女神は人形と戦う
エレベーターが開くと同時にアリシアは外へ飛び出した。
「ふーっ、何とか地上についたな」アリシアは伸びをしながら言った。
「だいぶ疲れた……」ディーンは呟いた。疲れの原因のほとんどが先ほどのエレベーター内での緊張だったが、それは口には出さなかった。
「さて、敵がどこにいるのか私達は全く情報を持っていないが、何か算段はあるのか?」
「ああ、今までのデータからアイオーンの尖兵は二度同じエリアを探索してないようにしていることがわかっている。つまり、前回たどり着いた場所から探索を始めるんだ。進み方も一定の法則に則っているし、どこらへんに居れば鉢合わせるかくらいはわかる。ってかここら辺の事情はお前の方が詳しいんじゃないのか?」ディーンは尋ねた。
「いや、私はアイオーンに関する情報をほとんど持っていない。ほとんど隔離された環境で生きていたからな」アリシアの顔は少し寂しげだった。
「そう、か……。そうだ、敵のパラディオンの情報について何か知っていることはないか?」
「リーンのことなら多少の知識はある。あれは恐らく私より後に作られたパラディオンだ。取り立てて性能が良いわけではないが、これといった弱点もない。お前と私が戦った時の作戦のバックアップとしてあれは控えていた。私が帰還しなかったからあれが私の捜索と探索を兼ねて出てきたんだ。あれは機械化されている部分がかなり多いから、電磁パルス下での長居は出来ない。ほとんど機械化されていない私のほうが適役だったんだ。それ以外の部分ではあれの性能は私を凌駕している。飛行速度は私の1.5倍くらい出せるはずで、腕力に関しては戦車を持ち上げて投げられるほどだ。射撃に関しても射撃管制装置を使っているためかなりの精度を誇っている。それでもパラディオンの中では普通の戦闘力だ」アリシアは淡々と事実を述べた。彼女の話を全て信じるならパラディオンは神憑り的といえる程に器用万能だった。
「お前俺と戦った後アイオーンに帰らなかったのか?ならどうやって飛行ユニットを直した?それに食事とかは?」ディーンは矢継ぎ早に言った。
「そうがっつくなよ、ちゃんと答えてやるから。パラディオンは自己修復能力を備えている。飛行ユニットにしても完全に壊れていない限り自前で何とか出来る。食事に関しては本来取る必要がないんだが、私はあまりカルディアユニットの性能が良くないらしく、たまに食事を取らないとエネルギー不足になるんだ。とはいえ、人間よりははるかに長く飲まず食わずでも活動出来るし、今回に関しては問題なかったが。まあそれとは関係なく食事は好きだよ」アリシアは胸元のカルディアユニットをディーンによく見えるようにした。ディーンはすぐに目をそらした。
「リーンに特殊能力とかはないのか?」ディーンは目をそらしたまま聞いた。
「ないな。特徴がない分扱いやすいのがあれのセールスポイントだ」
「本当にそうか?」ディーンは食い下がった。
「私の知っている範囲ではそうだ。お前にはそう思えないのか?」アリシアは小首を傾げて言った。
「ああ。引っかかってることがあるんだ。俺は夜の闇に紛れてあれを襲撃した。あれを含め機械化歩兵達も俺がいる事に気が付かなかった。なのに、あのパラディオンは戦闘が始まってしばらくしたら突然俺の存在どころか居場所まで正確に感知して俺を撃ったんだ。お前の能力の説明だけではどうしてあれが俺に気がついたのか説明がつかない」ディーンは左上の方を見ながら言った。
「なる、ほ、ど……。それを偶然として片付けるのはマズそうだ。出来れば交戦するまでに謎を解きたい」
「ああ。目的地に着くまであれの特殊能力について検討してみよう」
ディーンとアリシアは襲撃予定地点に向かって脚を進めた。能力に関する様々な仮説を立てたものの、どれも決定的とは言い難かった。結局、相手の能力を確かめるのは実戦で行うことにした。ディーンはアリシアに作戦の概要を伝えた。
ディーンとアリシアは襲撃予定地点に着く頃には太陽は出番を終え、月と交代をし始める時間だった。ディーンは日が落ちる前にビルの中でキャンプの準備を始めた。ディーンは通りからでは火を使っても気づかれない場所に陣取った。ディーンは寝床を用意した後、持ってきた缶詰を開けて夕食の準備をしていた。その間アリシアは大通りの見張りをしていた。
「おまえも飯食うか?」ディーンはアリシアの元に歩み寄り、小声で言った。アリシアは黙って頷いた。
「缶詰というものを知ってはいるが、実際に食べるのは初めてだ」アリシアは言った。彼女は体育座りをして、膝に載せた缶詰を見つめていた。
「お前結構色々知ってるな」ディーンは記憶が無いんだろ?という言葉を省略して言った。
「ああ。何故かは知らないが、私は色々なことを知っている。でも、その知識はどれも体験して得たものじゃないんだ」
「そうなのか。俺にはよくわからんな。そんな体験がないもんでね。でも俺が分かることが一つある。それは誰にとっても嬉しい現象じゃないってことだ」ディーンは缶詰を食べながら言った。
「そうだな。前も話したとおり私にはある点より前の記憶が無い。それのせいか、私は私であるという感じがしないんだ」
「記憶というのはその人を形作る大切なものだ。もし俺が別の体験をしていたら今ここでこうしていないだろうし、性格も別人だっただろう。記憶の重要性はそれだけじゃない。何か嫌なことがあった時、人は昔の良かった時代を振り返る。過去にこだわらないと自分で思っていても、だ。楽しかったことを思い出して、その思い出を前に進むためのエネルギーに変えられるんだ」ディーンは缶詰から目を離さず言った。彼は自分の言っていることを精査しなかった。ただ、思いついた言葉を連ねていた。
「それを私に言ってどうする?」アリシアは目を伏せて言った。
「さあな、俺にもわからん。俺が言えるのは、存在しない昔の記憶を嘆くよりも、これから新しい記憶を手に入れたらいいんじゃないかってことさ」
「なんだそれは。遠回しのプロポーズか?」アリシアは少し笑ってから言った。
「まさか。よく知らない人間にプロポーズするほど俺は馬鹿じゃないしせっかちでもない」ディーンは眉を動かして言った。
「そうだな。私についての話を聞き出したければもっと精進することだ」
「会話が全く噛み合ってないぞ」ディーンはフォークをアリシアに向けて言った。
「噛み合ってる会話がいい会話とは限らんだろう?」
「お前、適当言ってるだろ」
「バレたか」アリシアは少し舌を出した。
ディーンは食事を終え、食べ終わった缶をゴミ袋に詰めた。アリシアはまだ食べ終わってないようでフォークを口に運び続けていた。
「初めての缶詰の感想はどうだ?」ディーンは聞いた。
「思ったよりはいいものだ。てっきり、栄養価だけを気にした食品かと思ってたよ。味もしっかりしているし、バリエーションにも富んでいる。偉大な発明だと思うよ」アリシアは素直に感心しているようだった。
「これがなかったら兵士は皆飢えて死ぬだろう。ある意味でこれは兵士の源とも言える。缶詰が出来たのは数十年前だけどな」
「ならきっと数十年後には自動で温まる缶詰も出来ているだろうな」
「どうだろうな、俺にはわからん。科学者でも技術者でもないものでね」そう言ってディーンは寝床に向かった。
「見張りは任せておいてくれ」アリシアはそう言って窓の近くで大通りの監視を始めた。
ディーンは一日の疲れがどっと押し寄せてくるのを感じていた。彼はそれに逆らわずにまぶたを閉じた。静寂が辺りを包んでいた。
ディーンが目を覚ました時には太陽が上っている時刻だったが、アリシアは寝る前と同じように伏せながら重機関銃を構えて見張りを続けていた。
「おはよう」ディーンはアリシアの側へ行って声をかけた。
「私が見張っていた範囲では何も起きなかったよ」アリシアは通りから目を離さず言った。
「そうか、ありがとう。疲れてないか?」
「パラディオンに疲れはない」
「肉体的にはそうかもしれないがな。代わるよ」ディーンは双眼鏡を手に取った。
アリシアは呆れたとでも言うように溜め息をついたが、特に抵抗はしなかった。アリシアは缶詰を取りに行き、適当な缶詰をディーンに向かって投げ渡した。ディーンはそれをキャッチして食べようとしたが、中身を見て眉をしかめた。
「エスカルゴの缶詰って……。誰だよこんなもの買ったの」
「お前だろ」アリシアは好みの缶詰を探しながら言った。ディーンはそれに対して返事をしなかった。自分でも何でこんなものを買ったのか思い出せなかった。
「これ、食べないか?」ディーンはエスカルゴの缶詰を指さしながら言った。
「別に構わない」アリシアはディーンの予想に反して快諾した。ディーンはアリシアに缶詰を投げ返した。
アリシアは黙って缶詰を開けた。中身を覗いていたが、特にショックを受けた様子も見せずに一つ口の中へ運んだ。
「味がしないな」アリシアは片眉を釣り上げていった。
「もしかして調理しないといけなかったのか?」
「そうだろうな。まあしょうがない。もったいないし私が全部食べるか」アリシアはそう言ってパクパク口にエスカルゴを運び続けた。ディーンはその様子を見ていたが、途中で気持ち悪くなってアリシアから背を向けた。
缶詰の朝ごはんを終えて、ディーンが再び監視に戻ってしばらくした後、双眼鏡に飛行している物体が映った。ディーンはアリシアを手で招き、双眼鏡を覗かせた。アリシアは双眼鏡から目を離し、ディーンの目を見て頷いた。
「間違いない、リーンだ。何故かは知らないが随伴している機械化歩兵の姿が見えない。注意しろ」アリシアはディーンに囁いた。
ディーンとアリシアは黙って拳を突き合わしたあと、それぞれの持ち場へと向かった。
リーンはビルとビルの間を低速で飛行しながら偵察をしていたが、遠くに白黒の翼を持ったパラディオンが居るのを見ると、速度を上げてお互いの声が聴こえる地点まで飛んだ。
「アリシア、貴方を処分する命令がくだされました。ですが、貴方が正気に戻っているようなら連れ帰るようにも言われています。私としてはそんなことしたくはないですが」リーンは新婦のような白いドレスをはためかせながら言った。リーンは両手に大きなマズルブレーキのついた対物ライフルを持っていた。
「知ってるか、狂気に陥っている奴に限って自分を正常だと思い、周りを異常だと思うんだ」アリシアは見るものを不快にさせる笑みを浮かべて言った。元の造形が良い分彼女の不気味さを際立たせていた。
「それは貴方のことでは?ところで、こないだの貴方の情夫がいないようですが、もう別れてしまったのですか?」リーンはアリシアの周囲を回り始めた。
「ああ、あいつか。あんまりにも情けないから群れに返しておいた。肝心な時に役に立たない男だったよ」アリシアは挑発に乗らずに言った。
リーンはそれを聞いて暫くの間、微動だにせず黙っていた。アリシアはその様子をじっと見つめていた。
「なるほど、どうやら本当にあの男に逃げられてしまったようですね。まあ、それでいいのでしょう。貴方はパラディオンなのですから。パラディオンの任務は発情することではなく、発砲することです」
「お前こそいつもの可愛い可愛い機械化歩兵を連れていないじゃないか。もしかして、泣き叫んで逃げ帰るところをあいつらに見られたくないからか?」
「彼らは今回の作戦に必要ありません。むしろ、足手まといと言ってもいいでしょう。連れてきたところで動けなくなった貴方を解体するくらいしか仕事がないでしょうし」
「残念だ。あいつらも一緒にお前と同じ運命を辿らせてやろうと思ってたんだが」
「その可能性は極めて低いでしょう。私のスペックは貴方を圧倒しています。さあ、仰向けになってお腹を差し出し、許しを請うなら今のうちですよ?」リーンは無表情のまま銃口をアリシアに向けて言った。しかし、リーンの目の奥には暗い殺意が灯っていた。
「死にさらせダッチワイフ」アリシアはそう言って重機関銃をリーンに向けた。
アリシアが引き金を引く前にリーンはジェットエンジンを駆動させ一気に距離を離した。リーンの動きに少しだけ遅れてアリシアの重機関銃が火を吹いたが、リーンは既にアイギスシステムの干渉が限りなく零に近くなるほど距離を離していたため、銃弾は半透明の赤い防壁に阻まれ、リーンの身体を貫くことはなかった。
アリシアもジェットエンジンを噴かしてリーンの後を負ったが、距離は縮まりもせず、広がりもしなかった。リーンはアイギスシステムの干渉が起きない間合いを保ち続けた。リーンはアリシアの防御領域が脆く、対物ライフルでならそれを突破して致命傷を負わせられることを熟知していた。
(この距離を保てば一方的な殺戮を楽しめる…)リーンはそう思いながら対物ライフルを脳内の射撃管制装置と神経接続し、ホロサイトを覗きこむことなくアリシアに狙いをつけ、必中のタイミングを引き金に指をかけながら待った。リーンは2丁の対物ライフルを少しだけタイミングをずらして撃つことで、片方を回避してももう片方が当たる位置を割り出していた。
アリシアは片手で重機関銃を撃っていたが、半透明の赤い壁に銃弾が無効化され地面に落ちているのを見ると地表近くを飛び、マンホールを軽々拾い上げた。リーンが2丁の対物ライフルの引き金を引いた瞬間、アリシアは身体を捻り一発の銃弾を回避し、もう一発の銃弾をマンホールの蓋を防御領域で保護することで凌ぎ切った後、蓋をリーンの顔に向かって投擲した。
リーンはその行動に少し驚いたものの、落ち着いて最低限の動きで回避し、距離を詰められないようにした。リーンは再び注意をアリシアに戻そうとしたが、視界からアリシアはいなくなっていた。
(消えた…?)リーンはそう考えた。リーンは意識を集中させ、アリシアの居場所を探った。反応は地下からだった。
(なるほど…地下街に逃げたのね…)リーンはそう考え、近くの地下街の入り口へ向かった。
地下街は10年以上前ではあまり上品とは言いがたい人々の社交場、つまり酒場が並んでいる場所だった。現在ではその頃の活気の面影もなく、あちこちにある酒場の椅子や廃材、落下した天井などがその場を支配していた。リーンは空を舞う埃をアイギスシステムで弾きながら、地下街を純白のドレスを汚さないように気をつけながら進んで行った。
(アリシアは今の私には追いつけないと判断して、私を閉所に誘導して奇襲を仕掛けるために地下へ逃げたはず…。だけど、そうはさせない)リーンはそう考えていた。
リーンは長い地下街を時折アリシアの位置を探りながら進んだ。アリシアは地下街を進んでいたが、突然反応がなくなったのをリーンは感じ取った。リーンはアリシアの反応が消えた場所に向かって脚を進めた。
アリシアの反応が消えた場所は今まで通った中でも最も開けていたが最も障害物が多い場所だった。昔ここで戦闘が行われたのか、あちこちに銃痕や、土嚢で作られた防壁などが見られた。人の白骨化した死体もあちこちに転がっていたが、リーンはそれを無視した。リーンは集中を高め、アリシアが仕掛けてくるのを待ち構えながらゆっくりと進んだ。
「無駄ですよ、アリシア。私は貴方がここに居るのを知っています」リーンは平坦な調子で言った。そして、次の瞬間リーンは徐ろに対物ライフルで閉じられたシャッターを撃ちぬいた。
「ああああああああッ!」シャッター裏からアリシアの絶叫が聞こえた。
「どこに隠れたって無駄です。それにしても良い悲鳴ですね。今出てくればアイオーンに連れ帰って治療した後で拷問してあげますよ?」リーンは言った。
アリシアはシャッターを突き破り、スモークグレネードをリーンの方に投げた。リーンは最後の悪あがきを警戒して煙の中から脱出したが、アリシアはいつまでたっても攻撃してこなかった。
煙が薄まっていくと、地面に血が付着しているのに気がついた。出血の量は夥しく、かなりのダメージをアリシアに負わせたことをリーンは確信した。リーンは血の跡を辿り始めた。
血の跡は地下街から地上へと続いていた。リーンは獲物を仕留める時を今か今かと待ち望んでいたが、詰めを誤らないようにする冷静さは失っていなかった。
アリシアは地上のかつて名を馳せた大企業の本社ビル前でリーンを待ち構えていた。先ほどリーンの放った弾丸は太ももに命中したようで、布で縛ってはいたが、傷口からはまだ血がだらだら流れていた。対物ライフルで撃ちぬかれようものなら、通常、脚なんて簡単に吹き飛んでしまうが、アイギスシステムのおかげでその威力を小銃のものと同じくらいに留めていた。とはいえ、通常の人間なら出血でショック死してしまうほどの重傷ではあった。
「ハンデを与えてあげましょう。これから貴方の得意な格闘戦をしてあげます。それで決着をつけましょう」リーンは両手の対物ライフルを捨て、片方の手にナイフを持った。リーンの興味は既に戦闘から、戦闘後の拷問に移り変わっていた。リーンはアリシアの得意分野で勝つことで、アリシアのパラディオンとしての誇りを失わせ、心を粉砕しようとしていた。パラディオンにとって戦闘とは全てであった。
アリシアは返事をせず、重機関銃を捨て、刀身に反りの入ったナイフを抜く。二人は空中へ飛び上がった。
最初に仕掛けたのはアリシアだった。ほとんど予備動作なしにナイフでリーンに斬りかかったが、リーンはそれをスラスターを吹かせることで回避した。もしも、これが人間同士の対決だったら、リーンにこれを躱す術はなかったが、カルディアユニットから供給される莫大なエネルギーをジェットエンジンやスラスターに回すことで、リーンは三次元機動をとって回避する事が出来た。リーンは回避を続けることでアリシアが出血多量で倒れるのを待っていた。アリシアはその前に決定打を与えようと連撃を仕掛けたが、万全とはいえないコンディションではナイフがリーンを捉えることはない。
アリシアはリーンにまるで蛇が獲物に噛み付こうとするように鋭い突きを放ったが、リーンはそれを回避した。しかし、この一撃はフェイントだった。格闘経験のないリーンはそれに気づくことが出来なかった。リーンはブーツのつま先からナイフを展開させ、上段蹴りをリーンの頭に向かって繰り出す。
リーンは咄嗟にそれを腕で防いだが、ナイフが深々とリーンの機械化された腕に突き刺さった。アリシアは手応えを感じ、追撃を入れようとしたが、リーンの腕に突き刺さったナイフが抜けなくなっていた。
「ふふふ……こないだみたいに叫び声を上げて逃げ出すと思いましたか……?私が何も対策をしてこないとでも……?」そう言いながらリーンは動けないアリシアの頭を掴み、万力のような力でアリシアの頭を握りつぶそうとする。
「が……ッ!」アリシアは小さく声を上げた。
「そんな訳ないですよねぇ……?もうあんなに痛い思いをするのは嫌ですよ……。だから私はアイオーンに帰って、脳内のコンピューターを調整して、痛みを遮断出来るようにしたんです……。副作用のおかげで物を握る感触もなくなっちゃいましたけど……。だからちょっとやり過ぎちゃうかもしれませんね……?」リーンは愉快そうな笑みを浮かべながら言った。彼女が前回と異なり、冷静に戦いを進められたのは、痛覚をなくすことで痛みへの恐怖がなくなったからだった。
「あ……あ……ッ!」アリシアはじたばたと手足を動かしたが、その動きは逆にリーンを興奮させていた。
「痛いんでしょ……?当然の事です。私は貴方を殺すつもりでやってるんだから……!」リーンは腕に刺さったアリシアのブーツの刃を抜き、自分が持っていたナイフをしまった。
「死ぬほど痛いでしょ……?私も貴方に刺された時、一晩中泣きながら家に帰ったんですよ……。さあ…貴方の泣き顔を見せてください……!」リーンはそう言って頭を掴んでいない方の手でねちっこくアリシアのカルディアユニット、胸から横腹、そして太ももに手を這わせ、最後に銃創に触れた。
「がっ……あ……ああ……っ!」アリシアは痛みに耐えかねて声を上げたが、涙は流していなかった。
「さあ……早く泣いてくださいよ……!早く……さあ……!泣け……!涙を流せ……!血の涙を……!さあ……!さあ……!さあ!さあ!さあ!」リーンは声を張り上げて言った。最初の頃見せていた冷静さと丁寧さは影を潜めていた。リーンはアリシアのズボンを破いた後、太ももの傷口を弄り続け、時折指についた血を舐めた。そして、だんだんと指は傷口の中心へ向かって行く。
「あ……いやあっ……ぁ……っ!や……やめ……っ!」アリシアはリーンに懇願しようとしたが、最早それはリーンにやってくれと言っているようなものだった。リーンは傷口に指を突っ込んだ。
「ああああああああああああああああああああああああッッッ!」アリシアは絶叫した。リーンは傷口の中へと指をどんどん進めた。
「ああああああああっがあああああああああッ!」アリシアは何とか意識を保っていたが、それはリーンにやりがいを与えているだけだった。
「あはははっ!さっきまでの威勢はどこに行ったのでしょうねぇ!傷口に指を突っ込まれてよがる変態が居るとは思いませんでした!ねぇ……どんな気持ちですか?」リーンは傷口から指を抜き、アリシアの頭を引きよせ耳元に囁く。
「あ……あっ……あっ……」アリシアの目には涙が溜まっていた。リーンはその涙が零れ落ちる瞬間を待ち焦がれていた。
その時だった。リーンの背中に衝撃が走り、思わずアリシアを掴んでいた手を離してしまった。リーンは何が起こったのかすぐには理解出来なかったが、後ろから首に回された腕を見て状況を把握した。後ろにいたのはディーンだった。ディーンは大企業の本社ビルからリーンに向かって飛びかかったのだ。
後ろから取り付かれている……!)リーンはそう考え、取りついている人間を振り落とそうとしたが、なかなか上手くいかなかったため、スラスターを使って三次元機動をすることでディーンに過大なGをかけて殺そうとした。しかし、高速移動どころかだんだん高度が下がり始めていることにリーンは気がついた。
(出力低下……?ジェットエンジンも動かない……?どういうこと……?)リーンはそう思い、身体のパーツを急いで点検したところ、ブースターと機械の翼が破損していることに気がついた。ディーンは落下してリーンに取り付く時に、ナイフを翼とジェットエンジンに突き刺していた。位置エネルギーを利用した攻撃は飛行ユニット全体に甚大なダメージを与えていた。
(ダメ……高度を維持出来ない……!墜落する……!)リーンは機能を復旧させるために奮闘したが、健闘虚しく出力はみるみる零に近づき、リーンは地面に自由落下し始める。背中に取り付いていたディーンは地面に激突する前に離脱した。リーンは迫るコンクリートの地面に恐怖を覚えた。壁や地面への激突にはアイギスシステムが作動しないことをリーンは知っていた。
轟音と共にリーンは地面に落下した。しかし、リーンは地面に追突する寸前に一瞬だけスラスターを噴かせ、衝撃を和らげたことにより致命傷を免れた。
(右腕部破損、脊椎損傷、右肺損傷、その他臓器にいくつか損傷あり…。戦闘続行、可能)リーンは全身を0.1秒でスキャンした後、そう判断をくだしながら土煙の中から起き上る。
(殺す……殺す……殺す殺す殺す!)リーンはそう思いながら意識を集中させた。
リーンの能力は一時的な聴覚強化だった。有効範囲半径1km以内の音を障害物の影響なく正確に聞き取ることでリーンは索敵を行っていた。前回の戦闘でディーンを見つけられたのは、ディーンが流した汗がコンクリートに落ちる音を聞き取ったからだった。今回の戦闘開始時にディーンは一切の動きを取らず、ひたすら屋上でじっとし続けていた。緊張も興奮もせず、平静を保つことでディーンは屋上の床と一体化し、物音を全く立てていなかった。
リーンは土煙の中で自分をこんな目に合わせた男を探した。
「よう、俺をお探しかな?クソッタレ」ディーンの声が聞こえた。リーンは100m近く先にディーンが居るのを確認した。リーンは強大な脚力で地面を蹴り、ディーンを殺しに向かう。
ディーンは大怪我を負っていた。リーンですら着地時に大ダメージを受けたのに、人間であるディーンが無事のはずがなかった。土煙の中から飛び出したリーンは、ディーンが半死半生の状態で右腕をリーンの方に向け、手で銃の形を作っているのを目にした。
「バァン」ディーンは小さく呟く。
次の瞬間、リーンの背中から爆音と閃光が発せられた。それはスタングレネードだった。ディーンは離脱するときに背中にスタングレネードを引っ掛けていたが、痛覚と同時に触覚を失ったリーンはそれに気づくことが出来なかった。
飛行機のエンジンを上回る爆音は、強化状態だったリーンの聴力を完全に破壊し、それを司っていた脳内コンピューターも過負荷で破損する。リーンの三半規管は見当識失調を起こし、平衡感覚を失い地面に倒れた。それと同時に、脳内コンピューターの破壊によって痛覚遮断が解除され、リーンの身体はだんだんと痛みを取り戻していった。
「あああああああああッ!」痛覚が蘇ったリーンは今まで無視していた全身の痛みを一瞬で味わい、地面の上を芋虫のようにのたうち回りながら大粒の涙を流した。
アリシアが片脚を引きずりながら現れた時には、リーンの喉は枯れ果て、身体はビクビク痙攣を起こしていた。
「無様だな」アリシアはリーンを見下しながら言った。その表情には怒りも侮蔑も同情も浮かんでいなかった。リーンは喘ぐだけで返事をすることが出来なかった。
「お前はさっさと私を殺すべきだったのに、自分自身の娯楽のために拷問を優先した。お前はパラディオン失格だ」アリシアは言った。
「私はあのビルの下に誘導していたんだ。お前の異常性癖をそこでぶっ倒れてる人間は見抜いていたよ。お前が私を倒したらその場で拷問を始めるだろうとあいつは言った。そして、その瞬間が勝機だとも言った。お前は私の苦しむ演技を真に受け、まんまと策に嵌ったのさ」アリシアはそう言いながら低空に浮かび上がり、爪先からナイフを展開させる。リーンはそれを見て目を見開いた。
「嫌……やめて……」リーンは何とかその言葉を絞り出した。
「安心しろ。私はお前ほど悪趣味じゃない。すぐに殺してやる」そう言うアリシアの表情に一切憎しみはなく、むしろ慈しみすら感じさせた。
「お願い……やめて……何でもするから……助けて……っ!」リーンはアリシアに縋りつこうとしたが、アリシアは高度を上げてリーンの手を躱した。
「私がさっきそう言った時お前はどうしたかな?まあ、そんなことはどうでもいい。勝負は決した。潔く、死ね」アリシアはそう言ってリーンの胸元のカルディアユニットに蹴りを放つ。リーンはそれを腕で防いたが、折れた片腕と、ナイフで刺されたもう片腕ではアリシアの激烈な蹴りを止めることは出来なかった。リーンの折れていた方の腕は千切れ、宙を舞った。
「いやああああああああああああああっ!」リーンは掠れた声で悲鳴をあげた。
「だから余計な抵抗をするなと言ったのに…」アリシアはそう言いながら、もう一回蹴りを放った。リーンは残された腕でそれを防いだが、長く持ちそうにはなかった。
アリシアは攻撃を休めず、美しい脚を唸らせ更にリーンを蹴る。リーンは必死にカルディアユニットを守ろうとしていた。しかし、アリシアのキックは軌道を変える。アリシアが本当に狙っていたのはリーンの腹部だった。
「ごはあっ……げほっげほっ」リーンは低い声を出した。リーンはアリシアのフェイントに対応することが出来なかった。深々と刺さったナイフを抜くと、リーンの純白のドレスに朱が広がっていった。苦悶の表情を浮かべたリーンの喘ぎ声はだんだん大きくなっていった。
「悪かったな。こうでもしないとお前が抵抗するのをやめてくれなさそうだったから」アリシアは少し申し訳なさそうに言った。
リーンの身体の中の力は今の一撃で全て消え去った。激しい出血を抑えようと手を当てているが、力が入らず全く意味を成していない。リーンの目からだんだんと光が消えていった。
アリシアは前蹴りをカルディアユニット目掛けて放った。リーンは動かなかった。つま先のナイフが、宝石状のカルディアユニットに吸い込まれていく。アリシアは蹴りのラッシュを仕掛けた。だんだんと宝石のヒビが広がっていき、そしてアリシアの呼吸を整えた最後の一撃で粉砕された。
リーンの目が大きく見開かれ、表情から苦しみが消え去った。アリシアはその様子を少し離れた場所から見つめていた。リーンは青白い光に包まれた。
「え……何……?」リーンは急激に苦痛が薄れたことに気が付き、身を起こそうとしたが、彼女の身体はかたつむり程にも動かなかった。
次の瞬間、リーンの身体が少しずつ光になって空へ上り始めた。その幻想的な光景はどんな花火よりも美しかった。
「嫌……っ!そんな……!死にたくない……!」リーンは仰向けで空に向かって声を発した。そう言う最中にもリーンの身体はどんどん光になって空へ登っていった。リーンは母親に叱られ、駄々をこねる少女のような表情を浮かべた。空へ消えていくリーンは勇猛果敢かつ絶対無敵のパラディオンではなく、一人の少女だった。
「たすけ……」リーンはアリシアの方に顔を向け、一筋の涙を流してそう言った後、完全に光になって空へ登っていった。アリシアは見えなくなるまで光を見送った。残されたのはリーンが着ていたドレスだけだった。アリシアはそれを拾い、少しの間それを見つめた後呟いた。
「自由になれたか?」
アリシアはディーンのところへ向かった。ディーンは苦しげに唸っていたが、アリシアを見ると少し口の端をあげた。
「殺ったのか?」ディーンは小さな声で言った。
「ああ、あいつは逝ったよ。空に消えていった」
「そう、か……」そう言ってディーンは目を閉じた。アリシアはそれを見て急いで近寄ったが、ディーンは寝息を立てていた。アリシアは少し息を吐いた。
「助けに来るのが遅いぞ、馬鹿野郎」アリシアはディーンを抱えながら言った。
「でも……」アリシアはここで言葉を切った。
「まあいい。おやすみ、ディーン」アリシアはディーンの髪を撫でて言った。