのは死人でも奴隷でもない、覚悟を決めた一人の少女。
(ここから抜け出し、自由になる)
明日がその絶好の機会だった。狂ったような自分を演じながら本当に狂ってしまったのではないか、と乾いた笑みを浮かべた。
そうして今、もう一度自らを殺すのだ。
輝ける四つの星々は、己が目的を果たすためその道を切り開く。
運命は重なり、数奇な物語がその幕を開いた。