白日
隣のベンチでは初老の男が新聞を読んでいた。
定年退職を迎え、するべきことも無くなったのなら、のんびり公園で過ごすのも悪くないかもしれない。なんて勝手な憶測を巡らせてみたりする。
穏やかな風が、敷き詰められた紅葉の絨毯を微かに揺らす。
うららかな秋の日の午後。
降り注ぐ陽光に、自然とあくびがついて出た。
ねむけ眼で活字を盗み見ると、一家心中か? の見出しに目が留まる。隣町で起きた先日の火災の記事と当たりを付けつつ、なんとも薄暗い気分になって視線を逸らした。
公園には、幼稚園帰りの子供たちが制服姿のままで遊んでいた。砂場に滑り台、そしてブランコ。定番のもの以外にも、アスレチックやトランポリン状のドームが設置されたここは、都内でも大きな公園の部類に入る。
たくさんの子供たちの中から僕が見つけるのと同じくして、ナナちゃんが手を振った。
滑り台の上で身を乗り出して、一生懸命に手を振る。そのたびに二個結びにした髪留めの、さくらんぼみたいな赤が煌めいた。
自然と頬の緩む僕の右隣で、雑誌を読んでいた彼女もようやく気がついたらしい。
「ナナー、危ないわよー」
彼女は立ち上がり、声を張り上げる。
立ち上がると意外と背の高い彼女、その少し後ろで僕は微笑んでいた。
「はーい」と元気な返事。その声の主に向けて、彼女は再び声を掛けた。
「そろそろ帰るわよぉ」
脇に置いていた紙袋を掴んで、僕はゆっくりと立ち上がる。
駆け寄ってきたナナちゃんが、母親の胸に飛び込む。燦々と降り注ぐ光の中、その光景を眺めていた僕は、またあくびをひとつする。
ぽかぽかとした陽気の下、家路へとつく。彼女とナナちゃん。そして僕。
交差点を一度左折して後はひたすら真っ直ぐの道。
雲ひとつない空は、悲しいくらいの晴天。
空の青に、茜色が静かに混じり始めるのを報せるように、赤とんぼが飛んでいく。
小さくなっていく幾つかの、その影を目で追いながらも、身体に刻まれた帰路を辿った。鈍磨する頭は何を考えるでもない。
不意に声が聞こえた。
あなたは歩くのが速いのよ――。
それは彼女の――妻の、声。
立ち止まり、振り返る。紙袋がガサリと鳴った。気づかぬうちに、袋を掴んだ手に力が込められていた。
誰もいなかった。
そこには、彼女もナナちゃんもいなかった。
一度目の交差点か、はたまたそれよりもずっと前にか。別の道で彼女たちとは別れていたらしい。
じわりじわりと圧し掛かってくるような頭痛と、倦怠感。僕は目頭を軽く揉みほぐす。そのあとで、とっくに着いていた自宅を見上げた。
賃貸のアパート、その二階部へと続く階段を、重い足取りで上った。
やがて二階の角部屋の前で足を止める。鍵を開け、ノブを回す。そして小さく「ただいま」と告げた。
閉め切ったカーテンの隙間から、白い光が差し、わずかに埃が舞う。
衝撃を和らげる発泡ゴム製のカバーを、角の至る所につけたテーブルやテレビ台、家具の数々。
部屋の床に散らばる積み木やブロック。転がったままの、ぬいぐるみと丸みを帯びた車。遊んだまま、片付けられずにいるおもちゃの数々。
あの日の、あの時のまま。
リビングに置かれた銀縁の円盤に目が留まる。
それは時計の数字のように、十二個の小さな窓が空いた写真立て。窓から顔を出すのは、彩りに満ちた変遷。写真の切り抜きをはめ込んでいく、成長の軌跡。
搾り出すように小さな産声を上げていた出産時の顔は、まさに赤ちゃんと呼ぶに相応しい赤ら顔。二枚目、三枚目、と窓を追いかけていくにつれ、その表情も豊かになっていく。次第に女の子の顔を形成していった写真はしかし、十一枚目で途切れる。
中央の一際大きな窓には、一歳児のセピア色の写真。だが、そこに写っているのは西洋の子供の写真。ただのサンプル。
カラフルなその日を彩ることもないイメージ写真。それはセピア色のままのマイファーストイヤー。
その小さな小窓には、確かに温もりがあった。待ちわびることの出来る幸せが。
来年の今頃は、とか。
再来年の夏には、とか。
そして幼稚園にあがったら、とか……。
声にならない何かが、喉の奥から競りあがってくる。全身を張り裂かんばかりの何かが。
その激情に身を任せたところで、失ったものを取り戻すことなんて出来ないと分かってはいても……。
僕にはもう何もなかった。新しい季節を迎えることなんて苦痛でしかなかった。
だけど。
ぎりぎりのところで右手で口を覆った。声にならない何かは、ただの呻きとなって指の隙間から零れていった。
そして、左手に抱えた紙袋を鳴らさないよう軽く抱えたままで、寝室のふすまをそっと開けた。
すやすやと眠る妻の寝顔が見えた。
まるで時が止まったように、カーテン越しの淡い光はそのままに、ほこりひとつ舞うことのない静寂がそこにあった。
薄青のシーツが張られたダブルベッド。軽く寝返りを打つ彼女を、僕は静かに見つめていた。
そして、幸せそうに眠るその顔を見て、僕は声を上げずによかったと心から思った。
音を立てないように僕は寝室を後にする。
向かったのはトイレだった。
それこそ夢なんて見ずに済むくらい眠ってしまいたい――、そう言ったのは僕だった。妻は何も言わなかった。
眠れないのは本当の話だ。
あの日以来、僕はほとんど眠れずにいる。それはきっと眠りの底にたゆたう、夢の世界を渇望しすぎるからなのかもしれない。だからこそに僕は眠りたくて、ずっと眠り続けたくて、そして眠れずにいる。
だから病院に処方してもらう睡眠薬も、次第に作用の強いものへと変わっていった。
そして、今日こそはぐっすりと眠れるはずだった。
三件梯子して手に入れた安らかな眠り。数多の薬は副作用の相乗効果も併せて、最高の睡眠を提供してくれるはずだ。もう二度と夢を見ずに済む、永遠の眠りを。
それを僕はトイレへと捨てた。
紙袋から取り出した色とりどりの薬。水流の渦の中で、カプセル状の物がなかなか沈んでくれなくて、僕は何度もレバーを引く。そのたびに水が流れる音が響いて、僕は妻が起きてしまうんじゃないかと少しだけ焦る。
でも、それは違ったはずだ。奥底では分かっていた。本当は、子供が大人の気を引きたがるように、男の子が好きな女の子の気を引きたがるように、わざと騒々しくしていたのだろう。
そしてやはり妻は目を覚ましていた。
パジャマ姿の彼女は、ベッドの上で身を起こしている。少しだけ悲しげでいて、優しい笑みを灯したままで。
僕は彼女へと駆け寄る。さっき見たナナちゃんみたいに、頼りがいも男らしさも放り捨てて、まるでただの子供みたいに。
驚くこともなく僕を抱き寄せた彼女の腕の中ですがって、声を上げて、僕は泣いた。「ごめん」それを繰り返すことしか出来ない僕は、結局泣いて、すがりついてまた泣いた。
この世界が全部嘘で、夢の世界が本当であったらどんなに良かっただろう。
だけど、もし僕が夢の世界の住人になってしまったら、誰が愛しい人のことを想ってやれるのか。
消えてしまった命。それを想ってくれる人がいたとして、僕と同様の思い出を紡ぐことなんて、他の誰にも出来ないはずだ。
毎日を、その瞬間を、共に過ごした僕以外に誰が――
止め処なく溢れた涙が、やがてただの塩となって頬に張り付く頃、僕は静かに立ち上がった。
動き出した時間の象徴のように、木漏れ日にも似た光の中で、きらきらとほこりが踊っている。
僕以外に誰が――、彼女たちのことを想ってやれるというのだろうか?
薄いブルーのシーツの上には、丸まった羽毛布団があるだけだった。
彷彿とさせるのは、青空と入道雲。
それはまるで過ぎ去った季節、あの懐かしく幸せな日々の証明にも似た……。
ふらふらの足取りで、しかし僕はひとり、白日の世界を歩み始める。